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「祝福は 心貧しき者にあり」

2022年8月7日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第16章19-31節


19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。

21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。

26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。

28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』

30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』

31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


 新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を祈ってから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈りと呼ばれているへブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


 2006年、エルンスト・バルラハという彫刻家の展示会に行きました。バルラハは、ナチス時代のドイツに生きた人でした。さきほどの賛美の動画にも出てきましたが、イエスさまとトマスの木彫は見る者に感動を与えます。バルラハは、生きる悩みを抱えドイツからロシアへ旅をしたことがありました。田舎に行けば行くほど、人びとの生活は貧しくなり、物乞いが増えていきました。バルラハは、多くの物乞いの木彫を制作しています。物乞いが、食べ物を恵んでくれるよう、必死に手を差し伸べている姿です。正座して、腰から背中、そして腕から手先まで、直線的に真っ直ぐに伸びているのです。バルラハは、この物乞いの姿に、神の恵みを求める信仰の本質を見たのです。神の助けなしには生き得ない姿です。自分の力にも富にも頼ることのできない、だからこそ、神の恵みだけを求める、貧しい者の幸いを見たのです。私自身も、物乞いの木彫の前で、ああ、私も神さまの恵みだけを求める物乞いなんだと思いました。


 今日のイエスさまの譬え話の中に、物乞いとして生きたラザロが登場しています。イエスさまはラザロと金持ちを通して、死後の世界を見せながら、パリサイ人たちに、信仰と富との正しい関りと教えようとしておられます。イエスさまが、死後の世界を詳しく話してくださったのは、この譬え話だけです。一度聞いたら忘れられないほど、とても印象的なものです。みなさんも、死んだ後、どのようになるのか考えたことがあると思います。ただしこの世で語られている天国と地獄のイメージがあると、イエスさまの譬えを正しく聞き取ることができなくなることがあります。今日与えられたみ言葉だけから注意深く聞き取っていきたいと思っています。

 イエスさまは、金持ちとラザロによって、富と貧しさを劇的に対照しておられます。19ー21節です。


19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。

21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。


これを聞いたパリサイ人たちの考えはこうです。金持ちが豊かな富があるのは、神に祝福されている証し。神に祝福されている人は正しい人、つまり金持ちは義人だ。貧しく病んでいるラザロは、罪に対する神の裁きや呪いを受けているのだ。神の祝福とはまったく無縁の汚れた罪人でしかない。

 金持ちと貧しい人、まず、着ている衣が天地ほどの違いがあります。金持ちは「紫の衣や柔らかい亜麻布」です。「紫の衣」。当時「紫」に染める染料は貴重なもので、紫の衣はたいへん高価でした。「柔らかい亜麻布」、これは下着ですが、亜麻布もとても高価なものです。衣だけでも、この金持ちの富の大きさがよく表れています。

他方、ラザロの衣は何でしょうか。一言も記されていません。ただし体を包んでいるものがありました。できものです。全身が腫れただれ傷だらけなのです。ひどい病です。ラザロの衣はできものでした。

 生活については、どのように対比されているでしょうか。金持ちは、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。「遊び暮らしていた」というのは「お祭りをしていた」という意味があります。どれだけのぜいたくの限りを尽くしていたのでしょうか。食事も豪勢であったでしょう。

 他方、貧しく病んでいたラザロの生活はどんなものだったのでしょうか。金持ちの門前に寝ていた。この「寝ていた」は「置かれていた」あるいは「投げ置かれていた」という言葉です。ラザロはひどい病で自分では歩けませんでした。金持ちの豪勢な屋敷の、立派な門の片隅に投げ置かれていました。金持ちの食卓は贅沢な食べ物が並んでいました。ラザロは、その食卓から落ちた食べ物でもいいから、食べたいと思うほど、飢えていました。

第15章の弟息子を思い出します。弟息子が貧しさに追い込まれ、汚れた豚の世話をするようになり、豚のえさを食べたいと思うほど飢えていましたが、誰も与えてはくれなかった。ラザロも同じように飢えていました。また豚ではありませんが、犬がいます。犬も、ユダヤの人たちにとっては汚れた動物です。ラザロは、病んで、歩くこともできず、飢え渇き、汚れた犬に舐められ、助けてくれる友もいませんでした。貧しさの極みでした。

パリサイ人は、金持ちは義人、ラザロは神の祝福から最も遠い罪人だと考えていました。

 金持ちもラザロも地上の生涯を終える時が来ました。22節23節。

22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。


ラザロは、葬りをしてくれる家族も仲間もいませんでしたが、イエスさまはこうおっしゃった。「御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」。アブラハムは、ユダヤ人が尊敬してやまない信仰の父祖です。「アブラハムの懐」という表現は、このままで恵みがにじみ出ています。具体的には、天の祝宴でアブラハムの傍らの祝福の席にいるということです。

 他方、金持ちは死んで葬られた。金持ちの葬儀はとても豪勢なものだったでしょう。しかし、金持ちはよみで激しく苦しんでいます。

 イエスさまは、私たちが言いなれている言葉で言えば地獄について、教えてくださいました。聖書では「よみ」と言います。新約聖書のギリシャ語では「ハデス」。旧約聖書のヘブル語で言えば「シオール」です。イエスさまは「よみ」という言葉をときどき語られましたが、ここで初めて「よみ」がどんなところかを具体的に話してくださいました。

死んだ後に行く世界は、ふたつに分かれています。ひとつはアブラハムの懐と呼ばれている幸いな世界。もうひとつの世界が「よみ」です。炎で焼かれるような苦しみの世界です。金持は死んでよみにくだらされたのです。

 私たちはコロナ禍の前、礼拝で使徒信条を唱えていました。その中で、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白しているように、イエスさまは、私たちが行かなければならなかったこのよみに、私たちの罪のために裁かれ、私たちの身代わりとなって、よみにくだってくださいました。

 パリサイ人たちは、イエスさまの譬えを聴きながら、激しい衝撃を受けたでしょう。アブラハムの懐に行くのは、金持ちのはずだと考えていたからです。

 しかし、イエスさまは神の真実を譬え話にしておられます。どうして、ラザロがアブラハムの懐に引き上げられたのか。ラザロは、神が遣わした御使いによって運ばれたのですから、神さまの目から見たら、ラザロは、正しい人、義人であったのです。

 ラザロが、どうして、アブラハムの懐の引き上げられたのか、これを解き明かす、たったひとつの鍵の言葉をイエスさまはおっしゃっています。ラザロという名前です。イエスさまは、たくさんの譬え話を語ってくださいましたが、譬えに出てくる人物に名前があるのは、ラザロだけなのです。また聖書は、私たち以上に、人の名前や地名の意味をとても大事にしています。ラザロの名前がこの譬えを解く鍵の言葉なんです。ラザロという名前は、旧約聖書のエレアザルという名前が、短くなったものです。意味は「神が助ける」です。

 ラザロは、初めは歩けたかもしれませんが、動けなくなり、物乞いになり、犬に舐められる屈辱を受けて、自分の貧しさを、無力さをとことん思い知らされた人です。立派な行いを積むことも、人に善い行いをすることはできませんでした。神の恵みと憐れみを乞うことしかできない、貧しい物乞いでした。神さまだけを頼り、神さまの助けを求めていたラザロを、神さまは義人と認めてくださったのです。神さまはラザロの名前の通り、ラザロを助けました。厳しい生涯でしたが、神さまがラザロを支え、生かしていてくださったのです。そして、アブラハムの懐へ引き上げてくださいました。貧しい者が、神さまの助けに拠り頼む、これこそが神の祝福なのです。

 イエスさまは、第6章ですでにこう教えておられました。20節21節です。


20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。

21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。


ラザロは、イエスさまがおっしゃった神の幸い、神の祝福の真っただ中にいたのです。


 他方、金持ちは、どうして、ハデスにくだらなければならなかったのでしょうか。富が悪かったのでしょうか。いいえ、金持ちが最後のところで語った言葉で明らかになっています。30節。


30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』


「悔い改め」です。金持ちは、ハデスの苦しみに落ち、信仰の父祖アブラハムを見たときに、どうして、自分がハデスに落とされてしまったかが分かったのです。悔い改めなかったからだ。旧約聖書の言葉で言えば、神に立ち返らなかったんです。金持ちは、ユダヤ人ですから、それも裕福なユダヤ人ですから、モーセと預言者の言葉、旧約聖書の神の言葉を聞いたことがあったのです。神に立ち返る大切さを知っていたのです。しかし、思い通りに楽しむことができたので、富を誇り、富に頼り、富が金持ちの神になってしまっていたのです。真実の神に立ち返って、神に拠り頼んで生きようとは、これっぽっちも思わなくなっていました。悔い改めは、方向転換です。富から神へ方向転換しなかったから、炎の中にいることが分かったのです。富が悪いのではなく、神に立ち返って、富も神からいただいた恵みとして大切に管理すればよかったのです。金持ちは、せめて家族には悔い改めてもらって、よみに来ることがないように願ったのです。

 イエスさまは、死後の世界を描きながら、悔い改めが神の祝福の要であることをおっしゃっているのです。振り返ると、イエスさまは、第15章から、ずっと悔い改めを語り続けておられます。迷い出た羊や銀貨の譬えの中心も、悔い改めでした。ひとりの罪びとが悔い改めたなら、天に大きな喜びがあるんだ、とイエスさまはおっしゃっていました。弟息子の譬えでは、悔い改めの言葉まで紹介しておられました。パリサイ人たちは、神に頼らず、自分の力や人の評価という富に頼って生きていたのです。イエスさまは、パリサイ人たちに、悔い改めて、神に立ち返って、神を神として、ほんとうの祝福に立ち返るように勧めておられるのです。

 イエスさまはこうおっしゃっているのです。富は神の祝福そのものではない。神の祝福は、神の助けなしには生き得ない貧しさを知って、神により頼んで生きる人に与えられるものだ。神に向きを変えよう、悔い改めよう、神に立ち返ろう、神の祝福が待っているんだ。ラザロをご覧、神は貧しいラザロを恵みと憐れみで助け続け、アブラハムの懐にある祝福へと引き上げられたではないか。あなたも神の助けが必要なラザロなんだ。神の祝福は貧しさの中にある。

 24節から、父アブラハムと金持ちの対話が続きます。金持ちは、ラザロが門前に投げ置かれていたことを知っていました。そのときから、神に呪われている者として、見下していたのです。ハデスにくだっても、ラザロを下に見ています。アブラハムにお願いはしているのですが、ラザロを自分の思い通りに使おうとしています。


24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。


神に拠り頼む貧しい者は幸いだ。神は貧しい者を助け、神の国は、貧しい者のものなんだ。


26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』


アブラハムの懐とよみの間には、越えられない大きな淵があります。


27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。

28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』


ラザロを、地上に生きている兄弟たちのところに遣わして、神に立ち返るように警告してください。


29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』


ここは大事です。地上の世界には、聖書があるじゃないか。神の言葉を正しく聞くなら、悔い改めることができるんだ。聖書の言葉を聞くだけで十分だ。


30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』


死んだラザロが甦って、兄弟たちの前に現れるなら、神を恐れて悔い改めるでしょう。


31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」


いいや、たとえ、ラザロが甦っても無駄だ。神の言葉に正しく耳を傾けないなら、悔い改めることはない。お前だって、神の言葉を知っていながら悔い改めなかったじゃないか。

イエスさまは「甦っても無駄だ」とおっしゃいましたが、イエスさまご自身、私たちの罪と死からの救いのために、よみから甦ってくださいました。

 先週、家が揺れるくらいの雷鳴が轟きました。近くに落ちたのではないかと思うほどでした。ニュースで、雷が落ちて木が燃える瞬間を紹介していました。雷が鳴り響くなか、ひとりの人を思い出していました。マルティン・ルター、教会を改革し、私たちが生きているプロテスタント教会の礎を築いた人です。

 ルターは、お父さんに弁護士になることを期待されて、大学で法律を学んでいました。ひととき実家で過ごして、大学に戻る時に、近くの木に落ちたとも言われていますが、雷に打たれ倒されてしまいました。死を恐れました。死が肌に触れてきたのが分かったのです。死ぬ前に神の義を得なければ救われないと、とっさに思いました。「お助けください。修道士になります」。大学には戻らずすぐにアウグスチヌス隠修修道会の裏門を叩いて、修道士としての修行生活を始めました。このとき、ルターは、神の義は、自分を裁く神の正しさの基準だと考えていました。その基準に達するために、神さまが義と認めてくださるために、真面目すぎるほど努力しました。しかし、どんなに修行しても平安はありませんでした。

 その真面目な修行を認められたルターは、聖書を教えるようになりました。み言葉と真正面から取り組むようになりました。詩篇やローマ書のみ言葉から、神の義は、神さまから恵みでいただくものだという理解に辿り着いたのです。そのときこう思いました。「天の戸が開かれた。私は天国そのものに入った。聖書の裁きの言葉が、新しく恵みの言葉に聞こえてきた」。このことを教会の塔の小部屋で経験したので、「塔の体験」と呼ばれています。ここから聖書の救いは、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」によるんだという、聖書を正しく読もうという運動が始まったのです。そこで強調していたのも悔い改めでした。宗教改革という教会の改革は、大きなイメージがありますが、聖書を正しく読もうといういたってシンプルな運動だったのです。ルターは、亡くなる2日前にこのような文章を書き残しています。

 「5年、農業にいそしまなければ、収穫の喜びの歌を理解することができない。40年、政治を司らなければ、政治哲学を理解することはできない。100年、聖書の言葉とともに教会に仕えなければ、聖書を味わったことにはならない。ほんとうに聖書を味わいたいのなら、神の言葉の前に跪かなければならない」。み言葉の深みに触れたルターらしい言葉です。そして遺言のようにこういう言葉を書き残しました。「私たちは神の物乞いである。これはまことだ」。

 教会を改革し、今でも、その言葉も行動も高い評価を得ているルター。しかし、ルター自身は、自分の力でも能力でもなく、すべて神からいただいた恵みだった。神の憐れみだけを求め続けた物乞いだったと告白したのです。それはルターの全生涯を一言で言い表した言葉でした。これは聖書を読む秘訣であり、信仰の本質を突いている言葉です。今日のみ言葉で言えば、すべて神の助けによるものだった。神がルターを助けてくださった。ルターもラザロだった。

 

 今日のみ言葉が、ハデスの恐れで委縮してしまうなら、それは正しく読んだことにならないでしょう。ルターが言ったように、聖書は裁くために与えられているのではなく、恵みによって救われるために与えられているのです。だからイエスさまはよみから甦られたのです。天の戸が開かれているのです。絶えず、どんなときでも、神に向かって方向転換し、神に立ち返ることができるのです。神さまは私たちが、いつでも神のもとに帰ることができるように、悔い改めという宝をくださっています。私たちは、神さまに向かって造られ、神さまに手を伸ばして恵みを求めている物乞いなのです。私たちの名は、ラザロ、神が助けてくださいます。お祈りします。


 父なる神さま。イエスさまは、貧しい者は幸いであると教えてくださり、今日、ラザロを通して、貧しい者の祝福を見せてくださいました。私たちは、ただただあなたの憐れみを求める物乞いです。ラザロです。しかしながら、私たちはともすると、神を忘れ、自分の力、自分の能力、人の評価、そのような富を求めてしまいます。そのように揺れ動く私たちに、悔い改めの宝を与えてくださっていることを感謝します。み言葉をひざまずくようにして耳を傾け、あなたに憐れみを求めることができるように助けてください。今、悩んでいる者、悲しんでいる者、疲れ果てている者がいます。主よ、どうかその貧しさの中にあなたの救いの祝福が始まっていることを知らしめてくださいますように。神の物乞いである私たちを、神の助けで満たしてください。主イエス・キリストのお名前によって感謝し、祈り願います。アーメン


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