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「神の国 あなたがたの ただ中にある」

2022年8月28日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第17章20-21節


20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。

見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」


新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を祈ってから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈り、へブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、み心を行わせてくださいますように。また、御前でみ心にかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

「神の国はいつ来るんですか」。私たちもイエスさまに尋ねてみたいと思うときがあるかもしれません。マタイの福音書の言葉使いなら、「天の御国はいつ来るんですか」。このルカの福音書で、イエスさまが一度だけ言われた言葉を使うなら「パラダイスはいつ来るんですか」となるでしょう。私たちは、その答えを、聖書のあちこちを開いて、捜します。

今日のみ言葉で質問しているのはパリサイ人たちです。パリサイ人たちは、旧約聖書をよく読んでいましたから、終わりの日に、メシア救い主が現れ、この地にダビデ王国のような神の国を再び起こして、神が王の王として世界を治めることになる、と理解していました。

しかし現実は、ローマ帝国の皇帝と呼ばれる王に、長い間、支配されていました。パリサイ人たちを初めユダヤ人は、自分たちは、神さまに特別に選ばれた神の民なのに、いつまで異国の王に支配される屈辱に耐えていなければならないんだ。一刻も早く、メシア救い主が、ローマ帝国を滅ぼして、神の王国を打ち建てて欲しい、とじりじりしていました。特にパリサイ人たちは、ほかの連中とは違って、自分たちは聖書の律法を守り行っているから、自分たちこそ神の国に入る資格があるのだ、と思っていました。また、常々、神の国が来る時には、天候や星に、何かしるしが現れるはずだ。どんなしるしなのか、気になってしょうがありませんでした。

そのようなときに活躍し始められたのがイエスさまでした。パリサイ人たちは、このイエスという男は、群衆を引きつける説教をするし、ツァラアトを癒すこともできる。ひょっとして、神の国の到来について、何か知っているかもしれない。尋ねてみた。「神の国はいつ来るのか」。20節。

イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。

パリサイ人は「いつ来るのか」と尋ねたのですが、イエスさまは、「これこれの時だ」とは答えられませんでした。神の国の到来は、神さまが権威を持って決めておられるからです。私たちはその時を待ち望むだけです。

しかし、イエスさまは、神の国の到来の神の秘密のほんの少しだけ明らかにしてくださいました。「目に見える形で来るものではありません」。「目に見える形」という言葉ですが、もともとの意味は、「観察」です。小学生の夏休みには、朝顔やミニトマトの成長を観察する宿題が出されます。観察は、じっと目を凝らして、些細な変化も見逃さないようにすることです。イエスさまは「神の国が来るとき、目で観察できるようなしるしはない」とおっしゃったのです。ですから、私たちの聖書は、「目に見える形で来るものではありません」と訳しています。

そして、イエスさまは、目に見えない形で来るのだから、人びとが「見よ、ここに来た」とか「あそこに来た」と言い出しても、それは間違いなのだから、惑わされないようにしなさい、と警告なさったのです。


そして、イエスさまは、神の国について決定的なことをおっしゃいました。

見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

私がこのみ言葉に初めて出会った時は以前の第二版の訳でした。「見なさい」ではなく、「いいですか」でした。「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」。私は「いいですか」と主に直に語りかけれ、神の国の謎がひとつ解けたような思いがしました。そのころ、何が謎だったかというと、聖書に、神の国は、未だに来ていないという言葉と、既に来たんだという言葉があるからでした。未だになのか、既になのか、謎めいていたんです。

こういうことです。イエスさまは、神の国は近づいているけれど、未だにここには来ていない。だから、「御国が来ますように(11:2)」と祈るように、主の祈りを教えてくださいました。

しかし、そのイエスさまが、悪霊を追い出したとき、こう言われました。第11章20節。

しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

イエスさまは、はっきり、神の国はあなたがたのところに既に来ているとおっしゃった。

さらに、もうひとつ悩ましいことがあります。イエスさまが伝道を始められた時、マルコ第1章15節でこうおっしゃいました。

時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。

この「近づいた」と訳している言葉は、もとのギリシャ語は「すでに来た」という言葉なのです。「すでに来た」を「近づいた」と訳しているのは、どういうことでしょうか。

私たちが東京に行こうと思って西千葉駅のホームで電車を待ちます。ホームから千葉駅の方を見ると、東京行の電車がだんだん近づいてくる。未だに電車はホームに到着していませんが、私たちは「電車が来た」、と既に来たんだと言います。この電車に乗ることを決めていますから、私と電車との関係が生まれているからです。これは日本語の言葉の性格のひとつなのですが、ギリシャでも同じだということを聞きました。カフェでコーヒーを待っている、ウェイターが運んでくるのが見えると、コーヒーが来たというそうです。同じように、神の国も、近づいて来ているとき、未だに来てないと既にここに来た、というふたつの言い方が成立するのです。未だにと既にが両立しているのです。神さまの出来事なので、私たちには理解しにくいかもしれませんが、聖書を読んでいく時に、この未だにと既にというふたつの見方があることは、とても大事なことです。私たちの救いも同じなのです。私たちは、神の国に入るとき、永遠のいのちで生きる永遠の体にしていただいて、私たちの救いが完成します。神さまが私たちの救いを天で完成してくださるということから考えると、この地上では救いは未だに完成はしていません。しかし、イエスさまの十字架と復活によってすべての罪が赦されたのですから、既に救われています。私たちの救いも未だにと既にが両立しているのです。

ただし、神の国は目に見えませんから、私たちは感覚的には、未だに来ていないと考えます。パリサイ人たちが、目で見えるしるしを求めたのはまさにその感覚です。信仰ではありません。もうひとつの事実、神の国が既にイエスさまと共にここに来ていることは、人間の感覚では捉え切ることはできません。だから、イエスさまは、「見なさい、神の国はあなたがたのただ中にあります」とおっしゃって、神の国がここに既に来ている神さまの事実を教えてくださいました。イエスさまは、神の国が既にあるという確信は、この世を生きていくときにとても大事な、そして必要な宝なのです、とおっしゃったのです。

私が、初めてこのみ言葉を知った時、そうか、あなたがたというのは教会のことだな、私も教会のひとりだから、私の心の中に神の国が既に来ているんだ。謎がひとつ解けた、私の心に神の国があるんだ、と飛び上がるぐらい嬉しくなったことを覚えています。イエスさまを信じている人たちの心に、既に神の国が来ている。

しかしながら、み言葉を丁寧に読んでいると、おやっと思うようになりました。というのは、イエスさまは、パリサイ人たちに尋ねられて、パリサイ人たちに対してお答えになっているのです。今申し上げた「神の国は心の中に来ている」という私の理解ですと、あなたがたと言われているのはパリサイ人たちですから、パリサイ人たちの心の中に神の国が来ていることになってしまいます。パリサイ人たちは、イエスさまを受け入れていないどころか、イエスさまに抵抗し、殺そうとも考え始めています。パリサイ人たちの心には神の国が入り込む余地は全くありません。では、どういうことなんだろうか。

イエスさまがおっしゃった「ただ中にある」が「心の中」ではないとすると、この「ただ中」をどう理解するかが、大きな鍵なのです。

教会の礼拝の形は、説教者は、学校の教師のように、会衆の前に立って、話すのが普通です。ただし教会の中には、説教卓を前と横から囲むような形にしているところがあります。説教者を囲むようにして、神の言葉を聴くのです。まるでイエスさまが群衆に囲まれて説教なさったときのような形です。会衆の真ん中で聖書朗読をする教会もあります。まさに会衆のただ中で神の言葉が読まれるのです。

今日のみ言葉も、パリサイ人たちや弟子たちがイエスさまを取り囲むようにして、イエスさまのお言葉を聴いています。そうすると、あなたがたのただ中にいますというのは、心の中というよりも、パリサイ人たちのただ中に、パリサイ人たちのところに、パリサイ人たちの間にイエスさまがおられるという意味ではないでしょうか。ヨハネの福音書第1章14節にこういう言葉があります。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

この「間に」と訳している言葉は、私たちの中にと訳せる言葉で書かれています。イエスさまは人となって来られ、私たちの心の中ではなく、私たちの間に住まわれた。これに倣うと、イエスさまは、神の国はあなたがたの間に、あなたがたのただ中にある、とおっしゃったのです。そして、イエスさまは、受け入れ信じた者の心に住んでくださいます。

もうひとつ大切なことは、どの福音書も、神の国は、私たちの心に入って来るものではなく、私たちが神の国に入る、神の国に入れていただくと語っていることです。ルカの福音書第18章17節。

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。

子どものように神の国を受け入れるなら、神の国を信じるなら、神の国に入ることができる、とおっしゃった。

また、イエスさまは、ヨハネの福音書第3章で、パリサイ派の重鎮ニコデモとの対話で、とても大切なこと言っておられます。5節。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

水と御霊、洗礼によって新しく生まれるなら、神の国に入ることができる。やはり私たちが神の国に入れていただくのです。考えてみると、心の中に神の国を留めていたなら、信仰は心だけの問題で、イザヤ書や黙示録が語っているような、この天地が崩れ去って、新しい天地と共に神の国が現れるという、人の想像をはるかに超える神の国の到来はあり得なくなってしまいます。ただし、神の国が来ることを信じる信仰を否定しているのではありません。

「見なさい、神の国はあなたがたのただ中にあるのです」。イエスさまは、神の国は見える形では来ないとおっしゃったばかりなのに、見なさいと言われた。ここにイエスさまの強い思いが込められています。あなたがたは、目で見えるしるしを捜しているが、見るべきものを、教えよう、と言っておられるのです。

ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネは、イエスさまが自分の方に歩いて来られるのを見たとき、ヨハネの福音書第1章29節。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」、イエスさまを指し示して、「見なさい、イエスさまを」と言いました。

この「見よ」と今日の「見なさい」は同じような言葉です。ここでイエスさまは、ご自分を指し示して、パリサイ人たちに迫っています。「見なさい、わたしを。わたしは神の国を解き明かし、病を癒し、悪霊を追い出している。わたしの言葉とわざが、神の国のしるしではないか。神の国はわたしと共にある」。そうです。神の国は既にイエスさまと共に来ているのです。さきほど、イエスさまは、神の指で悪霊を追い出したとおっしゃいました。神の国はイエスさまと共にあるのです。パリサイ人たちは、目の前に、イエスさまがおられるのに、神の国がイエスさまと共に既に来ていることが分からないのです。神の国は、いつくるんだろう、どんなしるしだろうとしか、考えることができなかったのです。


では、周りにいる弟子たちは、イエスさまのこの言葉をしっかり理解していたでしょうか。残念ながら、いいえと言わざるを得ません。ルカ第21章5節以下で、主イエスが、神殿が「崩れ去る日が来る」「終わりの日が来る」とおっしゃったとき、弟子たちは、パリサイ人たちと同じように「先生、いつ、そのようなことが起こるのか。どのようなしるしがあるのか」と尋ねました。また、イエスさまが十字架の死から復活なさって、天に昇られるとき、「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」と尋ねました。使徒の働き第1章6節です。弟子たちも、イエスさまが救い主メシアとして再び来られることがまるっきり分かっていなかった。弟子たちが、神の国の到来を理解するには、聖霊降臨の日に、聖霊が注がれるのを待たなければなりませんでした。

弟子たちは何と鈍いんだ、と他人ごとのように笑ってはいられません。私たちが、厳しい試練を耐えているとき、病と闘わなければならないとき、悲しみの涙に暮れているとき、私たちも、ああ、神の国は未だに来ていない、とても遠いところにある、と思いがちなのです。弟子たちと同じように、主イエスのお言葉と聖霊の助けがなければ、ここに神の国が来ていること、イエスさまが再び来られることを確信できないのです。どうしてでしょうか。


それは私たちの思い描く神の国は、平和と喜びにあふれている楽園のようにイメージしているからです。しかし、この世の生涯においては、次から次へと試練が襲いかかってきます。いつまでも思い煩いは無くならないのです。主イエスと共に神の国があるなら、苦しみがなくなるはずではないのか、と思ってしまうのは仕方ないことかもしれません。感覚的に神の国は未だに来ていない。しかし、神の国と共に来られた主イエスが、十字架のみ苦しみを受けられたことを思い起こしてほしいのです。

神の国にはどんなささいな罪も入り込むことができません。神さまが、私たちを神の国に招き入れたくても、罪まみれのままでは、決して、入ることはできません。イエスさまは、十字架で死のみ苦しみを受けてくださり、私たちのすべての罪を取り除いてくださって、神の国に入れるようにしてくださいました。神の国と共にある方が、神の国を支配なさっている神さまに、十字架で裁かれて死なれることは、どう考えてもあり得ません。しかし、私たちを救うために、神の愛の奇跡が起きたのです。

イエスさまが十字架につけられたとき、両隣に十字架に架けられた罪人がいました。ひとりは、イエスさまを嘲りました。しかし、もうひとりはこう言いました。第23章42節。

そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

この人はこう思っていた。イエスさまは、自分と同じように、この耐えられない十字架の苦しみを受けておられる。それなのに十字架につけた敵のような者たちのためにさえ祈っておられる。神の御子にしかできない祈りだ。イエスさま、あなたが神の国に入られるとき、隣にあなたを信じた者がいたことを思い出していただければ、これ以上の幸いはありません。ただし、この人も、神の国は、死んだ後に入るところだと考えていました。イエスさまは、驚くようなことをおっしゃった。第24章43節。

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

わたしを受け入れたあなたは、今、わたしと共に、既にパラダイスに、既に神の国にいる。罪人は驚きました。私は、今、イエスさまと共に既に神の国にいる。苦しみが消えたわけではありません。死から逃れることができたのでもありません。ああ、私の救いのために、御子が死の苦しみを受けておられる。御子のみ苦しみが神の国の入口となっている、何という驚くべきことか、何と幸いなことか。イエスさま、神の国はあなたと共にあります。

この地で、さまざまな悩みによってもがき苦しむ私たちにも、イエスさまは、気が狂わんばかりの十字架のみ苦しみを受けつつ、はっきり告げてくださいます。「見なさい、十字架のわたしを。わたしの苦しみによって、あなたの罪は赦され、あなたは救われた。あなたは神の国にいます」。

私たちは、今、地上にあって、イエスさまの十字架のみ苦しみから、神の国に入るように招かれているのです。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。イエスさまを受け入れている者は、既に神の国に入れていただいたのです。これまでの、神に国は死んだ後に行くところだというイメージは吹っ飛んでしまいます。確かに悩み苦しみのすべてが無くなるのは、天に帰るときまで待たなければなりません。しかし、イエスさまはおっしゃいます。わたしと共に神の国が既にここにある。望みをもって救いの完成を待ちなさい。既に神の国ここにあることが分かると、ローマ書に記されている神の国の恵みが、神の国から私たちに流れ込んでくるのです。第14章17節です。

なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

私たちが激しい試練の嵐にもみくちゃにされている中に、神の国にあふれている聖霊による義と平和と喜びが与えられるのです。イエスさまが私たちのどんな苦しみよりも、はるかに深く重いみ苦しみを受けながら、共にパラダイスにいるとおっしゃったからです。

この説教の後、讃美歌520番を賛美します。1節は、荒波の海を渡るように、憂いや悩みの多いこの世を生きていくときも、心安し、心に平安がある。2節は、望みが砕かれることがあっても、心は安らいでいる。3節は、わたしの罪は十字架で死んだんだ、喜びをもって救いの道を歩み続けることができる。4節は、この世の終わりの時、この天地が崩れても、神の国に入るのだから平安だと歌います。私たちも、世の終わりだけではなく、試練多いこの日々も、聖霊による喜びによって、望みを失うことなく、心安く、歩み続けることができます。そのためにイエスさまはおっしゃいました。見なさい、わたしを。わたしと共に神の国はあなたがたのただ中にあります。お祈りします。


神さま、あなたが王として支配なさっている神の国は、未だに来ていませんが、イエスさまはおっしゃいました。わたしがいるところ、わたしと共に神の国がある。はかり知れない恵みを心から感謝します。心が縮こまっているとき、どうしても、神の国がはるか遠くにしか思えなくなってしまう、貧しい信仰をお赦しください。どうか、イエスさまのお言葉によって、目が開かれ、イエスさまと共に神の国が既にここに来ていることを、信仰の目で見ることができますように。息が詰まるほど呻いていても、神の国の聖霊を深く吸って、心安く、望みを失うことなく、喜びをもって、歩み続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。

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