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「十字架は パラダイスへの 門となる」

2022年4月3日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第23章39~43節


十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」


 1997年4月、41歳、私は東京基督教大学に入学しました。大学という名の神学校です。子ども3人を引き連れて家族寮に入りました。同級生は、高卒18歳。自分の子どもでもおかしくない年齢の若者たちでした。聖書の学びのひとつひとつがほんとうにおもしろかった。肉体的にはなかなかハードな生活を強いられまました。疲れを覚え始めていた時、学生会がコンサートを開いてくれた。会場は食堂。なかなか立派な建物です。コンクリート打ちっぱなしの天上の高い空間。全寮制ですので、若者たちはここで朝昼夕と食事をします。コンサートは夕食後、陽はどっぷりくれていました。照明のために電気を落としていたので、上映前の映画館のよう。秋だったと思います。ちょっとひんやりしていました。席について、上着を持ってこればよかったなと思っていたら、照明が、ぱっと舞台を照らし、天国の光が射してきたようでした。すぐに岩淵まことさんが歌い始めました。「ぱっぱっぱ~パ~ラダイス、ぱっぱっぱ~パ~ラダイス」。

 岩淵さんご夫妻の長女あきこちゃんは6歳の時に脳腫瘍が発症し、8歳で天に帰りました。娘の死を見守った経験から、御子イエスが十字架で死なれるのを見守った父なる神さまの悲しみがよく分かるようになった。そこから「父の涙」というしっとりした曲が生まれました。私は「父の涙」をよく歌っていたので、「ぱっぱっぱ~パ~ラダイス、ぱっぱっぱ~パ~ラダイス」と、弾むような喜びで歌い始められたので、ちょっと戸惑ってしまったことを覚えています。

 後に、岩淵さんが証ししておられました。「娘を天に送ったことで、天国がとても近くなった。すぐそばに扉があって、そこを開けるとそこが天国のような感じなんだ」。なるほどと思いました。天国が近いから「ぱっぱっぱ~パ~ラダイス、ぱっぱっぱ~パ~ラダイス」と、天国にいるように歌えたんだ。私たちはどのぐらい天国を近く感じているでしょうか。今日のみ言葉で、天の御国が、天国が、パラダイスが、私たちにいっそう近くなることを願っています。

 私たちは、次週4月10日から始まる受難週に先立って、4月15日のイエスさまの十字架のご受難に心を向けて歩み始めています。そのためにイエスさまが十字架で祈られた七つの言葉をひとつずつ礼拝で心に刻んでいます。今日は第2の言葉「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。

 イエスさまはパラダイスとおっしゃいました。パラダイスという言葉は、4つの福音書ではここだけ。新約聖書全体でも3回だけしかありません。いつもは神の国とか天の御国、あるいは天国と言っています。パラダイス。みなさんはどんな印象をお持ちになったでしょうか。パラダイスは楽園という意味ですが、私たちの回りでもよく使われている言葉です。人間的に楽しいあるいは豊かな場所を言い表しています。今日、私たちが一番初めにしなければならないのは、イエスさまはパラダイスをどんな意味でおっしゃったのかを知ることです。犯罪人は「御国に入られるときは」と「御国」と言ったのに、イエスさまが十字架の上で、御国と言わず、神の国あるいは天国とも言わず、パラダイスとおっしゃった。

 ルカの福音書を記しているギリシャ語では「παράδεισοςパラデイソス」です。英語のパラダイスのもとの言葉です。ただしギリシャ語「パラデイソス」は、当時、大きな国であったペルシャから来た言葉でした。どのようなところを指す言葉かというと庭です。それもペルシャの王さまの宮殿の庭。高い塀に囲まれていて庶民は入ることも覗くことさえできません。広大な敷地、青々と茂った木々、豊かな実り、色とりどりの花々、庶民の憧れでした。まさに楽園のような庭を、英語で言うとパラダイスと呼んでいた。

 しかしながら、イエスさまがパラダイスと言われたときに、こころの中に描いておられたのは、ペルシャの王宮の庭ではないでしょう。エデンの庭、エデンの園です。創世記、アダムとエバに与えられた楽園です。


神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。(創世記第2章8節)


広さも豊かさも王宮の庭どころではありません。さらにイエスさまがパラダイスとおっしゃったのは、もっと深い意味がありました。パラダイスは神が人とともにおられるのです。神と人はとても親しい関係でした。またエデンの園には「いのちの木」があった。人はいのちの木の実を食べると永遠に生きることができるのです。パラダイスは、永遠のいのちで神とともに生きるところです。


神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記第3章22節)


最初の人が罪を犯したので、神さまは人がいのちの木の実を食べて永遠に生きることができないように、エデンの園から人を追い出されました。しかし、神さまの深い憐れみは、イエスさまの十字架によって、エデンの園、神と共に住むパラダイスに、人が帰ることができるようにしてくださったのです。

 ルカの第23章は、イエスさまが、罵倒され、釘打たれ、苦しみのなかで死んでいかれる姿を語り続けています。44節で全地が暗くなることで象徴されるように、暗闇に覆われているような十字架の場面です。イエスさまが十字架の上で、パラダイスと言われたとき、パラダイスにある永遠のいのちの輝きが、み言葉から輝き出しました。岩淵さんのコンサートが始まったとき、部隊が照明にぱっと照らされた瞬間に似ているかもしれません。暗黒に包まれた十字架から、天の輝きが閃光のように輝いたのです。今日のみ言葉は、パラダイスという言葉の輝きのせいでしょう、十字架の激しい痛みと苦しみを忘れさせてしまうような明るさがあるのです。

 ルカの福音書は、ゴルゴダの丘に、3本の十字架が立てられたことを明確に記しました。イエスさまを真ん中に、左と右に犯罪人。三本の十字架、イエスさまを中心に会話が始まりました。ここに教会の原型があるとよく言われます。

 一人の犯罪人はイエスさまをののしりました。


十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。(39節)


十字架の周りのイエスさまを罵っている人たちと同じ言葉を、イエスさまにぶつけました。議員たちも兵士たちも、十字架の上のイエスさまに向かって「神のキリストなら、ユダ人の王なら、自分を救ってみろ」と罵り蔑んでいたのです。皮肉にもイエスさまは、キリストであり、ユダヤ人の王であられるのですが。この人たちは「自分を救ってみろ」とだけ言っています。はじめの犯罪人は、それに加えて、俺たちを救えと言いました。十字架につけられた痛みから救えるものなら救ってほしい。流れ出る血と共に命がどんどん流れ出ていくなかで、叶うことのないとは分かっていても、一縷の望みを託したのかもしれない。死の闇にずぶずぶ沈みつつある者の絶望の言葉です。

 もう一人の犯罪人はこう言ってたしなめた。


すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。(40節前半)


「お前は神を恐れないのか」。もう一人は神を恐れています。神を恐れることは、へりくだって神を崇めることです。神を恐れることは聖書の中心のメッセージのひとつです。箴言第9章10節。


主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言第9章10節)


神を恐れることから、神の知恵を知り始めます。神を恐れることから、神の救いが始まります。犯罪人たちは神を恐れることなく、神の知恵に聞くこともなしに、犯罪に走ってしまいました。もう一人の人は、十字架の上で、神を恐れることを知りました。どのようにして神を恐れることを知ることができたのでしょうか。

 犯罪人たちは絶叫せざるを得ない十字架の激痛のなかにある。人の口から出るのは叫び声や絶望の言葉、あるいははじめの人のように悪態をつく言葉でしかない。もう一人の人は見ていた。イエスさまも同じ痛みのなかにあるはず。しかし、この方は、絶叫でも絶望でもなく、自分の救いを求める言葉でもなく、自分を十字架につけた人たちのために祈っている。イエスさまの「父よ、彼らをお赦しください」という祈りを間近で聞きました。その視線はしっかり天の神さまに向いている。十字架の上で敵のために父なる神さまに祈っている。その姿は神々しく、天の光で照らされているようだった。同じ十字架の痛みにあったからこそ分かった。この方はただの人ではない。みんなが言うようにキリストであり、神の御子だ。何ということだ、父なる神に神の御子が裁かれておられる。御子は罪びとの赦しのために、ご自分のいのちまでささげて祈っておられる。この方は罪びとのために祈りだけでなく、いのちまでささげておられる。何も悪いことはしておられない。


おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」(40節後半~41節)


もう一人の人は、今、自分が十字架についているのは、自分の犯した罪が裁かれているのだから、当然だ。神を恐れることを知り、自分の罪を認め、悔い改めることができたのです。これこそ神の知恵です。この方は十字架につけられなければならない悪いことも罪も一切何もしておられない。神の御前にへりくだってこう続けました。


そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)


もう一人の人は、十字架の上ですからひざまずくことはできませんが、心はひれ伏すようにして言ったのです。「イエスさま、あなたは神の御子であられます。しかし、あなたも私たちと同じように死なれるのでしょう。ただしあなたは死なれたのち、御国に入られる方です。御国で王座に着かれるとき、こんな馬鹿なやつがいたんだと、一瞬でも心にとめていただければ、こんな幸せなことはありません。あなたのあわれみをほんの一瞬だけいただければいいのです。あなたのあわれみだけが、私がこの地にいのちを授かった証しになりますから」。これはイエスさまがキリストであること、神の御子であることを信じた信仰の告白の言葉です。イエスさまは、今ごろ何を言っているんだ。お前は十字架刑になるぐらいの大犯罪人ではないか。神さまだってお前を赦しはしない、とは言われませんでした。


イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)


 神を恐れ、罪を認め、悔い改めた人を、イエスさまは「今日、わたしとともにパラダイスにいる」と受け入れられました。この人の信仰の言葉も存在も受け入れられたのです。この人の神に対する罪は主の十字架のゆえにすべて赦されました。だからと言って、十字架から降ろされることはありません。社会に生きた者として、社会に対して責任は果たさなければなりません。十字架刑を全うして死ななければなりません。しかし、イエスさまを信じただけで、神さまに対する罪をすべて赦され、十字架の上でパラダイスに招かれました。

罪が赦される厳粛さは「まことに、あなたに言います」に表れています。これは「アーメン、あなたに告げる」「とても大切な真実をあなたに言い渡す」という意味です。これまでイエスさまが弟子たちに神の真実を教えるときに「アーメン」と言ってから話されました。十字架の上で、この人は弟子として迎えられたのです。「アーメン、あなたはわたしを信じたので赦された」。赦されたからこそパラダイスに迎え入れられたのです。パラダイス、神と共にあるところ、永遠のいのちが与えられるところです。じゃ、いつ与えるんでしょう。死んだ後ですか、いいえ、今日です。今です。イエスさまがおっしゃったそのとき、この人はパラダイスに入れていただきました。十字架はパラダイスの入口になり、十字架の上の教会がパラダイスになりました。

 「どくろ(33節)」と呼ばれる、頭蓋骨に見える丘。死を象徴するどくろの丘に立てられた3本の十字架。人が十字架に架けられる悲惨極まりない丘。重苦しい空気、イエスさまを罵倒する声が響くだけ。犯罪人たちはすでに十字架の痛みの極みだった。死に支配された闇の世界に永遠のいのちの言葉が煌めいた。「わたしとともにパラダイスにいる」。イエスさまはこの人に主とともにあるパラダイスが見せたのだ。ここがすでにパラダイス。この人は、一瞬、痛みを忘れたに違いない。そして、死んだ後のすべてをイエスさまに委ねることができた。

 ここに信仰の本質が見えます。この人は十字架につけられたまま救われました。この人の善い行いが認められたから救われたのではありません。十字架の上ですから、救いのために何か良いことをしようとしてもできません。そのための時間もありません。イエスさまを信じるだけで罪赦され、救われ、義と認められました。それが十字架の上で出来事となりました。ローマ書で丁寧に語られている救いの基本、信仰義認、信じるだけで義と認められることがここにはっきり見ることができます。

 私たちは犯罪人として、十字架につけられることはないでしょう。しかし、犯罪人と同じように、神の御前で、神を恐れない罪びとでした。しかし、パラダイスに招かれています。イエスさまがいのちまで与え続けてくださったゆえに私たちは罪赦されました。今日、ここで、今。私たちはいつか必ず死を迎えます。そのとき、ここに来て、十字架を仰いでイエスさまの祈りの言葉を聞きましょう。パラダイスに迎えられていることを確信しましょう。

もしあなたが、イエスさまにまだお会いしていないなら、どうぞ、十字架のもとに立ってください。イエスさまの祈りを聞いてください。そして、忘れないでください。イエスさまを救い主として信じるのを、死ぬ間際までまたなくていいのです。イエスさまを信じるのは、今日、ここで、今です。十字架の上に救いがあります。


 この後、冒頭でお話しした岩淵まことさんの「父の涙」を賛美します。以前、岩淵まことさんから、娘を天に送ったお父さんとしての証しを聞いたことがありました。今回、奥さまの岩淵由美子さんの、お母さんとしての証しをお聞きしたので、分かち合いたいと思っています。長女のあきこちゃん、6歳で脳腫瘍を発症。見つかったときには手遅れでした。子どもの脳腫瘍を専門にしている医者に出会う。手術をしましょう。ご両親はクリスチャンなんですね、祈っていてください。27時間の手術、経験豊かな医者でも最長の手術時間だった。左の脳を全て摘出した。右半身に麻痺が残った。言葉を話すことは諦めて欲しいと言われました。

 しかし、幸いにバイバイとかママとか言うことができました。順調に回復し、さぁ、麻痺した手足のリハビリを始めましょう。しかし何日も高熱にうなされた。傷口から黴菌が入り髄膜炎。また大きな手術となった。1年2か月の激しい闘病生活の末、岩淵夫妻よりも先に天に帰っていきました。

 由美子さん、葬儀を終えて、少し落ち着いたので、病院から持ち帰った荷物の整理を始めた。小さなアルバムが出てきた。8歳の誕生日、意識のないあきこちゃんのそばに8本のローソクを立てたバースデーケーキ。あきこちゃんの手を握って、笑顔でピースサインをしている私がいた。そのとき、大パニックになった。笑っている私、おかしいじゃない。神さまこんなはずじゃなかたんじゃない。娘を返して。私のせいだ。私が病気に気づかなかったせいだ。私があきこを殺してしまったんだ。私は生きていてはいけないのではなないか。それから毎日毎日、ほんとうに毎日毎日泣いてばかりいいた。いろんな方が「あなたのせいじゃないよ、しかたなかったんだから」と言ってくださった。でも、自分を自分で赦すことができなかった。

 台所に立っていたとき、あきこちゃんとの出来事をいろいろ思い出した。夏休みの宿題、2+2も、1+1も分からないと答えたので、ママをばかにしているの、と言ってひどく叱ってしまったこと。頭が痛いからシャンプーしたくないと言っても、無理矢理シャンプーしたこと。疲れて歩きたくないと言ったとき、ファイトと言って歩かせたこと。私は赦されないと思って立っていられなくなって、しゃがみ込んでしまった。そのとき、ともて不思議なのですが、神さまが心に語りかけてくださいました。「もう自分を責めるのはよしなさい。わたしはそのときもそこにいました」。神さまが「赦すよ」と言ってくださった気がしました。お祈りしました。「神さま、私、生きていていいんですか」。「いきていていいんだよ」。娘の病気を見つけることができなかった罪も赦されていると思った。その日から神さまを証しして賛美をすることができるようになりました。


 由美子さんが、ご自分を責めていた時、自分で自分を十字架に架けておられました。赦されるために何もすることはできない。ただただ涙が流れるばかり。赦されるとは思っていなかった。しかし、そこで罪の赦しが聞こえてきたのです。イエスさまは涙を知っておられ、すべてを受け入れて、すべてを赦してくださった。パラダイスに招かれた犯罪人と同じです。イエスさまがすべてを負って十字架で死んでくださって、罪の赦しを与えてくださった。十字架はパラダイスへの入口、いや、十字架の上が、主とともにいるパラダイスになったのです。

 これは私たちの一人ひとりの救いの物語です。私たちが死ぬときに思い起こして、救いを確信していただきたい。救われているのかが分からなくなったら、ここに帰ってこればいい。自分を責めている人、信仰が分からない人、イエスさまを信じたい人、いのちまで与えたイエスさまのあわれみにすがっていただきたい。そうすれば、必ず、十字架からイエスの言葉が聞こえてきます。


「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」


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