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「からし種 パン種に似る 神の国」

2022年5月15日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第13章10―21節


10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。

11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。

12 イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。

13 そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。

14 すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。

「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

15 しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、

自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。

16 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

17 イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、

群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

18 そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。

19 それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、

空の鳥が枝に巣を作りました。」

20 再びイエスは言われた。「神の国を何にたとえたらよいでしょうか。

21 それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。」


私たちの目の前の千葉大学のキャンパスには大きな木がたくさんあります。その木の立ち姿、枝ぶり、根の逞しさを眺めながら歩くことがあります。時には木と対話をしてみることもあります。その下に立って見上げると、今日のからし種のたとえ話を思い出します。この木はここまで大きくなるには何十年もかかるんだろうなと考えると、あのからし種の木の成長力はすごいなと改めて思うのです。

からし種、パン種のたとえは、聖書を読むようになると、すぐに覚えます。神の国を身近に感じさせてくれる言葉です。 マタイの福音書でもマルコの福音書でも語られていますが、ルカの福音書ではイエスさまがなさったある女性の癒しと結び合わせて語られています。


先週までのところは、イエスさまが、弟子たちや集まっている群衆に向けて語られていましたが、今日は、安息日に、会堂で説教をしておられます。

説教する者だからでしょう、会堂でどのような礼拝説教をなさったのかな、と思ってしまいます。ただしどの福音書にもイエスさまの礼拝説教を詳しく書きとめているところはありません。ただひとつ、説教のほんの一部を知ることができる箇所があります。この福音書の第4章の16節以下のみ言葉です。イエスさまの説教を知る上でとても大切にされています。

まず聖書朗読から始まります。第4章18―19節。イエスさまご自身が選ばれたイザヤ書第61章1ー3節を朗読されました。


「主の霊がわたしの上にある。

貧しい人に良い知らせを伝えるため、

主はわたしに油を注ぎ、

わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、

目の見えない人には目の開かれることを告げ、

虐げられている人を自由の身とし、

主の恵みの年を告げるために。」


イエスさまは聖書朗読を終え、すぐに説教を語り始めます。礼拝をしていたすべての人が、何が語り出されるか、固唾を飲んで待ちました。イエスさまの口が開かれました。


「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ第4章21節)


イスラエルの民は、旧約聖書の言葉を神さまからの約束の言葉として受け取っていました。イエスさまは、その神さまの約束を、今、わたしが実現しました、とおっしゃったのです。聖書の言葉が、これまでは約束の言葉として堅く立っていたのですが、イエスさまが説教することによって約束の言葉が出来事の言葉になったのです。捕らわれ人が解放され、見えなかった目が開かれ、虐げられていた人が自由の身になったのです。主の安息の恵みが安息日に来たのです。

イエスさまは、ユダヤの地の巡り歩き、たくさんの説教をなさいました。いろいろな主題で語られたでしょう。父なる神さまについて、神の国について、神さまの愛について、数え始めたらきりがありません。しかし、説教の中心は、このイザヤ書の言葉で言い表されています。イエスさまは「神に遣わされた」方、語られるのは「良い知らせ、福音」です。礼拝している者には「解放、開かれた目、自由」が与えられる。どうしてこのような大きな恵みが始まったのか、イエスさまが「神の約束の言葉が実現した」とおっしゃったからです。

今日のみ言葉でも、イエスさまは、福音を語り、わたしが神の約束が実現したことを説教しました。会堂に説教を熱心に聞いていた女の人がいました。この女性は「18年もの長い間、病の霊に取りつかれて、腰が曲がってしまい、まっすぐに伸ばすことができなかった。今日の女性は年齢のせいではなく、病の霊によって腰を曲げられてしまっていました。ひとくちに18年と言っても、病の霊に苦しめられた18年です、ほんとうに長くつらかったと思います。まして病は罪の報いだと考えられている時代です。汚れていると言われ、人びとからのけ者にされていました。体が折れているだけでなく、心が折れてしまうことが多々あったのです。

この女性が、安息日の礼拝の会堂にいました。腰が異常に曲がっています。みんなに嫌われるのは分かっています。会堂の隅っこの目立たないところで礼拝に参加していました。 


イエスさまは、会衆の中に、この女性を見つけました。ルカは簡潔にこう記しています。12節13節。


イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。


イエスさまは、この女性の18年の病の霊に縛られ、心が折れそうになっているのを知って、かわいそうに思われました。

今、「かわいそうに思い」とお話ししましたが、これがルカの福音書を貫いているイエスさまの心に静かに熱く燃えているあわれみ深さです。私たちを救ってくださる源です。

何度かお話ししていますが、ルカの福音書にはイエスさまのかわいそうに思われた憐れみ深さが記されているみっつの物語があります。第10章の「憐れみ深いサマリア人」。第14章の「ナインのやもめ」。ルカ第15章の「放蕩息子」と呼ばれている「失われた弟息子」です。

この三つの物語に、イエスさま、あるいは神さまの憐れみ深さを表す「かわいそうに思う」という言葉が語られています。英語の聖書は「コンパッション」と訳します。「情け深い、同情する、共感する」という意味。新約聖書が書かれている元の言葉、ギリシャ語では「スプラグクニゾマイ」です。英語のコンパッションと同じように訳すことができます。ただし、これを文語聖書は「断腸の想い」また「はらわた痛む」と訳しました。「内臓」「スプラグク」という言葉から生まれた言葉だからです。内臓が痛くなるほど、かわいそうに思う。胸が痛くなるほどに同情を寄せる。全身が痛みでふるえるほどにかわいそうに思うことです。私たちの憐れみはちっぽけにさえ思えるほどの神さまだけの深い憐れみです。この神さまの私たちへの深い憐れみはルカの福音書だけでなく、聖書全体に貫かれています。もちろん今日のイエスさまのうちにも深い憐れみが静かに熱く燃えています。

イエスさまは、会堂の隅っこにいた女性を見て、はらわたが痛くなるほど、全身が震えるほどにかわいそうに思われたのです。この女性こそ、神さまの安息をたくさん浴びてほしいと願ったのです。

隅っこにいたこの女性を呼び寄せてくださいました。女性は腰が曲がったまま、イエスさまのお傍に行きました。すると、イエスさまは、女性に何も聞くことも話すこともなく、こう言われました。12節。


「女の方、あなたは病から解放されました」


イエスさまの心に憐れみがあふれ、話しかける間も惜しむように、癒しをなさいました。「解放されました」。完了形で語られています。この主の言葉だけでこの女性の病や癒されました。病の霊は滅んだのです。

イエスさまは、女性の体だけではなく、18年の長きにわたって痛んだ心をも癒そうとなさいました。イエスさまのお言葉だけでなく、同時に、手を置いてくださいました。13節。


そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。


これまで、誰も女性に触れようとしませんでした。病の霊に捕らえられ汚れていると考えられていたからです。このことで女性は嫌というほど孤独を味わされました。自分は生まれてこなかった方が良かったとさえ思った。

しかし、イエスさまは手を置いてくださったのです。ふれてくださったのです。愛の御手によって、折れかけていた心が癒されました。消えかかっていた心の灯が輝き出しました。

女性は言葉と愛で、神が癒してくださったことが分かりました。神をあがめました。賛美しました。感謝しました。まっすぐになった腰で喜び小踊りしました。

先ほどのイザヤ42章の神さまの約束の言葉に「捕らわれ人には解放を」とありましたが、まさに悪霊に捕らわれていた女性が解放されたのです。

女性の回りの人たちも主の癒しを驚き喜びましたが、会堂司は憤りました。14節。


すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

十戒の第二戒の安息日規定で、安息日は働いてはならなかったのです。会堂司は、礼拝の管理者として正しい指導をしたまででした。

しかし、会堂司は、イエスさまをこの日の礼拝の説教者として招いていた手前、イエスさまに直接に律法に違反しているとは言えません。しょうがないので群衆に向かって憤りをぶつけたのです。

イエスさまは、安息日の理解が不十分であることを教えられました。15節16節。


しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」


「偽善者」。痛烈な非難の言葉です。会堂司は、多くは律法学者で、建物の管理というよりも、礼拝や信仰教育の指導をしていたのです。信仰が確かで、地域の人たちからの信頼も厚い人なのです。会堂では最も権威がありました。そのような会堂司に向かって「偽善者」と呼んだのですから、会堂に緊張の糸が張り詰めました。

イエスさまは、この地を巡って伝道しておられたとき、たびたび安息日について論争を繰り返しました。特に今日のように、安息日の会堂で激しく指導者たちと争われました。どうして、何度も何度も戦われたのでしょうか。イエスさまの目に、安息日が名ばかりで、神さまが与えようとしている主の安息を失っていたからです。イエスさまは安息日のいのちを回復しようと戦っておられたのです。

安息日は、創世記に遡ります。神さまはこの世界を7日間で創造なさいました。6日間かけて、天地にあるすべてのものを造られ、7日目に休まれました。神さまがお疲れになったのではありません。人間に神さまの安息に与らせるためです。創世記第2章2節3節です。


神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。


この第7日が安息日と呼ばれるようになるのですが、ひとつ不思議だと思うことがあります。創造の6日間は、その日の最後に「夕があり、朝があった」と必ず語られていますが、安息日にはありません。まるで時間の枠がないように見えます。神さまの永遠の安息に人が与る特別な日なのです。ですから、この日を祝福し聖なるものとしたのです。

しかし、この後、人は罪を犯し、この神の安息を失いました。それでも、十戒によって、神の安息に触れることができるように、安息日について丁寧に規定を書き記してくださいました。天の安息をいただかなければ、人はほんとうのいのちに生きることができないからです。

十戒の定めはこうでした。出エジプト記第20章8-11節。


8  安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9  六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10 七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

11 それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。


聖書の専門家たちは、「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ」という言葉に集中してしまいました。残念ながら「七日目は、あなたの神、主の安息である」という言葉は十分に理解できませんでした。安息日の細かい規定を作ってそれを守ることで安心してしまい、肝心の主の安息を失ってしまっていたのです。「人の子は安息日の主です」とおっしゃるイエスさまが来られなければ回復できなかったのです。

主の安息が欠けるとはどういうことでしょうか。安息日の主のイエスさまのはらわた痛めるほどの深い憐れみを見失ったということです。主の安息は主の深い憐れみによって与えられるからです。

人びとは、安息日に、牛やロバが渇いたら、かわいそうだから水をやるために水飲み場に連れて行っていたのです。しかし、隣人が苦しんでいても、今日は、安息日だから癒しはしてはならぬと規定していました。会堂司が言った、癒してほしいなら、働いてもいい6日間のうちに来なさい、という言葉はこれまでの規定から考えるなら正論なのです。しかし、女性の18年間の苦しみに対する同情のかけらもないのです。女性の苦しみに憐れみを感じていたなら、放っておけなかったはずです。人が作った規定は、主の安息をもたらす主の憐れみ深さを欠いていました。安息日はいのち失い死んでいたのです。

イエスさまは、死んでいた安息日を、本来の主の憐れみにあふれた安息日に回復するために、戦っておられたのです。だから安息日に激しく論争を重ね、安息日にいのちを吹き込もうとされたのです。


今日のみ言葉の10節から17節と18節から21節は緊密に結びついています。17節までは、安息日について語られていましたが、18節に入って、イエスさまは、話の中心を神の国になさいました。これが興味深いのです。


18 そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。

19 それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」

20 再びイエスは言われた。「神の国を何にたとえたらよいでしょうか。

21 それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。」


からし種やパン種という言葉は、聖書を読み始めると、すぐに覚えるみ言葉です。からし種は、とても小さく、気をつけなければ、吐く息で飛んで行ってしまうぐらいの小ささ。しかし、生長すると大きな木になって、鳥が巣を作るようになる。この鳥は複数で書かれているので、たくさんの鳥がこの木に巣を作るのです。そのように神の国は力強く生長し、世界中に枝を広げる。ですから、この鳥は、民族を表しているとも言われ、世界中の民族がこの木に巣を作る。日本の私たちも、今、この神の国の木に巣を作ることが許されているのです。ただし、からし種は生長しても、鳥が巣を作れるほど大きくなならないので、このからし種の木は、超自然的な神さまの神の国のからし種です。

ルカの福音書は、女性の癒しとからし種のたとえを結びつけて理解しています。からし種はイエスさまご自身、あるいはイエスさまを通して働かれた神の力です。地名の記されていないような無名の会堂でイエスさまを通して神の力が働かれた。それは世界から見れば小さな小さな働きです。でもその神の力は、神の国の現れ。安息日に行われる礼拝に神の力が現れ、神の安息に与ることができるのです。それがどんどん世界に広がっていく。確かに日本まで広がってきました。そして、この小さな礼拝から神の国の安息が広がっていくと言っておられるのです。安息日の礼拝から神の国が広がる、つまり安息日の礼拝には神の国の力が働いているので、安息日がとても重要なのです。

パン種も面白い。1サトンは13リットルぐらいですから3サトンは39リットル。2リットルのボトル20本ほど。たいへんな量の小麦粉です。そんな大量の小麦粉でも、ほんの少しのパン種を入れると、全体が膨らむ。いろいろな理解があるようですが、この女性の癒しと重ね合わせると、女性の癒しは、主イエスの言葉から始まりました。それは世界で語られている言葉から考えたら、とても小さな小さな言葉でしかないかもしれません。しかし、大量の小麦粉を世界中の人びとと考えるなら、その小さな神の言葉が、女性を生かしたように、世界中の人たちを生かすのです。小さな神の言葉が人に神の安息を与えて神の国が膨らむのです。その言葉は安息日に語られました。安息日に語られるみ言葉によって、主の憐れみ深さに生かされ、主の安息、天の安息に与ることができるのです。神の祝福と聖さに与れるのです。私たち自身にも起きています。神の言葉のパン種が心に入ってくることによって、枯れやすく折れやすい心が主の憐れみに包まれ癒され、主の安息をいただいているのです。

神さまは私たちが安息を受け取ることができるように、安息日を祝福し聖とされました。しかし、私たちは、罪で汚れた者たちです。憐れみも乏しいのです。神の聖さに入って行くことはできません。では、誰が私たちは聖くしてくださるのか。イエスさまの憐れみ深さは、十字架にくっきり現れています。イエスさまが十字架で流された血潮によって罪びとを洗い聖めてくださいました。イエスさまの血潮によって聖くされ、主の安息に与ることができるようにしていただいたのです。イエスさまによって私たちの安息日が回復したのです。

イエスさまに癒され安息をいただいた女性は、周りから同情もされず、かえって汚れているとみなされていました。しかし、イエスさまはアブラハムの娘と呼ばれました。アブラハムに約束された祝福の子孫であることを宣言してくださったのです。それは肉の血筋ではなく、信仰の血筋でした。私たちもイエスさまの血潮によって、アブラハムの娘、アブラハムの息子です。この礼拝で、イエスさまはアブラハムの子どもの私たちに、憐れみ深い眼差しを注いでおられます。御手を置いて主の安息を注ぎ込んでくださっています。

私たちが献げる安息日の礼拝から、この小さな礼拝から、神の国は、今、目には見えませんが、爆発的に成長し広がっています。私たちのうちにも今日のみ言葉が蒔かれました。神の言葉は私たちのうちで醗酵し豊かに膨らんでいます。そして世界中が膨らんでいます。


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