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「蜜より甘い神の言葉」

2022年1月30日 礼拝説教 後藤弘牧師


 詩篇 第19篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。 

1 天は神の栄光を語り告げ

大空は御手のわざを告げ知らせる。

2 昼は昼へ話を伝え

夜は夜へ知識を示す。

3 話しもせず 語りもせず

その声も聞こえない。

4 しかし その光芒は全地に

そのことばは世界の果てまで届いた。

神は天に 太陽のために幕屋を設けられた。

5 花婿のように 太陽は部屋から出て

勇士のように 走路を喜び走る。

6 天の果てから それは昇り

天の果てまで それは巡る。

その熱から 隠れ得るものは何もない。

7 主のおしえは完全で

たましいを生き返らせ

主の証しは確かで

浅はかな者を賢くする。

8 主の戒めは真っ直ぐで

人の心を喜ばせ

主の仰せは清らかで

人の目を明るくする。

9 主からの恐れはきよく

とこしえまでも変わらない。

主のさばきはまことであり

ことごとく正しい。

10 それらは 金よりも 多くの純金よりも 慕わしく

蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。

11 あなたのしもべも それらにより戒めを受け

それを守れば 大きな報いがあります。

12 だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

13 あなたのしもべを 傲慢から守ってください。

それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて

全き者となるでしょう。

14 私の口のことばと 私の心の思いとが

御前に受け入れられますように。

主よ わが岩 わが贖い主よ。


先ほど、世界中で愛されている讃美歌、「輝く日を仰ぐとき」を歌いました。もともとの歌詞を書いたのは、160年前、1859年生まれのスウェーデン人牧師の「カール・グスタフ・ボーベリー」(1859-1940)です。カール牧師が26歳の夏、スウェーデンの海岸近くの村を訪れました。よく晴れた日でしたが、突然、空一面が暗くなり、激しい雷雨に見舞われました。しばらくすると雷雨は上がり、再び青空が広がり、太陽が輝き出しました。小鳥もさえずり始めました。すると入り江にある教会の鐘の音が聞こえてきて、天地を造られた神さまと、神さまの救いの贖いを思い起こし、心から賛美があふれてきました。思わずひざまずいて神さまをたたえました、その時の経験を歌詞にしたのです。


1、輝く日を仰ぐとき 月星ながむるとき いかずち 鳴り渡る時 まことの御神を思う

わがたま いざたたえよ 大いなる御神を わがたま いざたたえよ 大いなる御神を

2、森にて鳥の音をきき そびゆる山にのぼり 谷間のながれのこえに まことの御神を思う

わがたま いざたたえよ 大いなる御神を わがたま いざたたえよ 大いなる御神を


この歌詞が知らぬ間にスウェーデン民謡に合わせて歌われるようになりました。その後、ドイツ語、ロシア語、英語に訳されて歌われるようになり、ビリー・グラハムの伝道集会で用いられるようになって、世界中に普及しました。日本では、中田羽後が訳詩・編集をして、聖歌480番として発表しました。日本でもビリー・グラハム国際大会で聖歌隊によって歌われて有名になりました。


ここにおられるみなさんにも、カール牧師のように歌詞は書きませんが、それぞれ神がお造りになった自然の美しさに感動することがあったでしょう。遠くへ旅行に行かなくても、日々の生活のなかでも、朝焼けや夕日の美しさ、道ばたに咲いている小さな花の可憐さ、歩道に落ちている可愛いどんぐり、それらを見て神さまを思うときがあるでしょう。今日の詩篇も1節から6節まで、神が造られた自然の雄大さを通して、神を賛美しています。


天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。(1節)


神さまを知らない方も、自然の美しさに心打たれ、歌や絵画などで表現してきました。今は、スマホで写真を撮って、SNSにアップして共有しています。しかし、私たちは、神が天も大空も造られたことを知っているので、自然の美しさにとどまらず、神さまをほめたたえます。最近、宇宙旅行の話題がありましたが、宇宙を見ても、私たちはその向こうに神を見ていますし、神の御手のわざの壮大さに圧倒されてしまいます。


昼は昼へ話を伝え 夜は夜へ知識を示す。(2節)


神のみわざは、私たちの生活の基礎も造っておられる。1年365日、1秒たりとも狂わずに、昼と夜を繰り返しています。昼は昼へ、どんな話を伝えているのでしょう。夜は夜へどんな知識を伝えているのでしょう。さまざまに考えられるかもしれませんが、基本的には「神の栄光」の話です。「神さまの栄光はほんとうに素晴らしいですよ」。「神についての知識」です。「神さまはこの天地を造られ、今も支配なさっているんですよ」。この世界が造られた日から、今日まで何千年、昼と夜を繰り返しながら、神の栄光を神についての知識を、駅伝のたすきのように、受け渡してきたのです。

 ここに大切なことがあります。1節の「告げる」は「神さまの栄光をひとつひとつ数え上げて、丁寧に物語ること」です。「告げ知らせる」は「宣言」すること。2節の「話を伝える」は、「水が沸騰すると泡がはじけるように、言葉がほとばしってきて、我を忘れて熱心に語る」こと。「示す」も「語る」という意味です。そうすると、1節と2節で、天も大空も昼も夜も言葉を発しているのです。しかし、その言葉は私たちには聞こえません。地上の言葉ではなく、私たちには聞こえない天の言葉だからです。


話しもせず 語りもせず その声も聞こえない。(3節)


私たちには聞こえない天の言葉。でも分かるんです。美しい自然に出会ったとき、言葉は聞こえないけれども、何か私たちに語り掛けているような経験をしているのです。それが歌になり、絵画になってきたのです。


しかし その光芒は全地に そのことばは世界の果てまで届いた。(4節ab)


「光芒」は、「光の筋」のことです。昨日、朝、教会に来るときに、曇り空からだんだん晴れてきました。ふと、東の空を見たら、雲間から太陽の光がいくつかの筋になって地上に向けて降り注いでいました。そうそう、あれが光芒だと思いました。しかし、「光芒」と訳されているもともとの言葉の意味は「響き」です。新改訳第三版はそのように訳していました。


しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(新改訳第三版4節ab)

どうして、今回「光芒」にしたのかなと思いました。翻訳者に聞きたいなと思いました。察するところ、1節で「栄光」という言葉があります。「神さまは栄えの光で輝いておられる」。栄光の輝きと言うこともあります。新改訳2017は、栄光の輝きが全地を照らしているという意味を重んじたのだと思いました。次に、天の言葉は、全地に、世界の果てまで届いている。栄光の輝きと天の言葉はすべての人に届いているのです。

 次に神さまの被造物の象徴的な太陽を取り上げます。これまでは自然の素晴らしさを眺めていましたが、太陽は私たちの生活に直接関わってきます。神を知らない方は、残念ながら太陽を拝んでしまいます。神を知っている者にとって、太陽も神が造られたものであり、神の栄光を現わしているのです。太陽は、神に造られ、神に用いられ、喜んで神さまの栄光を表しています。


神は天に 太陽のために幕屋を設けられた。(4節c)

花婿のように 太陽は部屋から出て 勇士のように 走路を喜び走る。(5節)

天の果てから それは昇り 天の果てまでそれは巡る。

その熱から 隠れ得るものは何もない。(6節)

先ほど、夜と昼について記されていましたが、神さまは、太陽のために夜の寝床を用意してくださいました。朝になると、太陽は喜んで部屋から飛び出してきます。その姿は花嫁を迎えに行くときにはちきれんばかりに喜んでいる花婿ようです。また、勝利を確信して戦いに向かっている勇士のようにも見えます。天を見上げれば、太陽が駆け抜ける走路に気づきます。天の東の果てから始まって天の西の果てまで敷かれています。太陽の熱と光は、全地の隅々まで届いています。太陽の恵みによって、畑の収穫は豊かになり、木々も成長し、最終的に私たちの食卓をはじめ、生活のすべてが潤わされています。


 この詩は、6節と7節の間で大きく変化します。それは「輝く日を仰ぐとき」もそうでした。

1節と2節は、自然を造られた神を賛美していましたが、3節と4節は、神の救いを歌っています。


3、御神は世人を愛し ひとりの御子をくだし 世人の救いのために 十字架にかからせたり

4、あめつち造りし神は 人をも造りかえて 正しく清きたましい もつ身とならしめたもう


作詞したカール牧師は、自然の美しさに心震えていましたが、教会の鐘が聞こえてきたとき、神さまが自然を造られたことを思い起こしました。同時に神さまは私を神の言葉で救ってくださったことを思い起こしたのです。

 詩人も、自然を通して神を賛美していた時、神の言葉によって救われたことに気ついたのです。聞こえない天の声ではなく、はっきりと読むことも聴くこともできるみ言葉によって救われたことを思い起こしたのです。み言葉を賛美せずにはいられなくなったのです。

 自然からみ言葉へ移ったと同時に、神の呼び名も変化しています。詩人は、6節まで、神をヘブル語で言えば「エル」というお名前で呼んでいました。日本語で「神」です。7節からは神さまを「エル」と呼んでいません。日本語ですと「主」と呼んでいます。「主」はヘブル語ではもともと聖4文字と呼ばれる神さまのお名前です。旧約聖書時代、みだりに神の名を呼べなかったので、数千年経ったとき、どういう名だったか分からなくなりました。以前は「エホバ」、後の研究で「ヤーウェ」であろうと考えられています。そこで聖四文字を「主人」という意味の「アドナイ」と置き換え、日本語では「主」と呼ぶようにしました。「主」は「神」と呼ぶよりも、もっと近しい関係で、親しくお呼びしているのです。

ここに「教え」「証し」「戒め」「仰せ」とありますが、これは詩篇第119篇と同じで、すべて「み言葉」、旧約聖書の言葉で言えば「律法」です。律法は十戒を頂点とする神の言葉です。モーセ五書が中心ですが、旧約聖書全体を指します。「律法」はヘブル語で「トーラー」と言います。新約聖書の時代になって、律法主義という言葉が生まれ、律法は人をがんじがらめに縛る悪者のような誤解があります。トーラーは「ヤーラー」という言葉から生まれています。「ヤーラー」は「矢を射る」という意味の言葉で、そこから「的を外さないで、正しく教える」という意味になりました。だから律法はもともと「御心から逸れないで、まっすぐ歩むための恵みの言葉」なのです。ですから律法は、私たちに呼びかけたり、私たちを生き返らせたり、私たちを光で照らしたり、ただの言葉でなく、力あるいのちの言葉なのです。呼びかけられた私たちの心は喜び、神の愛、平安をいただきます。7節、8節、詩人は、神のみ言葉、トーラー、律法の素晴らしさをこう歌い上げています。


主のおしえは完全で たましいを生き返らせ

主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。(7節)

主の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ

主の仰せは清らかで 人の目を明るくする。(8節)

 

ユダヤ人がヘブル語で読んでいる音声を聞いてみると、日本語と混ざってしまいますが「おしえ アドナイ」「証し アドナイ」「戒め アドナイ」「仰せ アドナイ」と、「アドナイ」に親しみが込められているように聞こえました。

 トーラーは「完全」、ひとつも欠けがなく、沈んだ魂を生き返らせることができる。浅はかな者は、「トーラーをわきまえず、たやすく道を外してしまう人」です。トーラーの神についての証しによって、浅はかな者も道を外さない賢さを得ることができる。私にとってとても嬉しいみ言葉でした。37歳で洗礼を受けましたが、それまで何度も道を外す経験をしてきたからです。み言葉で賢していただいて、道を外して痛い目に遭わないで済むようになれると思ったのです。トーラーは人を窮屈にするのではなく、まっすぐに心に飛び込んできて、喜びをもたらす言葉です。意気消沈していると目が死んでいると言うように、目は生命力のバロメーターです。トーラーの聖さによって目も心も聖められ、目が明るくなるのです。


主からの恐れは きよくとこしえまでも変わらない。

主のさばきはまことでありことごとく正しい。(9節)


7節8節によって、トーラーが完全で聖いということは、トーラーを語られた主ご自身が完全で聖なる方であるということを証ししています。罪がこびりついている私たちにとって、この方を畏れるということだけが、聖く生きる道なのです。「主からの恐れ」、第3版では「主への恐れ」と訳していました。これは畏れるべきお方を畏れるということです。神を神とするということです。この方のトーラーによるさばきに間違いはない。


 私の父は国鉄、今のJRで働いていました。家はそれほど裕福ではありませんでした。また、日本全体が今のように豊かではありませんでした。私の子どものころ、ひとつの大きな楽しみは、たまにですが、母がデパートに連れて行ってくれることでした。姉たちがいなかったと記憶しているので、幼稚園の頃だったでしょう。一通り、買い物を済ますと、休憩がてら最上階にある食堂に連れて行ってもらいました。おやつにソフトクリームを食べさせてもらったのです。食券を買って、テーブルに座ると、女性の店員さんが来て、食券を半分ちぎって、半分はテーブルに置いて、半分はポケットに入れて持っていきました。しばらくすると、店員さんが、ふたつ繋がったソフトクリームスタンドのわっかに、ふたつのソフトクリーム乗せて、やってきます。もう私の心は高鳴り最高潮に達します。スタンドから自分の分を取り上げて、急いで口に運びました。その甘さたるや、もうたまりませんでした。心にまで甘さが広がり、幸せだと思いました。貧しい時代、貧しい家だったからこそ、美味しかったのだと思います。母もその記憶があったのでしょう、生涯、ソフトクリームが大好きでした。でも、今、私はソフトクリームよりも甘いものを知っています。詩人がこう歌っています。


それらは 金よりも 多くの純金よりも 慕わしく

蜜よりも 蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。(10節)


み言葉は蜜よりも甘い。詩篇にもこう記されています。


あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇第119篇103節)


詩人の時代、蜜は貴重であり高価でした。豊かさを表すもののひとつでした。神さまはイスラエル人を「乳と蜜の流れる地」へ導かれました。「乳と蜜」は生活の豊かさを象徴していました。み言葉は蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。ソフトクリームよりも、どんなスィーツよりも甘い。ただ甘いだけではなく、私たちに喜びと幸せをもたらせてくれるのです。神の言葉によって心に「平安・慰め・赦し」が与えられたとき、他では得ることのできない甘さが心に広がるのです。

み言葉の甘さを味わっているとだんだん分かってくるのです。トーラーは、金よりも高価なんだ。最も高価な純金よりもみ言葉が大切なんだ。み言葉が沈んだ魂を回復してくれるからです。いのちを得させてくれるからです。「慕わしい」は「無我夢中になって欲しがる」ということです。神を知らなければ、第一に我を忘れるようにしてお金を蓄えたり稼ぐことを考えます。しかし、神を知る者のたましいは、第一に「み言葉」を無我夢中になるほどに欲しているのです。貧しい時代のソフトクリームが甘さで幸せを思ったように、飢え渇いた心にみ言葉は甘く、救いの喜びを経験しているからです。私たちのたましいはいつでも神の言葉に飢え渇いていることに気づいているでしょうか。絶えず救いのみ言葉を求めているのです。


6節までで自然を造られた神さまの前に謙遜にさせられ、7節からは、み言葉で罪を教えられ、さらに身を低くさせられました。この流れによって11節からは、自然に、いや当然のように祈りの言葉になっていきます。


あなたのしもべも それらにより戒めを受け 

それを守れば 大きな報いがあります。(11節)


「報い」は、み言葉によって得られる「平安」や「慰め」や「赦し」です。これらが蜜よりも甘いのです。


だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。(12節)

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。

それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。(13節)


神さまにトーラーで語りかけられたなら、その真実さに心打たれます。み言葉の光に照らされたなら、心の闇が明るみにさらされてしまいます。知らずに犯している罪を示してくれます。「傲慢」は、神のトーラーに聞こうとしない心です。神に頼らず、自分を頼りにして、自分を神のようにしている罪です。そのような罪が私を支配しないようにしてください。

私の究極の願いは、14節。


私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。(14節前半)


トーラーはどのように、自分の過ちから、隠れた罪から、傲慢から解き放ってくれるのでしょうか。どのようにしたら、私の言葉と思いが、神に喜んでいただけるのでしょうか。詩人は最後にこのように預言の言葉のように訴えました。


主よ わが岩 わが贖い主よ。(14節)


「岩」は詩篇にも多く語られています。「救いの確かさ、完璧な守り、いのちの水の源」を表しています。私の岩は誰か?「贖い主」です。「贖い」の漢字の中に「貝」があります。貝がお金であった頃のなごりでしょう。「贖い」は、お金を払って買い戻すという意味です。旧約聖書では、罪のためのいけにえとして雄牛を献げました。祭司は雄牛を屠ってその血を神さまにささげました。雄牛のいのちを支払って、罪の赦しを得たのです。新約聖書では、イエスさまが十字架で血を流して、いのちをささげてくださいました。イエスさまが私たちの代わりにご自身のいのちを支払ってくださって、罪の奴隷だった私たちを買い戻してくださったのです。 

 「わが贖い主よ」という叫びは、イエスさまの十字架によって完結しています。旧約聖書の時代の人たちは、イエスさまの十字架を知りませんから、ほんとうの贖い主を知ることができませんでした。私たちは恵まれています。私たちはまっすぐイエスさまに向かって「主よ、わが岩、わが贖い主よ」と祈り叫ぶことができるのです。イエスさまは、私たちの隠れた罪に対して求められる代価を、傲慢の罪に対して求められる代価を、すべての罪の代価を、十字架で血を流して、イエスさまご自身のいのちを代価としてささげてくださったのです。私たちは罪の代価としていのちを支払って死ななければならなかったのです。驚くべきことにイエスさまが代わりに死んでくださったのです。十字架のもとに行って信じるだけで、すべての罪の赦しが与えられるのです。隠れた罪から、傲慢の罪から解き放たれるのです。イエスさまの血潮で聖められた者は神の御前で完全な者としていただけるのです。。

私たちは、青空の向こうに十字架が見えるのです。小さな花の真ん中に十字架が刻まれているのが分かるです。雷雨の中でイエスさまの十字架の叫びが聞こえるのです。すべてのみ言葉の深みに十字架が立っているのです。だからみ言葉が口にも心にも甘いのです。ただの甘さではありません。イエスさまの十字架のみ苦しみを通して与えられた甘さです。罪を赦された喜びの味です。イエスさまの愛の味です。み言葉は蜜よりも甘いのです。


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