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「主の愛で 精錬される 私の愛」

2022年2月27日 礼拝説教 後藤弘牧師 

詩篇 第26篇


ダビデによる


1  主よ 私を弁護してください。

私は誠実に歩み

よろめくことなく 主に信頼しています。

2  主よ 私を調べ試みてください。

私の心の深みまで精錬してください。

3  あなたの恵みは 私の目の前にあり

  あなたの真理のうちを 私は歩み続けました。

4  私は不信実な人とともに座らず

偽善者とともに行きません。

5  悪を行う者の集まりを憎み

悪しき者とともに座りません。

6  手を洗い 自らの潔白を示します。

主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

あなたの奇しいみわざのすべてを。

8  主よ 私は愛します。

あなたの住まいのある所

あなたの栄光のとどまる所を。

9  どうか私のたましいを 罪人どもとともに

私のいのちを 人の血を流す者どもとともに

取り去らないでください。

10 彼らの手には悪事があり

その右の手は賄賂で満ちているのです。

11 しかし私は誠実に歩みます。

私を贖い出してください。あわれんでください。

12 私の足は平らな所に立っています。

数々の集いで 私は主をほめたたえます。


 「主われを愛す」を賛美しました。私たちの信仰の基本中の基本を歌いました。私たちは主に愛されて、主とともに御国に向かって歩んでいます。では、主と共に歩むというのは、具体的にどんな生活になるのでしょうか。今日、与えられている詩篇は、主と共に歩む生活を、具体的に教えてくれています。


主よ 私は愛します。(8節前半)


 「主よ、私は愛します」。この愛の告白の言葉に、思わず立ち止まってしまいました。嬉しくなったんです。このように「私は」と言って、神さまに向かってストレートに愛を告白している言葉は聖書の中に滅多にないのです。ここに主への愛の告白があった。私の心の思いを言い表している。「主よ、私は愛します」という言葉はキラキラ輝いています。

次を読んでみると、あれっと思います。


あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を。(8節後半)


愛しているのは「あなたの住まいのある所」であり「あなたの栄光のとどまる所」なのです。これはイスラエルの神殿であり、特に神の箱がある至聖所です。神の箱に神が臨在されていると信じていたからです。神の箱があるところを愛しているということは、そこに住んでおられる神と共に住みたいということです。愛する神と共に住みたい。神を愛しているのです。どうして、ストレートに「あなたを愛します」と言わないで、回りくどい言い方をするのだろうと思いました。考えられるひとつのことは、そのころは神の御名をみだりに唱えることを禁じられていましたから、ここでも控えめな表現になっているのかもしれません。「主よ 私は愛します」。

 この言葉はヨハネの福音書第21章思い起こさせます。ペテロはイエスさまが殺されておしまいになり心が折れてしまいました。しかし甦られたイエスさまがペテロを訪ねてくださいました。イエスさまを見たとき、十字架は自分のためだった、イエスさまに愛されているんだと分かりました。すると同時にイエスさまを愛する愛がペテロのうちに新しく生まれました。甦られたイエスさまはペテロに問われました。「あなたはわたしを愛していますか」。ペテロはイエスさまが裁かれていた時、3度も「私はあの人を知らない」と言ってしまったので、胸を張って「あなたを愛しています」と言えませんでした。ただ控えめにこう答えました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスさまへの愛をイエスさまに証言していただくしかありませんでした。

 詩篇に戻りますが、では、どのようにして、詩人のうちに主への愛が生まれたのでしょうか。7節後半に「あなたの奇しいみわざ」という言葉があります。


あなたの奇しいみわざのすべてを。(7節後半)


これは「あなたの驚くべき救いのみわざ」でしょう。詩人は主の数々の救いのみわざを受けていたのです。主の救いの愛を経験していたのです。ああ、神に愛されていると分かったとき、詩人のうちに愛が生まれたのです。「主よ、私は愛します」と控えめかもしれませんが喜んで告白せざるを得ないのです。

 先ほど賛美した「主われを愛す」も同じではないでしょうか。「主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ」。「主よ、あなたが私を愛してくださっています。あなたが強いお方なので、私が弱くても 何も恐れません」。この賛美も言葉にこそ現れていませんが「イエスさま、私はあなたを愛しています」と愛の告白が控えめに込められています。私たちの歌です。主われを愛す、そして私たちも主を愛しています。私たちの主を愛する愛は、イエスさまの十字架の愛に出会ったときに生まれた愛です。私たちの主と共に歩むときに最も大切なこと。共に歩んでおられる主が「あなたはわたしを愛しますか」と問うてくださっています。控えめでもいい、大胆にでもいい、心を込めて「主よ、私はあなたを愛します」と、日々、告白することです。


 目をぐっと引いて、詩篇全体を見直すと、この詩篇は非常に強烈な言葉で始まっていました。「主よ 私を弁護してください」。詩人の身に何が起こったのでしょうか。

悪口を言われたかもしれません。神を信じているくせに、どうしてそんなに弱いのか。4節5節で神に逆らう人たちといっしょに行動することを拒否しているということは、彼らから誘惑があったのかもしれません。どうせ神さまなんかいないんだから、こっちの方が自由で楽しいよ。私は主を愛しているんだ。誰にも分かってもらえないけど、弁護してくれる人もいないけど、神さまに従っていくんだ。

 詩人は神に顔を向けて叫ぶように訴えています。「弁護してください」。「弁護してください」は、もとの言葉をそのまま訳すとさらに強烈な言葉になります。「さばいてください」。そのように翻訳している聖書が多いのです。

 裁判官に裁かれて、正しいと判断された者は、あなたは「潔白だ」と言い渡されます。一方、過ちがあれば「有罪」になります。「弁護してください」と訴えているということは、神さまに対して自分にはやましいところは何もないんだと、自信を持って言っているように聞こえます。どうしてそこまでの確信を持っているのでしょうか?私たちとは違ってまったく罪がないからでしょうか。

 もとの文章を見てみると、「主よ 私を弁護してください」という文章の次に「なぜなら」という言葉があります。「なぜなら」ということは、「さばいてください」と訴えることができる理由があるのです。なぜなら「私は誠実に歩みよろめくことなく、主に信頼しています」から。だから弁護してください。詩人には罪もよろめくような弱さもまったくないのでしょうか。ここはヘブル語を研究している人たちに聞く必要があります。こう教えてくれました。「誠実」と訳されているヘブライ語の「タミム」は「完全」という意味です。ただしこの完全は、罪のない完全さを意味しません。罪を犯したのか、犯さなかったのかという基準による「完全」ではないのです。誠実と訳されているように、神さまに対して誠実に生きているか、言葉を換えれば、神さまに弱さもさらけ出して正直に生きているかが基準になるのです。

 矢内原忠雄というキリスト者がいました。東大の教授でしたが、第二次世界大戦の際、軍国主義に抵抗したので辞任に追い込まれました。敗戦後、教授に復帰し、東大総長を2期務めた人です。心に届くストレートな聖書の解き明かしを残しています。用いていた文語訳聖書は「誠実」を「完全」と訳していました。矢内原忠雄先生は「完全」という言葉をご自分の信仰を重ねながらこう説明しています。完全無欠いう意味ではなく、純真・誠実という意味である。私の知恵は乏しく、私の徳は足らず、私の行いに過ちは多いでしょう。しかしながら私は心いっぱいの誠実を尽くして歩んできました。それでも私の誠実など、神さまのさばきにおいて義と認めていただくには、少しも役に立たないことは知っています。それでも私の心はあなたに向かっていました。どうか私の胸を裂いて私の心を調べてください。

 このように神を信頼して正直に生きている姿勢は、2節の言葉に具体的に表れています。悪口があったのでしょうか、あるいは何かしら良心の咎めがあったのかもしれません。神さまに吟味していただこう、さばいていただこうと思ったのです。


主よ 私を調べ試みてください。私の心の深みまで精錬してください。(2節)


3つの動詞を重ねて神さまに迫りました。「調べてください」「試みてください」「精錬してください」。どこを調べて、試みて、精錬していただくのか。「私の心の深み」です。もとの言葉はヘブル語らしい言い方で書かれています。「私のはらわたと私の心」。「はらわた」は内臓のことですが、特に「腎臓」です。「腎臓」は「人の感情や愛情の座」と考えられていました。また「心」は「理性や意志の座」。つまり「はらわたと心」は「人の内面のすべて」です。私たちの心にはしわやひだがたくさんありますから、その陰に隠れている汚れや罪もあります。詩人ははらわたと心のすべてを神さまの目にさらけ出して、どうぞ、調べ、テストし、精錬してください。主の目によって、徹底的に「はらわたと心」を調べられたら、まったく罪のない人はひとりもいません。

 小学校の高学年だったと思いますが、社会科見学に行きました。小学校から歩いて15分くらいのところに、東北特殊鋼という大きな工場がありました。高い塀に囲まれていましたから、ふだんは敷地内に入ることはできませんでした。どんな仕事をしているのか、興味津々に恐る恐る入って行きました。びっくりしました。カチンコチンの堅い金属が大きな炉の中で真っ赤になりながら、どろどろに柔らかくなっているのです。この工場はそれをいろいろな形に固めて製品にしていたのです。

 詩篇で注目したいのは「精錬してください」という言葉です。「精錬」は、聖書が大切なところで時々用いている言葉です。例えば金なら金を、先ほどの工場のように炉で溶かして、かなかすなどの不純物を取り除いて、純度の高い金にすることです。詩人は、私の心のひだに不純物があったなら取り除いてくださいと訴えているのです。神さまが私たちから罪を取り除く精練は、私たちにとって悔い改めです。燃えるような試練の炉に投げ込まれることもあるかもしれません。しかし、主に導かれ、はらわたを調べられ、必要な時には精錬していただく。これこそ主に対して「誠実」に歩む生活なのです。私には罪はありませんと言っているのではないのです。精錬と悔い改めを繰り返しながら、信仰の不純物が取り除かれ、主を愛する愛がますます純粋な愛に育てられていくのです。

 どうして、そこまで親密な神との関りを持つことができたのでしょうか。詩人の特別な能力なのか。いいえ、3節の冒頭にも「なぜなら」があるのです。完全で誠実な歩みができる理由があるのです。なぜなら、あなたの恵みは目の前にあるからです。つまり神さまの恵みが私を導いてくださった。決して私の能力で真理の中を歩んできたのではなく、あなたの恵みが目の前にあったから、あなたの導きがあったから、あなたの真理のうちを歩み続けることができたんだ。真理の道を歩んでいたから、1節、誠実に歩むことができたのです。神さまの導きがなければ、誠実に歩むことはできませんでした。主の愛が先立っているように、歩みにおいても主が先立っておられます。

 私たちが主と共に歩む時にも「あなたの恵みは 私の前にあり」が大事なんです。いつも主を目の前に見ている。主を見て、導いていただく。私たちはどんなふうに、目に見えない主を目の前に見ているでしょうか。ただ主のイメージだけでは弱いでしょう。思わぬ出来事が起きたらよろめいてしまうでしょう。主を見ることができる最も大切なところはここです。礼拝です。礼拝でみ言葉を聞いているとき、私たちは主を目の前に見ているのです。日々の私たちのみ言葉の黙想も主と出会うことを大切にしています。主われを愛すのような賛美を歌うと主が目の前に見えてくるのです。


 この詩篇は「ダビデによる」という但し書きから始まっていました。ダビデ王はイスラエルを世界一の王国に建て上げました。多くの詩篇を聖書に残したような信仰深い人でした。人々からも高い評価と人気を得ていました。6節7節で神殿での礼拝について語っています。今でもエルサレムの西壁へのアプローチには手を洗う施設があるようです。またに向かう南の階段には身を清めるための沐浴施設があるようです。神殿礼拝に参加するには、まず手を清めなければなりませんでした。


手を洗い自らの潔白を示します。(6節前半)


手をきよめた礼拝者たちは神殿の周りを歩きながら、神さまがしてくださった驚くべきみわざのすべてに感謝の声を上げます。喜びの礼拝の列です。

 「手を洗い自らの潔白さを示します」「潔白」は「聖い」ということです。ダビデは手だけではなく、神さまに聖めていただく精練を経験していました。ダビデ王が、部下の妻を見初め、自分の欲望に負け、どうしても自分のものにしたくなってしまった。そのために部下を戦いの最前線に遣わして殺したのです。神さまは、ダビデの罪を調べテストし、そして精錬するために、預言者ナタンを遣わし、罪を指摘し悔い改めに導かれました。そのときにこう告白しています。詩篇第51篇10節です。


神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

ダビデ王は分かったのです。神に喜ばれる聖い心は、水で手を洗っただけでは駄目だ。まして自分で作ることはできなかった。悔い改めて、神の恵みと憐れみによって造っていただくしかないのだ。「神よ 私にきよい心を造り、揺るがない霊を、よろめくことのない新しい歩みに導いてください」。精錬された新しい心きよい心にしてください。

 聖さについて、イエスさまはこう言われました。マタイの福音書第5章8節

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

イエスさまは、私たちの心とはらわたをテストすれば、数えきれない汚れた思いが浮かび上がってくることを知っておられます。このままでは神を見つめながら共に歩むことができないと憐れんでくださいました。イエスさまはこのときすでに、十字架で私たちの罪咎汚れを洗うことを決めておられました。いのちを捨てる覚悟を秘めておられたから「心のきよい者は幸いである」とおっしゃったのです。こういうメッセージが込められていたのです。「わたしが十字架の血潮であなたの汚れた心も手も洗おう。神が見えるように目も洗ってあげよう。そうすれば、あなたの目の前に恵みがあることが見えるようになる。主と共に歩むことができるようになります」。

 「主われを愛す」の英語の原曲を調べてみたら7番までありました。5番にこのような歌詞があります。「私はイエスさまに愛されている。主は、天国の門を大きく開くために十字架で死なれました。イエスさまは私の罪を洗って聖め、御国に入れるようにしてくださっています」。

詩人は、真理の道を誠実に歩み、そのなかで精錬され、愛を深められました。そして、11節で、祈りをささげています。


しかし私は誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。(11節)


 詩人は水で手を洗いましたが、私たちはイエスさまの十字架の血潮で汚れにまみれていた手を洗っていただきました。それだけではなくはらわたも心臓も洗っていただきました。詩人に祈りが与えられたように、今、私たちは聖めていただいた手で祈るように導かれています。祈りは私たち自身ことから世界に広がるでしょう。

 ウクライナへの侵攻が始まり、なかなか現地の詳細な映像が届かないのでしょう。どの放送局も同じ場面を映し出していました。その中にひとりの幼い女の子のアップがありました。夜中大きな爆音が聞こえてきて、目が覚めてしまった。戦争だよと言われた。女の子は大粒の涙を流しながら言いました。「死にたくない」。ああ、戦争の悲惨さを繰り返している、同じ地球に住む者として申し訳ないと思いました。

 琉球新聞にこのような記事がありました。翁長(おきな)安子さん、92歳、15歳で沖縄戦を体験しました。郷土部隊で炊事や看護要員として従軍し、南部で猛烈な砲撃の中を逃げ惑いました。ご自分の経験を振り返りながら、ウクライナの人たちを心配していました。「あんな体験は誰にもさせたくない。武器を使う人は安全な所にいて犠牲になるのは結局、弱い者だ。政治家は人の命を虫けらくらいにしか考えてないのではないか。戦争を始めるという考え自体、最低だ。人間の血が通っているとは思えない」

 私たちは1月に阪神淡路大震災追悼礼拝で哀歌のみ言葉を聴きました。破壊された都エルサレムで、救いを求めて涙を流している女性や子どもたちのための祈りを学びました。今、ウクライナの子どもたちのために祈ることを求められているのではないでしょうか。哀歌第2章19節です。

夜、見張りの始まりに、立って大声で叫べ。あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたるところで、飢えのために衰えきっている。


 9節に「人の血を流す者」とありました。ウクライナの人たちの血を流している人たちが、一瞬でも早く、神の前に悔い改めることができるようにも祈りましょう。

 

 この詩篇はこういう言葉で閉じています。


私の足は平らな所に立っています。数々の集いで 私は主をほめたたえます。(12節)


私たちの立っているところは、ミサイル弾や砲撃で揺れることはありません。たとえ、ミサイル弾が飛んできても揺れることのない「平らな所」に立っています。「主に愛され、主を愛している」からです。「主の十字架がいつも目の前にある」からです。ウクライナにもこの平らな所が必ず広がります。お祈りします。

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