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「飼い葉桶はクリスマスの心」

2021年12月19日 クリスマス礼拝説教  後藤弘牧師


ルカの福音書 第2章1~20節


 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。

地の上で、平和が

みこころにかなう人々にあるように。」

御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。


 クリスマスおめでとういございます。

みなさんはクリスマスの季節の中で「クリッペ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。もともとは「飼い葉桶」という意味です。もちろん、イエスさまが布にくるまれて、寝かされた飼い葉桶を指します。そこから、クリスマスによく見かける、飼い葉桶を真ん中にして、マリア、ヨセフ、羊飼い、博士たち、馬や牛、が囲んでいる人形たちの置物を「クリッペ」と言うようになりました。スタンダードなクリッペは木で彫られた手の平ぐらいの大きさの人形たちです。教会によっては、実物大の人形たちを飾っているところもあるようです。

 孫はキリスト教系の幼稚園に通っていました。クリスマスになると由緒正しそうなクリッペを飾っていました。あるクリスマスに、幼稚園の先生が、クリッペの人形たちの立ち位置が分からないので、教えて欲しいと尋ねてきました。ほとんどの若い保育士たちは信仰を持っていませんでした。私が育った教会はクリッペを飾る伝統はありませんでしたので、さっそく調べて、ごくふつうの並べ方を伝えました。

 クリッペを調べていた時、面白いなと思ったのは、多くのクリッペは舞台が木で作られた馬小屋なのですが、中には洞窟のような馬小屋もあるのです。さらに調べてみると、当時、岩場をくり抜いて洞窟のようなところを馬小屋にしていたようだという説があるのです。そういう岩の馬小屋では、飼い葉桶も木ではなく、石だったようです。

 原山伊作先生という若手の牧師と親しくさせていただいています。原山先生は、以前、袖ケ浦にある「いのちの泉聖書教会」に仕えていましたが、今は長野県の松本中央教会に仕えています。原山先生は東京基督教大学と基督神学校で学びましたが、その間の数年間、エルサレムのホテルで働きながら、イスラエルで学んできました。そのころ、飼い葉桶は石だったという話をよく聞いたそうです。

 石であっても、木であっても、ふわふわのベビーベッドではありません。固く、冷たい。布にくるまれてますけれども、固く冷たい飼い葉桶にイエスさまは寝かされました。現代、生まれたばかりの赤ちゃんは、暖かく、清潔で、柔らかいに寝床に寝かせてもらえます。必要なら保育器で大切に育ててもらえます。私たちも、固く、冷たい飼い葉桶に寝かせることは決してしません。当時の人たちだって、赤ちゃんを飼い葉桶には寝かせなかったでしょう。柔らかな温かい布団に寝かせました。

しかし、イエスさまは、私たちを救うために来られ、暗い洞窟の家畜小屋、固く、冷たい、飼い葉桶を寝床となさった。今日、読んだみ言葉には、三度、布にくるんで飼い葉桶に寝かせられたことが繰り返されています。飼い葉桶には大切な意味が込められているはずです。ごいっしょに飼い葉桶に寝ておられるイエスさまを見つたいと思っています。

仙台の実家の近くには少年院がありました。小学生5年生の時、クラスにひとりの女の子が転入してきました。後でお父さんが少年院の院長だということを知り、少年院がぐっと身近になりました。そのころ少年院から、ときどき、少年たちが脱走することがありました。すぐに町内のスピーカーから警告が発せられます。「少年院から脱走した少年がいます。どこかに隠れているかもしれませんので気をつけてください」。実際に近所の押し入れに隠れていたこともありました。少年院は丘を切り開いたところにありました。丘を登り切ったところから少年院の全景を見ることができました。小学校よりも広いグラウンドがありました。目についたのは少年院の建物の窓や戸には鉄のような頑丈な格子がつけられていたことでした。冬は、寒いだろうなと思ったのを覚えています。

 毎年、クリスマスに、少女たちのための少年院でお話しをする仲間の牧師がいます。こんな話をしてくれました。少年院に着くと、規則によって受付で聖書と説教原稿以外の持ち物は、すべて預けなければなりません。そして案内してくれる職員について行きます。腰にたくさんの鍵を束ねたものをさげています。ひんやりとしたコンクリートの廊下にじゃらじゃらという音が響き渡ります。ああ、少女たちはこの固く冷たい中で生活をしているんだと、改めて自分がどこに来たかを思い知らされます。次々と現れる頑丈な扉や鉄格子を、鍵の束からひとつの鍵を選んで、カチャカチャと音をさせながら開けて進んでいきます。ひたすら固く冷たい飼い葉桶に寝かされたイエスさまの話をしようと思わされるそうです。この固く冷たい建物で生活している少女たちのところにくるために、罪を悔い新しく歩み直したいと思ている少女たちのところにくるために、イエスさまは固く冷たい飼い葉桶をはじめの寝床にしてくださいました。

 私は牧師たちが説教を学ぶ説教塾というグループに属しています。コロナ禍にあってもオンラインで学び続けています。ふだんは真剣な議論が多いのですが、若手の牧師たちによって柔らかなプロスラムを始めました。タイトルは「つねチャンネル」です。説教塾を指導している加藤常昭先生の名前から取ったものです。加藤常昭先生は御年92歳、牧師たちの牧師という存在です。新しいメンバーも増えたということで、加藤常昭先生に質問に答えていただきながら交わりを深めようというものです。質問はメンバーから募ります。司会者がインタビューをするように加藤先生に質問し答えていただきます。それを全国にいるメンバーがインターネットで見るのです。食べ物は何かが好きですか、というものから、牧師の深い悩みの相談まであります。もう4回ぐらい行ったでしょうか。なかなか好評なプログラムです。

先週は、クリスマスが近いということで、クリスマス関連の質問が中心でした。その中でこのようお話を聞くことができました。クリスマスは、キリストが私たちにいのちを与えるために来てくださった。私たちは受けるだけでいいのだろうか、神さまの愛を分かち合うことが大切ではないかということを、ご自身の経験から話してくださいました。

60年から70年代に、何度かドイツに留学に行った。そのころのドイツは、クリスマスは家庭で祝うことを大切にしていた。地方に散っていた家族も家に帰って来てクリスマスを祝う。そのお祝いの食卓に一人暮らしの留学生や高齢者が招かれるのです。なぜかというと、クリスマスを家庭で祝うので、一人暮らしの人は、孤独で冷たいクリスマスを過ごさなければなりません。そのまま放っておくのは神の愛をいただいたクリスマスにふさわしくない。だから周りにいる一人暮らしの人を迎えるのです。留学生だった加藤先生も、何度も、クリスマスの食卓に招かれたそうです。自分のための席が用意されていて、プレゼントまでいただいて、とても温かいクリスマスを味わいました。

 ドイツにベルリンの壁があったころ、冷たい支配の中にあった東ドイツでクリスマスを迎えたことがあった。同じように教会の長老の家に招かれてクリスマスを祝っていた。しばらくしてその教会の牧師が訪ねて来られた。すると挨拶も早々に、牧師と長老が抱き合って喜んだのです。そのとき聞こえてきたのが「今年は死んだ人がいない」。牧師が帰ってから、長老に、どういう意味なのかを聞いた。ベルリンの壁が出来て、家族が分断された家がたくさんある。ただでさえ家族と共に生きることができない悲しさと孤独を思い知らされている。クリスマスは家族と祝う日だからいっそう寂しさと悲しみを感じてしまう。冷たい世を生きて行くのに耐えられなくなって自殺してしまう人がいるのです。クリスマスは祝いの日なのに自殺の多い日になってしまった。キリスト教国では教会が役所のような役目も果たしているので教会員はとても多いので、毎年のように、クリスマスに自殺してしまう人が出てしまうのです。教会にとって大きな痛みなのです。でも今年は自殺した人がいなかったと手を取り合って喜んでいたのです。

イエスさまは固く冷たいこの世に来てくださいました。私たちは神さまから愛と救いといのちをいただきました。だから固く冷たいこの世で、孤独で寂しい思いをしている人を招く。私はこの話を聞いてこれこそクリスマスの心だと思いました。

今、私たちの国にベルリンの壁はありませんが、コロナ禍にあって、さまざまな交わりが分断され、たくさんの壁ができてしまっていいます。私たちはこのように喜びの祝いをしていますが、一歩、外へ出たならば、この世の冷たさで震えている人がたくさんいるのです。昨年、今年と、人を招きにくい状況にありますが、クリスマスの心を忘れてはならないと思います。

 いつも智賢(ちしえん)ちゃんのために祈っていてくださってありがとうございます。祈っていただいているみなさまに分かち合いとしてご報告したいことがあります。お父さんの王さんとお母さんの羅さんは共に中国の出身ですので日本語がまだ十分ではありません。お医者さんが智賢ちゃんの病状について説明してくれるので、ご両親から私に説明をいっしょに聞いて欲しいというお申し出がありました。先週金曜日夕方、千葉県がんセンターに行ってまいりました。

 羅さんが受付まで迎えに来てくださいました。羅さんといっしょに王さんが待っている病棟の談話室に行きました。すると車椅子に座っている智賢ちゃんもいました。初めて智賢ちゃんに会えたんです。コロナ禍であり、抗がん剤治療もしているので、智賢ちゃんに会えると思っていたので、とても嬉しく思いました。智賢ちゃんは、小学6年生の女の子です。3月に骨肉腫、7月に壊死した足の指の切断と、続けて厳しい二度の手術を受け、そして今、抗がん剤の治療が続いています。長い戦いで痩せ細った姿が痛々しく見えました。この小6の少女が大人でも耐えられないような病との闘いを、ほんとうに頑張っているんだなと深く思いました。すぐに、用意してきたクリスマスプレゼントを渡したら、とても喜んでくれました。それからしばらく智賢ちゃんとご両親と一緒に楽しく話をすることができました。担当の看護師さんがやって来て、いっぱいお話しできましたかと、面会の時間が終わったことが告げられました。すぐに智賢ちゃんを病室に連れて行きそうでした。

 私は、どうしても、智賢ちゃんと祈りたかったのでお願いしました。「私はお母さんの通っている教会の牧師です。ここで智賢ちゃんと祈ってもいいですか」。笑顔でいいですよと言ってくれました。智賢ちゃんを囲んで祈りました。「神さま、智賢ちゃんをここまで守ってくださり」と祈り始めたら、自分でもびっくりしたのですが、涙があふれてきてしまったのです。言葉にならなくなったのですが、気を取り直して祈りました。祈り終わると、看護師さんが車椅子を押して談話室を出て病室に連れて行きました。しばしの楽しい時間を終え、家族と切り離され、病との闘いの現実に帰らなければならないのです。智賢ちゃんが振り返るようにして車椅子から、何度もご両親そして私にお辞儀をしていたのが印象的でした。廊下の先には、無菌病棟への扉があります。中にももう一つ扉があるようです。吸い込まれるようにして無菌病棟に消えて行きました。

 病院ですから、冷暖房もあり、スタッフも優しいですから、洞穴の馬小屋のようではありませんが、壮絶な抗がん剤の副作用との戦の場でです。痛みだけではなく、小6の少女が、寂しさと戦わなければならないのです。はっとしました。先ほど私が泣いたのではなく、イエスさまが、智賢ちゃんのために涙を流して祈っておられるのだと確信しました。私たちは病室に入ることも、病と闘うこともできません。しかしイエスさまは智賢ちゃんの病室に来られるために、固く冷たい飼い葉桶を最初の寝床にされたのです。智賢ちゃんと共におられ、共に闘ってくださっているのです。

 智賢ちゃんは、最近の精密検査で、がんの転移はないという嬉しい説明を受けました。ただし来週から再び厳しい抗がん剤治療が始まります。来年の3月までに何度か繰り返して、経過がよければ3月末に退院できそうだということでした。引き続きお祈りいただけるようお願いします。

 固く冷たい飼い葉桶、固く冷たい少年院、冷たいこの世界、孤独と悲しみ、厳しい病との闘い。このように辿って来ると、他人ごとではない、私たちのうちに石のような固く冷たい心がないかどうか、吟味せざるを得ない思いになります。イエスさまがおっしゃったみ言葉を思い起こします。聖書の戒めの中で、最も大切なものは何ですかと問われて、イエスさまはこう答えられました。マルコの福音書第12章29~31節


 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」


 クリスマスは、このみ言葉で一年を振り返って、自分自身を吟味することが求められているのではないでしょうか。神さまの愛をいただいたのに、神さまの愛にふさわしくない石のように冷たい心はなかったでしょうか。この石は愛のない冷たい罪の心です。イエスさまは救いといのちと愛を与えるために飼い葉桶を寝床にしてくださいました。十字架を見れば神さまの愛によって私たちの冷たい石の心を燃やし尽くすためであったことがよく分かります。

 エゼキエル書第11章19節にこういうみ言葉があります。


わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。


イエスさまは、私たちの石の心を取り除くためにこられることを示すために、石の飼い葉桶に寝かされたのです。私たちの石のように冷たい心を取り除き、肉の心、愛の心、イエスさまの心を私たちにくださるためでした。

み使いはこう告げました。


 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」


 このクリスマスの祝いの日、「ダビデの町で」を「私たちの心に」と読み直したいと思います。「今日、私の心に救い主がお生まれになりました」。固く冷たい飼い葉桶は、救い主が来られた大きな喜びのしるしです。その喜びが、私たちの心に来たのです。


 今日、固く冷たいこの世で苦しんでいる人の心に、救い主がお生まれになりました。今日、孤独と悲しみに打ちひしがれている人の心に、救い主がお生まれになりました。今日、厳しい病と闘っている人の心に、救い主がお生まれになりました。今日、私たちの石の心に、救い主がお生まれになりました。


お祈りします。


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