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「引き寄せる 愛の引力 あなたにも」

2022年7月31日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第16章14-18節


14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

17 しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。

18 だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。


新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈りと呼ばれている、へブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


私は牧師たちの説教の学びのグループである説教塾に参加しています。月一回、今はコロナ禍ですので、オンラインで例会を行っています。今月、取り上げたのは、日本で二番目の女性牧師となった植村環牧師の説教でした。環牧師は、東京新宿にある柏木教会で1973年まで奉仕していましたので説教の音声が残っていました。早速、送っていただきました。届いたのはカセットテープでした。今の若い人はカセットテープを知らない人もいるようです。音楽を聴き方が、カセットテープから、MDになり、そして今は、mp3というデジタル録音になりました。娘が使っていたカセット付きのステレオで説教を流して、mp3で録音し直して、オンラインの例会で流すことができました。古いカセットテープの時代の説教を、新しい時代のmp3で聞いても、当然のことですが、変わることのない救いの福音が大胆に語られていました。

聖書にも古い時代、新しい時代があります。その名の通り、旧約聖書の時代と新約聖書の時代です。16節に、そのことについて、イエスさまはこう語られていました。16節。


律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。


この「律法と預言者」が、私たちの旧約聖書にあたるものです。この当時、新しい時代の新約聖書はまだ編纂されていませんでしたから、これが聖書であり、神の言葉でした。

イエスさまは、洗礼者ヨハネは、古い時代最後の預言者であり、新しい時代の福音を語り始めた預言者だとおっしゃいました。ヨハネは、ユダヤの人びとに悔い改めを勧めながら、救いの福音、主イエスが来られることを語ったのです。洗礼者ヨハネ以前には福音は語られていませんでした。そして、イエスさまご自身が、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられたのです。神の国がここに来た。ここに神の支配が始まった。神の救いの力が、あなたがたを捕える。悔い改めて、福音を信じて、救われなさい。福音を信じて救われる新しい時代が、今、ここに来た。イエスさまは、救いの福音を説教と力あるわざによって宣べ伝えられました。新しい時代が始まったのです。

今日のみ言葉に登場しているパリサイ人たちは、古い時代に生きていました。パリサイ人たちは、神の言葉を真剣に研究し、一所懸命に神の言葉に生きようとしていました。しかし、残念ながら、神の言葉を正しく理解することはできていませんでした。パリサイ人たちを責めることはできないかもしれません。旧約聖書の言葉は、多くの人にとって、主イエスが来られ、福音が語られて、イエスさまのお言葉を聴いてやっと真実を知ることができる面があるのです。それでも、パリサイ人たちは十分には分かっていませんでしたが、生真面目に、律法を具体的に細かい規定に置き換えることによって、神の言葉を理解し実践していると勘違いしていたのです。なぜなら、どうしても形式的にならざるを得なかったからです。パリサイ人たちもうすうす気づいていたかもしれませんが、人間が考えたことですから、そこには人の欲や罪がいとも簡単に入り込んでしまっていました。

その最たる例として、19節で、イエスさまは離縁について取り上げておられました。パリサイ人たちの規定では、男性の勝手な都合で離縁できたのです。例えば料理が美味しくないと言えば、離縁できる理由になったのです。ここでは離縁の良し悪しではなく、イエスさまは、女性を軽んじてはいけない、あなたがたは律法を間違って理解していると指摘しておられるのです。


古い時代を生きていたパリサイ人は、イエスさまが語られた新しい時代の福音の言葉を理解することはできませんでした。イエスさまのお話を聞いて、あざ笑いました。14節。


金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。


イエスさまは、第15章の冒頭から、古い時代のままのパリサイ人たちに、新しい時代の救いの福音を語り始めておられました。きっかけは、イエスさまが罪人たちにお話をしながらいっしょに食事をしていたところを、パリサイ人たちが見咎めたことからでした。パリサイ人たちはこう思っていました。神の言葉は律法を守っている者たちのものでないか、律法も礼拝も守っていない罪人たちに語るなんて、とんでもないことだ。まして汚れた罪人と話をするだけで、こっちまで汚れるというのに、いっしょに食事をするなど、けしからん。このイエスという若造は、神の裁きを受けなければならない。これが古い時代の顕著な考え方です。

イエスさまは、この古い時代のまま生きているパリサイ人たちに、新しい時代の救いの福音を語られました。まず三つの譬え話を話されました。「いなくなった羊を見るけるまで捜す羊飼い」「なくなった銀貨を見つけるまで捜す女性」「家出した弟息子と家に入らない兄息子を憐れむお父さん」。第16章に入って、弟子に不正な管理人の譬えを重ねて語られました。しかし、神の言葉について古い理解をしていたパリサイ人たちは、新しい時代の福音の言葉は、間違いとしか聞こえませんでした。

イエスさまがお話しの最後に13節で「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」と語られたのを聞いて、とうとう、はっ、何を言っているんだと、あざ笑いました。あざ笑ったということは、イエスさまを下に見たのです。見下したのです。自分たちの方が正しいと信じて疑わなかったからです。パリサイ人たちの古い理解では、富は神の祝福なのです。神の祝福を受けた人は、富も祝福される。富は神の祝福のバロメーターのようなものでした。自分たちは律法と預言者の言葉を守り、礼拝を守り、祈りをし、献金を献げているから、自分たちは神の前に正しい。だから、神の祝福を受け、富も祝福されているんだ。パリサイ人たちから見れば、イエスさまの周りに集まってくるのは、貧しい人、病で苦しんでいる人などでした。不幸に思えるような人たちでした。やつらは神の祝福を受けていないのだ。神の祝福がないから貧しいのだ。病などは神に呪いだ、とまで考えていたのです。

しかし、新しい時代、福音の時代、福音の救いの時代の祝福は全く違っていました。イエスさまは、貧しい人、罪に捕らわれている人、病の人、見下されている人たちにこそ、神の祝福が与えられることを教えてくださった。ルカの福音書第4章19節。イエスさまのお言葉です。旧約聖書の言葉を引用しています。


捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」


福音の祝福がここに来た、貧しい人に来た。新しい時代が始まったとおっしゃたのです。イエスさまがパリサイ人たちの古さの間違いを指摘されました。15節。


イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。


あなたがたは、神さまではなく、人の目ばかり気にしていますね。自分の正しさをアッピールして、人びとの上に立つのが好きですね。気づいていないんですか、あなたがたは神の上に立ってしまっているんですよ。神を神としていないんです。あなたがたが頼りにしているのは、神さまではなく、人びとの評価や富なのです。あなたがたは大きな間違いをしています。神さまは、あなたがたの心をご存じです。


私は、この「神はあなたがたの心をご存じです」は、パリサイ人たちの古い時代の的外れな生き方を知っている、と裁くような言葉でもありますが、それだけにとどまらないと思います。あなたがた自身も気づいていない、心の底の底で、救いを求めていることを、わたしは知っていますよ、という言葉ではないでしょうか。

放蕩息子の譬え話の中で、兄息子がいじけて家に入ろうとしなかったとき、神さまに譬えられているお父さんは、家を出て、兄息子をなだめたのです。お父さんは、弟息子を憐れんだように、兄息子も憐れんで、お父さんが駆け寄って、慰めたのです。そのお父さんの姿は、今、イエスさまがパリサイ人に語っている姿なのです。パリサイ人が新しい福音の時代に入れるように、神の国に入れるように、愛と言葉を尽くして招いておられるのです。

そして、イエスさまは、新しい福音の時代になろうとも、神の言葉は変わらない、一画も落ちない。天地が滅んだとしても、神の言葉は変わらない、あなたがたの大切にしている、愛している神の言葉は真理の言葉だとおっしゃった。17節。


しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。


わたしが福音を通して、神の言葉を正しく解き明かすから、よく聞いて、正しく理解してほしい、とイエスさまはおっしゃいました。とことん、丁寧に丁寧に教えておられるのです。その丁寧さで、イエスさまは、今日のみ言葉の続きの19節から、お金持ちと貧しい人の死後について話をして、さらに神と富に仕えることはできないことを教えられるのです。なんと丁寧なことでしょう。

イエスさまは、新しい福音の時代の特徴についてこう言われました。16節です。


律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。


「だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています」。どういうことでしょうか。この場面で言えば、罪人たちが、イエスさまのところに、話を聞きに来ていています。神の救いに入ろうとしているとも言えるでしょう。しかし、どう見ても「力ずく」で入ろうしているようには見えません。また、「だれもが」という言葉は「すべての人」という言葉で書かれています。今、イエスさまが語りかけているパリサイ人たちは、主イエスがおっしゃっている福音の中へ、神の国の中へ、入ろうとはしていません。かえって強い反発をしています。ですから、パリサイ人たちは「だれもが」のなかには入りません。私たちが救われたときのことを思い出してみても、だれ一人、力ずくで救いに入った人、救いを力ずくで、手に入れた人はいないと思います。少し、割り引いて、救いを熱心に求めるように、主イエスが勧めておられると考えることも赦されるかもしれませんが、どうも、すっきりしません。

この言葉をもともと書かれているギリシャ語を直訳してみるとこんな言葉になります。「すべての人 その中へ 激しい力が働く」。「その中へ」の「その」は、神の国、あるいは福音の救いです。「激しい力」は「暴力的な力」という強い意味も持っています。「激しい力が働く」という言葉を、もともと書かれているギリシャ語を調べてみると、言葉の語形からふたつの意味が考えられるのです。ひとつは自らの働き、もうひとつは受け身の働きです。自らの働きなら「激しい力が働く」、受け身の働きなら「激しい力を受けている」。なるほどと、思いました。自らの働きなら、聖書の翻訳のように「すべての人が、神の国へ、激しく入ろうとしている」。もうひとつの受け身として読むなら「すべての人が、神の国の中へ、激しい力を受けている」、それを意訳すると「すべての人が、救いに入るように、神の国の、あるいは福音の力を受けている」。これなら、まさに私たちの救いではないでしょうか。もっと分かりやすく訳した人がいます。「人びとはみんな、激しく招かれている」。私は「すべての人は、救いに引き寄せられている」と訳したいと思っています。

イエスさまのところに集まってくる罪人たち、病を抱えた人たち、心が貧しい人たちは、イエスさまが語られる救いの福音や神の愛に引き寄せられていたのではないでしょうか。私も教会の礼拝に出るようになって、語られる神さまの愛に引き寄せられるようにして、毎週、礼拝に出るようになり、やがて、イエスさまに引き寄せられ、捕えていただきました。

イエスさまが、あざ笑うようなパリサイ人たちに、時には厳しい言葉もありますが、こんなにも丁寧に語り続けておられるのも、イエスさまが、パリサイ人たちを、愛と憐れみによって、救いへと引き寄せておられるからではないでしょうか。

第15章で語られた譬えも、そのことを語っていました。羊飼いは、迷い出た羊を、自分の腕の中に引き寄せるまで決してあきらめずに捜しました。羊が羊飼いを見つけたのではありません。神さまの私たちを求める深い憐れみです。銀貨を捜した女性も、銀貨を自分の手に入れるまで、とことん捜しました。銀貨から女性のところに行くことはできません。譬え話のお父さんは、弟息子が帰ってくるまで、兄息子が家に入るまで、深い憐れみで、腸痛めるほどの激しい愛で、息子たちを求めて、お父さんから駆け寄ったのです。第16章では、弟子たちに、この世の富を使ってでも、人びとの友となって、救いに招くように勧めました。

地球の引力によって、すべてのものが地球の中心に引き寄せられるように、罪人も、パリサイ人も、律法学者も、ユダヤ人も、ギリシャ人も、異邦人も、日本人も、私たちも、神さまの救いに向けて引き寄せられているのです。

イエスさまが、私たちを救いへ、神の国へ引き寄せると、はっきりおっしゃったみ言葉があります。ヨハネの福音書第12章32節。


わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。


わたしが十字架に上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せる。わたしは、わたしがいのちを捨てることによって、すべての人を、福音の救いへ、神の国へ、引き寄せます。この神の救いの力は、信じていない人にも、反発している人にも、敵対している人にも働いています。今、みなさんのなかで、イエスさまのみ言葉を聴いて、十字架に引き寄せられているなと思ったらなら、どうか、福音の救いを、罪の赦しを求めてください。イエスさまがこうおっしゃっています。わたしは、あなたを必ず見つけて、救い出します。


イエスさまが十字架の上にかかったままの十字架像を磔刑像と呼んでいます。磔の刑の像です。カトリック教会の十字架です。カトリックの黙想の家をお借りして開かれるセミナーに参加することがあります。お御堂にも、個室にも、廊下にも、食堂にも磔刑像が掲げられています。磔刑像と親しくなると言ったら変でしょうか、十字架に架かられたままのイエスさまに祈る生活をするのです。黙想の家で小さな磔刑像を買って来たこともあります。今も、コンピューターのスピーカーの前に置いています。ドイツのある地方の磔刑像は、両手が十字架に付けられていないで、見る者を腕の中に抱くように、前に伸ばしています。まさに、イエスさまのみ言葉を表しているのです。


わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。


忘れてはならないのは、イエスさまが引き寄せてくださるのは、私たちが正しいからではありません、よい行いを積んだからではありません、立派な信仰者だからではありません。イエスさまは、イエスさまを殺そうとするパリサイ人をも引き寄せようとなさいました。それどころか、イエスさまを十字架につけた人たちのために、十字架の上で罪の赦しを祈って、救いへ引き寄せられました。イエスさまは、罪の中にうずくまるような私たちを引き寄せておられます。神さまよりも、人の評価や富を頼りにしてしまう愚かな私たちを、ぐっと、引き寄せておられます。私たちはただイエスさまの十字架の前に立てばいいのです。イエスさまがすべての罪を十字架の血潮で洗ってくださいます。今、イエスさまはあなたを腕の中に引き寄せておられます。お祈りします。


やけるような陽射しですが、澄み切った青空を見上げると、天に引き寄せられるような思いがします。あなたはそれ以上に、私たちを神の国へと、救いへと、福音の喜びへと、引き寄せていてくださいます。あなたの神の国の力に逆らうような、罪深いものですが、それでも、あなたは御子の十字架の愛によってあなたのもとに引き寄せていてくださいます。どうか、あなたの憐れみの深さを心身ともにしっかりと受けることができますように。今週の日々、み言葉と聖霊によって、あなたの愛に引き寄せられて歩むことができますように。十字架の血潮で、古い考えを福音の新しさで塗り替えてください。主イエス・キリストのお名前によって、感謝し祈り願います。アーメン

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