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「イエスさま あなたの道に 現れる」

2022年4月24日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第24章13-32節


13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。

14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。

16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。

20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。

21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、

22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、

23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。

24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。

29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。

31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」


 みなさんは、NHKのプロジェクトXというドキュメンタリー番組をご存じでしょうか。先日、2000年に放送されたものを最新技術で画像を綺麗にして再放送していました。タイトルは「執念が生んだ新幹線~老友90歳戦闘機が姿を変えた」。私の父が国鉄、今のJRを定年退職して、国鉄の下請け会社が第二職場となりました。その会社は仙台の郊外にある新幹線の基地の施設管理をしていました。ですから、私なりに新幹線は近く感じていましたので、「執念が生んだ新幹線」というタイトルに惹かれて見ました。

 敗戦後、昭和30年に入ると、飛行機での旅行が盛んになり、鉄道産業が落ち込んできた。そこで、「夢の超特急、東京・大阪3時間」というキャッチフレーズで、新幹線を開発することになった。多くの技術者が呼び集められ、リーダー格の一人が三木忠直さん、放送されたとき、90歳でした。

 日本は戦前、三木さんだけでなく、戦争の道を盲目的に走り続けていました。三木さんは、海軍航空技術省設計係の少佐で、戦闘機の設計をする技術者だった。敗戦間際、技術者の良心を押し殺してしなければならない命令が下された。特攻機「桜花」の設計だった。着陸する車輪もなく、敵艦に突っ込んで行って自爆するための特攻機。技術者たちの反対は上から押し切られた。多くの若者が、自分の設計した飛行機に乗って、南洋や沖縄の海で、軍艦に突っ込んで散っていきました。戦後も、亡くなった若者のことを思うと、良心の呵責に苛まれ続けました。戦前は、日本の戦争の道に巻き込まれ、敗戦後は、罪を悔いる道を歩まねばならなかった。番組のナレーターは「三木が一番重い十字架を負った」という表現をしていた。

 敗戦後、三木さんは「人の役に立つものを作りたい」「鉄道は平和産業だ」と思って鉄道技術研究所に入所しました。そして番組のナレーターはこう言いました。「三木さんが、聖書の言葉と出会った。テレビで信仰の証しを聞けるとは思いもしていなかったので、心が震えました。今日のみ言葉を重ねるなら、三木さんの悔いる道に主イエスが現れてくださったのです。負いきれない罪の重荷で疲れ果てていた三木さんに、イエスさまが近づきいっしょに歩み始められたのです。文語訳の聖書がアップで映され、線が引かれた聖書箇所を紹介してくれました。マタイの福音書第11章28節。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

その後、ナレーターは三木さんが洗礼を受けたことを語り、2000年当時、三木さんが教会の主日礼拝で賛美している姿を映し出しました。驚きました。行ったことのある仲間の教会の礼拝堂でした。その牧師が司式をしていました。老齢の三木さんの神に礼拝をささげている姿に、負いきれない良心の呵責から救ってくださったイエスさまが重なって見えました。

 三木さんは、戦闘機の空気抵抗が小さい流線形を新幹線に応用し、当時の世界最高速度256キロを達成し、戦後復興の象徴になりました。

 イエスさまは悔いている者を、遠くから近くに来るように招かれるのではなく、近づいて来られ、同じ道をいっしょに歩んでくださり、救ってくださいます。


 今日のみ言葉を三木さんの歩んでいた道に重ねて読みました。お聞きになりながら、状況も背景もまったく違いますが、ご自身の救いと重なって聞こえた方もおられたのではないでしょうか。

 私たちはそれぞれ違った道を与えられましたが、みんな一所懸命に歩いてきました。ときには茨の道があったかもしれません。歩くのがしんどいな、もう歩けないなと思っているときにこそ、イエスさまは現れ、いっしょに歩んでくださり、み言葉を解き明かし、救ってくださったのではないでしょうか。


 私たちは今日のみ言葉からいろいろなことを知ることができます。ひとつはこのふたりの弟子たちは「暗い顔」をしていたことです。私たちも、心配なとき、苦しい時、悲しい時、寂しい時、暗い顔をすることがあります。イエスさまは暗い顔の私たちに近づいてくださり、いっしょに歩んでくださいます。

 今日のみ言葉は、イースターにも読まれ、教会にとても愛されてきた物語です。なぜ愛されてきたのか、弟子たちの顔が明るくないからです。ルカの福音書が教会で読み始められたころ、教会は激しく「迫害される道」を歩んでいました。もう教会が倒れてしまう、教会がなくなってしまうかもしれないという状況でした。自分たちも暗い顔をしていたのです。しかし、今日のみ言葉を読むと、試練の真っただ中、教会といっしょに歩んでおられるエスさまが見えたのです。イエスさまが導いていてくださるんだと、慰めと望みが与えられたのです。

 もうひとつ、弟子たちが暗い顔をしているときは、いっしょに歩んでいる方がイエスさまだということが分からなかった。ヨハネの福音書でも、マグダラのマリアは、イエスさまが十字架で殺され悲しみにくれて、イエスさまの墓の前で泣いていました。イエスさまはマリアに声をかけてくださいました。しかし、マリアはイエスさまだと分からず、墓地の管理人だと思ってしまいました。暗い顔をして目がさえぎられていたからです。

 自分たちを振り返ってみると、悲しい時、苦しい時、どうでしょうか。イエスさまがそば近くにおられることが分かっていたでしょうか。み言葉が近くにあると思えたでしょうか。このふたりの弟子たちを同じではないでしょうか。暗い顔をしてしまっているために、目がさえぎられ、イエスさまがともにおられることが分からなくなっていたことがあるのではないでしょうか。

 ひとつ思い起こすのは、イエスさまは、パウロにも現れてくださったことです。そのとき、パウロは教会を迫害していました。使徒の働き第9章2節後半。


この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。


ここで興味深いのは、イエスさまを信じているキリスト者が「この道の者」と記されていることです。私たちもこの道の者です。「主に従う道」を歩んでいます。

 一方パウロは、旧約聖書の神に背くことを説いているナザレのイエスを信じるなんてけしからんと、怒りに燃えていました。パウロが歩んでいた道は「教会を迫害する道」でした。「教会を迫害する道」の者が、「主に従う道」の者を、怒りに燃えて、縛り上げ、牢に投げ込んでいた。イエスさまの目に、パウロの怒りに燃えていた顔も暗い顔に見えたことでしょう。「教会を迫害する道」にもイエスさまは現れて、パウロを救い出し、生涯ともに歩んでくださいました。

 イエスさまは「教会を迫害する道」にも現れて、暗い顔をしている者を救ってくださるなら、私たちがどんなに暗い顔をしていても、主は近づいてこられ、ともに歩んで、主の道へと導いてくださいます。

 

 イエスさまが甦られた朝、イエスさまのふたりの弟子がエマオの村へ向かって歩いていました。エマオの村はエルサレムから11キロぐらい離れているところにあります。その道は、イエスさまを十字架で失ってしまった「絶望の道」「落胆の道」でした。ひとりの名前ははっきり記されています。「クレオパ」。もうひとりの名は記されていません。この福音書を記したルカは、私たちに自分の名前をここに入れてご覧なさい。そうすれば、主とふたりの弟子たちとの出会いが、主とあなたとの出会いだということが分かるでしょう、と心を込めて書いています。

 ふたりは歩きながらただ話し合っていただけではなく、論じ合ってもいました。何を語り熱く論じ合っていたのでしょう。すべての出来事についてです。この後のイエスさまに事情を話している言葉で分かります。イエスさまが十字架で殺されておしまいになったこと。それだけではなく、イエスさまが甦られたという報告があったことです。イスラエルの王国を造ってくださる方が、なぜ、十字架で死ななければならなかったのか。なぜ、イエスさまのお体がなくなってしまったのか。話し合い、論じ合っていたのです。しかし、ふたりが歩んでいた道は、もう「弟子の道」ではなく、イエスさまを失い、エルサレムを後にし、自分たちの故郷の村へ戻る「絶望の道」でした。


 すると、甦られたイエスさまが、「絶望の道」に近づいて来て、ふたりといっしょに歩き始められました。殺されておしまいになったイエスさま、いいえ、三日の後に甦られた主が、今、「絶望の道」をいっしょに歩いてくださっている。「絶望の道」を覆っていた暗闇が裂けて天の光が射し始めたのです。

 クレオパたちはとなりを歩いている人がイエスさまだと分からなかった。どうして分からなかったのか。イエスさまが以前とは違うお姿やお顔をしていたからか。そうではありません。死から甦られた主のお姿は以前のままでした。ルカは言う、ふたりの「目がさえぎられていた」。マグダラのマリアもそうでしたが、心の悲しみや苦しみ、不安や恐れ、忙しささえも、私たちの目をさえぎってしまうことがあります。物事の本質が見えるようになることを「目から鱗が落ちる」と言います。これはもともと教会を迫害していたパウロに起きた出来事でした。教会を迫害していたパウロがイエスさまを信じたとき、目から鱗のようなものが落ちて、イエスさまが見えるようになったのです。私たちの目に、悲しみ鱗、心配の鱗、罪の鱗ができると、目がさえぎられて、イエスさまが触れるほどに近く来られても、見えなくなるのです。その鱗は自分で取り除くことができません。イエスさまがみ言葉を説き明かしてくださらないと鱗は落ちないのです。

 クレオパたちといっしょに歩き始められたイエスさまが尋ねました。「何を語り合っているかな」。クレオパたちは暗い顔をして立ち止まった。立ち止まる。驚いたからです。隣を歩いている男が、十字架でイエスさまが殺されておしまいになったことを知らないと言ったことに驚いたのです。エルサレムの街中がたいへんな騒ぎになったというのに、知らないなどと言うのはあり得ないではないか。特にクレオパたちにとっては、俺たちの弟子としての人生は終わったと思っている大事件です。無関心にもほどがある。憤りのようなものさえこみあげてきて歩くのを忘れてしまって、立ち止まった。

 クレオパは答えました。「あなたはよそからやって来て、エルサレムに滞在していたんでしょう。あなたのようなよそ者だって、エルサレムにいたなら、最近起こった出来事を知らないわけはないでしょう」。「どんなことですか」。ふたりは自分たちの悲しみと嘆きを、イエスさまにぶつけるように丁寧に事情を説明しました。それが18bー24節。前半は「イエスさまの十字架の死」で、後半は「イエスさまのお甦り」について。

クレオパたちは、イエスさまが神の預言者であることは、民数記第18章15節のみ言葉で確信していました。


あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。


イエスさまこそ、モーセのようにイスラエルの民を導き、ダビデのようにイスラエル王国を建てくださる方だ。イエスさまは、イスラエルを支配しているローマ帝国に勝利して、神の国を建国してくださる。そして自分たちはイエスさまの王国で偉い人になれると思っていたのです。そのために、何もかも捨てて、イエスさまに従う「弟子の道」を歩んできたのです。

 しかし、イエスさまは十字架で殺されておしまいになり、王イエスさまのもとで自分たちが偉くなる夢は、はかなく消えてしまったのです。ああ、これからどうしたらいいんだ。暗澹たる思いでした。落胆し、絶望し、途方に暮れ、暗い顔でエマオの田舎に帰る「絶望の道」を歩いていた。もう「弟子の道」に戻ることはないと思っていたのです。

 歩きながら話し合い論じ合うふたり。どうして、イエスさまは十字架で殺されなければならなかったのか。イエスさまの十字架の死だけでさえ負い切れないのに、墓を見に行った女たちの報告が、クレオパたちをさらに戸惑わせていました。イエスさまのお体が墓から無くなっていた、み使いがイエスさまは生きておられると言った、仲間が確かめに行ったら、ほんとうに遺体は見当たらなかった、いったいどういうことなんだ。クレオパたちは、イエスさまがたびたび三日目に甦ると予告なさっていたことを、忘れたというよりも、まるで聞いていなかったかのように思い起こすとはありませんでした。

 今度はイエスさまが大きく嘆かれた。


ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。(25節後半)


「ああ、愚かだな、馬鹿だな」。厳しいお言葉です。「ああ、おまえたちはどこまで馬鹿なんだ。どうして、そこまで神の言葉に鈍いんだ。なぜ、旧約聖書の言葉を信じることができないんだ。」

 イエスさまがおっしゃった愚かさは、人格的な愚かさではなく、聖書を理解できない愚かさでした。クレオパたちは、イエスさまは華々しく「勝利者の道」を歩まれると思い描いていたのです。それに対して、イエスさまはこう言われたのです。「救い主キリストは、「勝利者の道」ではなく、「苦難の道」を歩まなければならないと、聖書に書いてあっただろう。苦しみを受けられた後、甦りの道を通って栄光に入るはずだったろう。そう預言されていただろう。どうして、神の言葉を理解できないんだ」。

 イエスさまは、しょうがないなぁと言って、手の釘の跡を見せたり、わき腹の傷を見せて証明しようとはなさらなかった。聖書の言葉が理解できるように解き明かしてくださいました。イエスさまはふたりを相手にみ言葉を説教してくださった。なんと贅沢な礼拝でしょうか。イエスさまは、今、このようなみ言葉の説教をするように教会に託しておられます。

イエスさまの礼拝説教を聞いたふたりは、このときのことを32節でこう言っています。


二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32節)


イエスさまの説教で、心は内で燃えていたではないか。聴いていた時は、燃えていたことに気づいていなかったようです。踊りたくなるような燃え方ではなかった。内で。心の内で静かに、しかし、じっくり熱く燃えていたということでしょう。聖書の言葉が燃えていたのです。イエスさまが解き明かされると、神の言葉が良く分かって、み言葉が燃え出していたのです。イエスさまの霊によって、み言葉が燃え、ふたりの霊が燃やされていたのです。


 イエスさまの説教で心が燃やされていたら、あっという間にエマオの村に着いてしまいました。イエスさまはもっと先に行かれるようだった。クレオパたちは、もっとイエスさまの説教をお聞きしたかった。イエスさまを強く引き留めました。

彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(29―31節)

イエスさまを交えて夕食の食卓につくと、イエスさまがパンを取って神をほめたたえ裂いてくださいました。その姿はクレオパたちにイエスさまとの食卓を思い起こさせました。5000人の空腹を満たしてくださった草原の食卓、最後の晩餐の食卓。それだけではなく、日々、イエスさまがパンを裂いてくださった食卓です。食卓に霊が注がれ、遮られていた目が開かれました。霊の目をさえぎっていた鱗が落ちたのです。今、霊の目が開かれました。もう、目で見えるイエスさまはもう必要なくなり、イエスさまは見えなくなりました。今の私たちも、肉体の目ではイエスさまは見えませんが、霊の目でイエスさまを見て喜んでいます。ペテロはこのように証言しています。Ⅰペテロ第1章8節。


あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。


私たちも、イエスさまが目で見ることができませんが、イエスさまを信じ愛し喜んで礼拝しています。甦られた主は生きてここにおられます。この方が、私たちの歩んでいる道に足を踏み入れてくださいます。ご自身が悲しみの道、苦難の道、死の闇の道を通られたので、私たちのどんなに深い「絶望の道」であっても、見捨てることなく共感してくださいます。み言葉と御霊で目の鱗と愚かさを溶かしててくださいます。この方がいっしょに歩んでくださるから、私たちの絶望の道が希望の道になります。悲しみの道が慰めの道になります。罪の道が悔い改めの道になります。

 初めにご紹介した三木さんは戦争の重荷を負い切れず暗い顔をしておられましたが、イエスさまは、三木さんの「悔いる道」にも、み言葉を通して現れてくださいました。私たちは、今、自分が暗い顔をしているなと思ったら鏡を見ましょう。目には見えませんが、隣にイエスさまがおられるのが分かるでしょう。 

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