2021年11月7日 主日礼拝説教 後藤弘牧師
コリント人への手紙 第二 第6章1-2節
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
今、私たちは聖歌593番で神さまを賛美しました。教会が愛して歌い続けている讃美歌です。私の大好きが賛美のひとつです。この賛美を歌うと心が広がり、恵みが流れ込んできます。「ああ、恵み!はかりしれぬ恵み ああ、恵み!われにさえおよべり」。「はかりしれぬ恵み」。神の恵みははかりしれないほどに深く大きなものです。私たちは神の恵みのなかを生きている。神がよいことをしてくださったことを、神の恵みとして証しします。神さまを呼ぶとき「恵み深い天の父よ」と言います。この礼拝の最後に、私はこう言って神さまから祝福を告げます。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。民数記 第6章25節
私たちは神の恵みに取り囲まれて生かされている。神の恵みに浸りきっているのです。昨日の日々の聖句・ローズンゲンのみ言葉にも恵みが歌われていました。
「私の足はよろけています」と私が言ったなら 主よ あなたの恵みで私を支えてください。詩篇 第94篇18節
「私の足はよろけています」。実際に足がよろけることがあるでしょう。足ばかりでなく心が揺れ動いてしまうことがあるでしょう。また信仰がぐらぐらしちゃうときもある。誰もが経験しているのです。揺れ動く心を、信仰を、私たちの力では落ち着かせることができません。主の恵みだけが、私たちを支えてくれるのです。
この詩篇に対応する新約聖書のみ言葉も慰め深いものでした。ペテロの信仰がぐらついたとき、主イエスは言われたんです。イエスさまは、今、私たちにも言われるんです。
わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。
ルカ 第22章32節
私たちの信仰がよろけてしまったとき、さらに揺れ動く不安で、神さまが見えなくなるとき、イエスさまが、信仰がなくならないように祈っていてくださる。これこそ大きな神の恵みです。このように、恵みは私たちの生活にあふれています。今、意識していないのに呼吸していることも、休まず心臓が鼓動を打っていることも、日々欠かさず食事をいただけることも、神の恵みです。私たちが自分のものだと思いがちな、与えられている時間さえも神の恵みです。この大地も空も宇宙も神の恵みです。神の恵みを知ることは、神ご自身を知ることにつながるかもしれません。そう考えてくると、神の恵みの豊かさに圧倒されてしまいます。
神の恵みについて、伝道者パウロはコリントの教会の人たちにこう言いました。「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」。神の恵みに圧倒されているばかりではなく、しっかり神の恵みを受け取っているか、と問うたのです。これはただ信仰の先輩として言っているのではありません。パウロは「神とともに働く者として」語っています。パウロは、今、謙遜にそして誇りをもって神と共に働いているのです。神とともに働く者として、神の代わりにあなたがたにこのことを強く勧める、と言ったのです。先輩の個人的なアドバイスというものではなく、神さまが強く望んでおられることを、神の代弁者として、「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」と言ったのです。「無駄にするな」。この言葉は私たちに自分の生活のすべてを「神の恵みを無駄にしていないか」吟味するように促します。私たちは吟味すると共に、神の恵みを無駄に受けないように、私たちを押し流すほどの恵みの豊かさの急所を押さえておくことが大事です。神の恵みの源と言ってもいいでしょう、神の恵みの原点に目をとめておくことが、神の恵みを無駄にしないためのとても大切な秘訣です。
この手紙は、今日のみ言葉の前の段落、第5章11節からその章の終わりまでに、神の恵みの源を明らかにしています。そのなかでひとつの大切な節は、第6章の直前の第5章21節です。
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。Ⅱコリント 第5章21節
ここには恵みという言葉は語られていませんが、神の恵みの原点がはっきり述べられています。恵みは、受けるのにふさわしくない者に与えられる、神さまの憐れみ、神さまからの愛の贈り物です。しかし、私たちは神の恵みを受け取りたくても、手も心も罪で汚れてしまっていました。神さまは罪に苦しむ私たちを憐れんで、私たちの罪をキリスト負わせて、キリストを罪とされました。罪を知らない方が、私たちの罪のために十字架で死んでくださったのです。イエスさまの十字架の恵みによって私たちは罪と死から救われました。そればかりか、今、神の子として生かされています。イエスさまの十字架こそ神の恵みの原点です。エペソ人への手紙ではこう言い表しています。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。エペソ 第2章4-5節
イエスさまが十字架で死なれ、復活なさった恵みによって、私たちは救われたのです。先ほど歌った聖歌593番で、私たちも恵みの源をしっかり歌っていました。
「いのち得よ」とイエスは血潮流しませり(1節)
見よ、血潮はなれを雪より白くせん(3節)
イエスさまが十字架で流された血潮にこそ、神の恵みの源があるのです。十字架をしっかり見つめていることが、神の恵みを無駄にしない大切な秘訣です。十字架からあふれるほどの恵みが私たちの手に心に注がれてきているのです。
旧約の預言者エゼキエルは、神の恵みがあふれ流れて来ることを、神さまに幻として見せていただきました。エゼキエル書の第47章です。聖書を開いて目で追ってくださるといいと思います。私の大好きなみ言葉です。預言者エゼキエルは、神さまに天の神殿の幻を見せていただきました。すると神殿の敷居の下から水が流れ出ていました。神さまはエゼキエルに川の深さを調べさせました。初めは足首までの深さ、進むと膝に達し、さらに進むと、なんと「泳げるほど」の川になりました。天にある神殿からの流れは、泳げるほどに豊かな流れです。この川によってすべてのものが神の恵みのいのちを得ることができます。9節です。
この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなる からである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。エゼキエル第47章9節
この川は、聖霊の流れだと理解し、ペンテコステで読まれることもあります。聖霊も神の恵みによって与えられるものです。神の恵みの流れの川なのです。このエゼキエルの恵み川の幻は、幻で終わらず、主イエスが十字架についてくださったとき、現実となりました。この恵みの流れによって、すべてものが生きます。私たちを神のいのちで生かします。そして、12節で分かるように、豊かな実を結ぶことができます。
川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。そ の水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。エゼキエル第 47章12節
天の神殿から流れだしている恵みの川の水によって、私たちは豊かな実を結ぶ人生を生きるように導かれています。十字架が恵みの原点と言いましたが、十字架によってエゼキエルの幻が現実になりました。神の恵みが天からあふれ流れ出て、私たちが泳げるほどにここに注がれているのです。
パウロは神の恵みが現実になったことを、神さまの証言の言葉を、イザヤ書から引用しました。パウロはこれをただの引用ではなく、「神は言われます」と言って、神と共に働く者として、神が言っておられることを伝えています。神さまは、十字架の恵みによって、今、私たちに神の恵みが実現したことを告げておられるのです。
神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」これはイザヤに与えられた預言の言葉です。イスラエルの民がバビロン捕囚となり、苦境に立たされていた。イスラエルの民は、何度、涙を流して「祈りに答えてください」「私たちを救ってください、助けてください」と祈ったことでしょう。祈り求める民に、イザヤを通して、解放の預言の言葉が与えられたのです。今が解放の時だ。救いの日だ。そしてパウロはこの言葉を受けて「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」と続けました。ここで「今」を繰り返しました。さらにその「今」を「見よ」という言葉で強調しています。どうしてパウロはこんなに「今」を強調したのか。神さまが、イザヤの「今」が、イエスさまが十字架で死なれ、復活なさったとき、「見よ」、あなたたちの「今」となったと言っておられることを証ししたのです。イザヤのみ言葉は、イザヤの時代だけの救いの言葉ではなく、十字架の恵みによって私たちの救いの言葉になりました。恵みの時、救いの日は、「今」です。この瞬間、次の瞬間、すべてが「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける」よ。
私たちがいただいた救いの恵みの経験から考えると、「今」は、イエスさまを信じ受け入れた救いの日です。しかし、それだけにとどまりません。イエスさまを信じた私たちにとっても、豊かに流れて来る恵みの川から、神さまの恵みを、神さまの救いを、今、受け取ることができるのです。今です、今日です。この礼拝でです。この神の恵みが、私たちのすべてのすべてを支えてくださり、よろけてもまっすぐ歩けるようにしてくださるのです。
神の恵みで大切なことは、受けるだけということです。私たちが労苦して、獲得したり、造り出すものではありません。受けるだけです。神の恵みを無駄に受けることがないようにするためには、どういう心得が必要なのでしょうか。神の恵みを恵みとしてどうやって受け取ったらいいのでしょうか。
神の恵みについて哀歌ではこう歌っています。
それは朝ごとに新しい。哀歌 第3章23節
神の恵みを無駄にしない。そのためには朝毎に与えられる新しい恵みを受け取ることが大切な秘訣なのです。どうやって、受け取るのか。み言葉の黙想のなかで受け取るのです。ただで受け取るだけと言いながら、どうして黙想をしなければならないのですか。黙想もひとつの努力ではないのですか。そう考えるかもしれませんが、私たちの黙想に神さまは喜んで入って来られます。黙想に御霊を注ぎ、御霊が御声を聞かせてくださいます。み言葉の黙想が神の恵みそのものなのです。
毎朝、日々の聖句、ローズンゲンのみ言葉で黙想することをお勧めしています。最近は音声まで添付しています。み言葉を聴くことで、神が語りかけておられる恵みを受け身で聞くことができるからです。これも朝毎に神の新しい恵みを受け取って欲しいという神さまの思いの現れだと理解していただければありがたいです。
み言葉から、どのように受け取るのか。たとえば私はこんなふうに受け取りました。先週11月2日の旧約聖書はイザヤ書第60章20節でした。
あなたの太陽はもう沈むことがなく、あなたの月は陰ることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからであ る。イザヤ 60:20
私はこの「終わる」という言葉に心を鷲掴みにされました。私の嘆き悲しむ日には終わりがあるんだ。御国に招かれるとき、永遠の光である主にお会いする日に終わるんだ。今はこの地上にあって、嘆き悲しみ、悩みが続くけれども、終わる日がある。天にある希望の光が見えました。忍耐する前向きな思いが与えられました。
このイザヤの言葉に応答する新約聖書のみ言葉はヨハネ福音書第12章からでした。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。ヨハネ 12:46
「わたしは光として世に来ました」。イザヤの言っていた「永遠の光」が、今、ここに来てくださいました。私たちが嘆き悲しむ闇の中にとどまることのないようにしてくださるためにです。イエスさまが光として来られたので、闇のような嘆き悲しみの日々は終わりました。地上での嘆き悲しみは続くので、こう言うこともできます。終わりがはっきり見えた。嘆き悲しみが終わり始めている。大きな励ましでした。このようにみ言葉から神の恵みを、励まし、慰めとしてをいただくことができるのです。今日を生きるいのちの恵みを受け取ることができるのです。
聖書はしばしば、父なる神さまは陶器師で、私たちは神に造っていただいた陶器、器だと言います。
しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。イザヤ 64:8
神さまに造っていただいた器ですから、何で満たすかがとても大事です。神の器は神の恵みで満たされるときに生き生きと自分らしく輝いて生きることができます。空っぽにしておくと私たちは飢え渇いてしまいます。まして、罪や怒りや絶望を入れてしまったら、壊れてしまいます。
先週、選挙速報を見ていたら、大きな事件が飛び込んできました。京王線の事件です。みなさんも心痛めたでしょう。しばらくして容疑者が犯行を終え、煙草を吸っている写真が映し出されました。コメンテーターたちが、怒りで声を震えさせながら、さまざまな思いが交錯していたのだろうと語っていました。私は、この写真を見たとき、大きな衝撃を受けました。今日の恵みの説教の準備を始めていたからかもしれません。どういうことかというと、1節の「無駄」という言葉は、「空っぽ」という意味があります。聖書の空っぽはただの空っぽではありません、神のおられない底なしの虚しさです。空っぽは滅びの穴に通じているのです。煙草を吸っている容疑者が空っぽの器に見えました。容疑者の心に滅びに至る底知れない虚無の大きな闇の穴が見えたのです。空っぽでは駄目なんです。容疑者の器に神の恵みが入っていなかったので、どんどん絶望、怒り、殺意が流れ込んでしまったのです。
多くのコメンテーターは、今後、このような事件に出会ったらどうしたらいいのかということを語っていました。あるタレントが、自分は若いころ挫折と不幸が重なって、ひどい状況になってしまい、容疑者と同じような怒りをもったことがあった。自分は勉強とスポーツでどうにか切り抜けることができた。その経験から、今後、彼のように事件を起こす前に、どうにか救い出す方法を考えるのが大事だと思うと言っていました。ほんとうにその通りだと思います。
私たちは、私という器に、イエスさまの十字架によって神の恵みが満たされたことを経験しています。神の恵みはすべての人が必要なのです。神の恵みを受けなければ空っぽのままなのです。イエスさまに出会わなければ、どんなに楽しく生きていようと、空っぽだということさえ知ることができません。私たちは先に神の恵みをいただいた者として、どうにか、神の恵みを伝えたいのです。「神さまは、今、あなたの器に神の恵みを満たそうとしておられますよ。十字架のイエスさまをあなたに受け取ってほしいと願っておられますよ。どうか、神の恵みを受け取ってください」。
最後に1節に戻ります。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。(1節)
パウロ自身は、神の恵みを受け取ってきたからこそ、このように確信をもって勧めることができたのです。教会と共に歩みながら、キリスト者が神の恵みを無駄に受けてしまうこともあり得るということを、パウロは見てきました。
そこでこの後の3節から10節までで、「恵みを無駄にするな」と言ったパウロ自身が、神の恵みに支えられてきたことを証ししました。神の恵みの大きさ深さ高さを、自分の経験を通して見せたのです。どんな逆境や困難、いのちさえ危うかったときも、泳げるほどの恵みによって支えられて、神のいのちに生かされてきたんだ。人には恥ずかしくて言えないような挫折のような経験も、恵みの川によって癒されてきたんだ。たとえば、9節「死にかけているようでも、見よ、生きており」。死を覚悟しなければならないような絶望に追い込まれても、エゼキエルが見た「すべてのものが生きる」川で泳いだのです。そうだ、見よ、生きている!と叫ぶことができました。10節「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり」。次から次へと悲しみが襲ってくることがあったのです。そこで信仰の足がよろけても、神の恵みに支えられ、心のうちに神と共に生き、共に働いている喜びが流れ込んできました。さらに10節「何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」。自分の手をじっと見つめても、人に誇れるようなものはない、しかし、この手に天の神殿から神の恵み豊かに流れてきている、そうだ、天の恵みをあふれるほどいただいている、私はすべてのものを持っている!私たちも同じあふれる恵みに生かされています。絶望の闇に陥れられたとしても、苦しくて途方にくれたとしても、自分の貧しさを罪深さを嘆いたとしても、天から流れてくる神の恵みに圧倒され、見よ、生きていると叫ばずにはおれないのです。神の恵みの原点、源、イエスさまの十字架が見えるからです。
ガラテヤ書では神の恵みを無駄にしないことを、パウロはこのように言いました。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。ガラテヤ 第2章21節
神の恵みを無駄にすること、それはイエスさまの十字架の死を無意味にすること。イエスさまこそが神の恵み。私のために死んでくださったイエスさまを無意味にすることはできません。神の恵みを無駄にすることはできません。イエスさまが、今、私のいのちになっていてくださるからです。十字架の恵みによって、イエスさまはあなたのいのちになっています。イエスさまのいのちを無駄にしないでください。
これから聖餐の食卓を祝います。イエスさまの十字架を見つめる恵みの食卓です。十字架と復活の主にお会いできる恵みの座です。私たちがパンと葡萄汁をいただくとき、あなたが、あなたの器にイエスさまが来てくださり、あなたを神の恵みで豊かに満たします。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。お祈りします。
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