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「高く掲げよう 勝利の旗 十字架の旗」

2022年2月6日 礼拝説教 後藤弘牧師


詩篇 第20篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。


1 苦難の日に

主があなたにお答えになりますように。

ヤコブの神の御名が

あなたを高く上げますように。

2 主が聖所からあなたに助けを送り

シオンからあなたを支えられますように。

3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め

あなたの全焼のささげ物を

受け入れてくださいますように。 セラ

4 あなたの心の望みを

主がかなえてくださいますように。

あなたのすべての計画を

遂げさせてくださいますように。

5 私たちは あなたの勝利を喜び歌い

私たちの神の御名により 旗を高く掲げます。

あなたの願いのすべてを

主が遂げさせてくださいますように。

6 今 私は知る。

主が 主に油注がれた者を救ってくださることを。

右の御手の救いの御力をもって

聖なる天から その者に答えてくださることを。

7 ある者は戦車を ある者は馬を求める。

しかし私たちは

私たちの神 主の御名を呼び求める。

8 彼らは膝をつき 倒れた。

しかし私たちは まっすぐに立ち上がった。

9 主よ 王をお救いください。

私たちが呼ぶときに答えてください。


私に中学から高校までいっしょだった親友がいました。名前は福田。若くして亡くなりました。高校生のとき、ときどき、福田と海まで自転車を漕いで行って、青春ドラマのように、海に向かって「バカヤロー」と叫びました。青春のもやもやを晴らそうとしたのです。そこは仙台市若林区の荒浜地区の深沼という美しい海岸でした。しかし、その海岸も松林も集落も311東日本大震災で壊滅しました。テレビの報道で見るも無残な姿を知って心に大きな穴が開いてしまいました。

先日、NHKのドキュメンタリーを見ました。何とその荒浜の集落の風土を、17年前の2005年から、つまり2011年の311東日本大震災の6年前から取り続けていたドキュメンタリーでした。風景も懐かしく、仙台の方言が心地よく心に響きました。おじいちゃん漁師の佐藤吉男さんをカメラが追い続けました。津波で家も船も網もすべて流されてしまいました。が、23日後、良男さんの漁船「大吉丸」が沖合で奇跡的に見つかりました。「77歳だけど、50歳のつもりで働かないとね」。震災当時17歳の高校生だった吉男さんの孫、眞優子さん、良男さんのために大漁旗を作ってプレゼントしました。厚手の布などありません。シーツに手書きした大漁旗です。真ん中に大きく「大吉丸」、その上に「大漁」、下には「日本一の赤貝・仙台港」。周りに可愛いカラフルなイラストが描かれていました。吉男さんは大漁旗を誇らしげに掲げて、意気揚々と海に出ていきました。その顔には海に出られる喜びがいっぱいに広がり、津波に負けないぞという勇気と希望が見えました。

・ 今日の詩篇第20篇の5節にも、信仰の仲間たちが旗を掲げています。その心は7節にあるように、神さまだけを信頼して前に進む信仰です。その表情は、吉男さんの大きな笑顔に似ているかもしれません。掲げている旗は良男さんの大漁旗とは違います、どんな旗を掲げたのでしょうか。いっしょに詩篇を味わっていきましょう。

 この詩篇に登場するのは「主なる神さま」「あなた」「私たち」そして「わたし」です。「主」は分かりますが、「あなた」や「私たち」はちょっと分かりにくいかもしれません。それぞれ誰なのかを考えてみましょう。

冒頭に「ダビデの賛歌」とあります。ダビデは旧約聖書で最も尊敬されているイスラエルの王です。イエスさまはダビデ王の血筋にお生まれになりました。今日の詩篇はダビデが書いたものではないようです。9節に「王をお救いください」とありますから、1節から5節の「あなた」がダビデ王です。6節の「私」は詩篇を書いた詩人です。「私たち」は「私」を筆頭とする信仰者たちです。

詩篇の情景をシンプルに描いてみます。「あなた」であるダビデ王は、今、聖所でひれ伏して神さまに礼拝をささげています。聖所の前には、「私」である詩人を先頭に、「私たち」である信仰者たちが、ダビデ王のために執り成しの祈りを祈っています。

 どんな日の礼拝だったのでしょうか。冒頭に「苦難の日」とあります。どんな苦難がダビデ王に迫っていたのでしょうか。5節「旗を高く掲げ」、7節「戦車、馬」とあります。ダビデ王は、今まさに、苦難が待ち受ける戦いに出て行くところです。勝利を願って、神の前にひれ伏して礼拝しています。出陣前は、兵の統率、武器の確認、馬の状態、作戦の吟味などとても忙しいときです。ダビデ王は神に礼拝をささげることを最優先しています。

私たちは、ダビデ王が神さまの守りと勝利を信頼して、何よりも優先して神に礼拝をささげた姿を、しっかり心に刻みたいと思います。私自身の信仰が問われます。どんな苦難のなかにあっても、神さまを信頼して、神さまを第一にしているか。神を何よりも第一とすることは、信仰の出発点であり、信仰の中心であり、信仰の最終目標です。

 聖所の前では、多くの神を信じる者たちが、ダビデ王のために祈っています。ダビデ王が向かう戦いの厳しさを知っているからです。ダビデ王を愛して、神さまに執り成しの祈りを、心を注ぎだすようにして祈っています。


苦難の日に 主があなたにお答えになりますように。 (1節a)


手強い敵です、苦しい戦いになると予想されます。主よ、ダビデ王があなたをお呼びしたなら、すぐにダビデ王に答えてください。


ヤコブの神の御名が あなたを高く上げますように。(1節b)


信仰者たちは、ヤコブの神の御名がダビデ王を高く上げて、敵の攻撃が届かないように守ってくださることを信じて祈っています。


主が聖所からあなたに助けを送り シオンからあなたを支えられますように。 (2節)

ダビデ王の時代、神さまは神の契約の箱に臨在し語られました。主よ、ダビデ王が窮地に追い込まれたなら、今、ダビデ王が礼拝しているこの聖所から、聖なるシオンの丘から、契約の箱から、主よ、助けを送ってください。


あなたの穀物のささげ物をすべて心に留め あなたの全焼のささげ物を 受け入れてくださいますように。セラ(3節)


ダビデ王は、主を全く信頼する信仰によって供え物を献げました。主よ、ダビデ王の信仰を受け入れ、忘れないでいてください。


あなたの心の望みを 主がかなえてくださいますように。 あなたのすべての計画を 遂げさせてくださいますように。(4節)


ダビデ王の望みも計画も、主に栄光を帰するものです。主のみ心とひとつなることを求めています。主のみ心だけがなりますように。


 私の自転車には取り外しができるライトがついています。先日、教会から家に帰るとき、ハンドルの前にある籠に入れた荷物が大きかったので、ライトを外して、ハンドルを握りながらライトを手に挟んで前方を照らしました。ふと、子どもころやったことを思い出しました。懐中電灯の光はどこまで届くのかなと近くの家や遠くの木を照らしたりしました。最後に懐中電灯を天に向けました。天には届かないだろうな、天まで届く懐中電灯があったら面白いのになぁと思いました。そのことを思い出したら楽しくなって、手にしていたライトを天に向けてみました。そのとき思いました。あっ、神さまなら懐中電灯の光を見ておられるんじゃないかな、懐中電灯の灯りは届かなくても、神さまヘの祈りは神さまに届いている。夜空の向こうに神さまが耳をそばだてて聞いておられる姿が見えるようでした。そしてこういう御声が聞こえてきました。「あなたの祈りは光となって、わたしの前に届いているよ」。単純だなぁと笑われるかもしれません。私たちの祈りが深まるために必要なものは、神さまは祈りを聞いていてくださるという素直な信仰です。イエスさまは幼子のような素直な信仰を喜ばれます。

詩篇の信仰者たちは、1節から祈りを重ねてきて、祈りが深まりまってきています。この祈りは、神さまが祈りを聞いていてくださるという信仰に根差しています。幼子のようにまっすぐ祈っています。

 神さまは、執り成しの祈りの深まりに合わせるように、祈りに答えてくださる確信を与えてくださいました。ダビデ王に勝利を与えてくださる。声を揃え喜び歌い始めました。


私たちは あなたの勝利を喜び歌い 私たちの神の御名により 旗を掲げます。

(5節a)


説教のはじめにお話しした吉男さんは、孫にプレゼントしてもらった大漁旗を掲げて、意気揚々と大海原に出て行きました。神さまは、神を求めて祈る者には、神の御名によって「勝利の旗」をプレゼントしてくださいます。私たちは「勝利の旗」を掲げて、苦難が逆巻く海に、勝利を確信して、希望に輝いた顔で、意気揚々と船出できるのです。

説教の前に、稲垣俊也先生の賛美で「見よや、十字架の旗たかし」を歌いました。この讃美歌は行進を促す軽快なリズムです。救世軍という教団があります。軍隊に倣った組織にしています。この讃美歌は軽快な行進曲なので、救世軍は好んで歌うようです。稲垣先生は大会場でも歌うオペラ歌手ですから、生で聞くと、その声量は驚くほどで、聞く者の体を震わすほどです。稲垣先生がこの讃美歌を歌うと、いよいよ一緒に行進したくなります。

 私たちにとって試練や病も困難な戦いですが、最も厳しい戦いは死が迫ってきたときです。誰もがいつか向き合わなければなりません。戦車も馬も、どんな武器も力も役に立ちません。しかし、私たちには死に向かって掲げることができるものがひとつだけあります。勝利の旗、十字架の旗です。吉男さんの旗の真ん中に船の名前が記されていました。神さまがくださる勝利の旗には十字架が描かれています。イエスさまの流された血潮を表す真っ赤な大きな十字架です。私たちは十字架の旗を高く掲げて、死の海を渡ることができます。イエスさまの罪と死に打ち勝った勝利の旗だからです。

 以前、教会員でご高齢の男性、大島さんが天に召され、ここで葬儀をいたしました。召される前の日、神の導きで病院にお訪ねすることができました。少し苦しそうでしたから、長い時間お話しはできません。私は率直に「大島さん、大島さんはイエスさまを信じているから、イエスさまが必ず、お迎えに来てくださいますからね」とイエスさまの救いを確信させていただき、そして平安を祈りました。祈り終えて目を開けると、大島さんが満面の笑みをたたえておられました。その笑顔が忘れられません。死に勝利できる希望と確信の笑顔でした。まさにイエスさまに十字架の旗をいただいた喜びでした。次の朝、十字架の旗を高く掲げて、死の海を、先立つイエスさまに導かれながら、天の御国に凱旋なさいました。


私たちは あなたの勝利を喜び歌い 私たちの神の御名により 旗を掲げます。 (5節a)


信仰の仲間たちは、祈りの確信を得ても、ダビデ王が無事に戻ってくるまで、執り成しの祈りを祈り続けます。


あなたの願いのすべてを 主が遂げさせてくださいますように。(5節b)


今 私は知る。(6節a)


詩人が、信仰の仲間を代表して、確信の言葉を語り始めました。「今 私は知る」。とても強い確信の言葉です。ダビデ王に合わせてひれ伏して祈っていた詩人が立ち上がったのかもしれません。詩篇のなかでもとても珍しい表現です。主の右の御手の幻を見せていただいたのです。


主が 主に油注がれた者を救ってくださることを。 右の御手の救いの御力をもって 聖なる天から その者に答えてくださることを。(6節bc)


旧約の時代、王を任ずる任職式で、王となる者の頭に油を注ぎました。「油注がれた者」は、ダビデ王のことです。神さまは、「油注がれた者」を救い続けてくださる。絶体絶命の危機のなかに、主は救いの御力をもって右の御手を伸ばしてくださる。救いを求める叫びに必ず答えてくださる。

神の言葉は、その時の言葉で終わりません。私たちの時代にも生きて働きます。「油注がれた者」。私たちは洗礼のとき、牧師によって頭に水を注がれました。そのとき私たちの目にはみえませんが、神さまは私たちに聖霊を注ぎ、水と共に働いてすべての罪を洗い聖めてくださいました。聖書は聖霊をしばしば油と言い表します。私たちも油注がれた者です。聖霊は、今も私たちと共にあり、私たちの罪を聖め続け、神さまの答えを私たちに届け、神さまが祈りを聞いてくださる確信を与えてくださいます。


 1994年春、私たち夫婦は洗礼を授かったとき、4歳と2歳のふたりの娘がいました。その後、私はカイロプラクティックの治療院で見習いとして働き始めました。妻のお腹に3人目を授かり、そこを辞めなければならなくなりました。突然、次の職場を探さなければならなくなったのです。治療関係の友人に紹介してもらうことも、求人誌で捜すこともできました。でも私はこう導かれました。せっかく洗礼を受けたのだから、祈って、次の道を神さまに導いていただこう。しかしまだ祈ることがよく分かっていませんでした。無謀にも、教会の図書室にあった断食祈祷の本を参考に、3日の断食に挑戦しました。世田谷の教会堂で、詩篇を読み進めながら、弱々しい祈りをしました。それでも3日目にこのみ言葉が心に大きく響いてきました。これがみ言葉が与えられるということだなと思いました。


苦難の日に 私はあなたを呼び求めます。 あなたが私に答えてくださるからです。(詩篇第86章7節)


神さまが祈りに答えてくださったという確信が上から来ました。このみ言葉で祈りながら探し始めれば、必ず、新しい仕事場に導いてくださる。それが神さまのお答えだと確信したのです。その答えは確かでした。


ある者は戦車を ある者は馬を求める。 しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。(7節)


「呼び求める」を英訳は「信頼する」と訳しました。主の御名を信頼しているから、心の底から叫ぶように呼び求めるのです。祈るのです。この詩篇は私たちに神さまを全き信頼を求めています。


私は説教塾という牧師たちが説教を学ぶグループで学び続けています。今年1月から7月まで、半年以上かけて同じ主題で学び始めました。主題は「日本の説教の伝統を作ってきた説教を読み抜く」です。「日本の説教」というシリーズが出版されています。その中から7人の説教者の説教集を毎月一冊ずつ読んで、月例会のときに分かち合います。

日本の教会は宣教師の伝道によって始まりました。宣教師は世界各地で伝道し教会を建て上げていきました。日本の教会が他の国と著しく違う点があります。それは日本の教会は初めから日本人の牧師が日本語で説教するようになったことです。ひとつの原因は宣教師たちにとって日本語を習得するのが難しいからです。初代の日本人牧師たちは、日本語の注解書も信仰書もないころに、宣教師の英語の説教で学びながら、日本語の説教を語ったのです。たいへんな努力が必要だったと思います。

初回の1月の例会で取り上げたのは植村正久という牧師の説教です。第一世代の牧師の代表的存在です。私がときどき説教をさせていただく明治学院大学で教えていたこともあります。植村先生、滑らかに語ることが不得意でした。牧師試験の時、アメリカの宣教師たちが、植村の説教は何を言っているか全く理解できないと言って、不合格にしようとしました。居合わせた日本人の牧師たちが、この人はよく勉強する人だから合格にして欲しいと願い出てくれたので、やっと合格することができたほどでした。

植村牧師は、日本語の研鑽を続け、文語訳の詩篇を翻訳するほどになりました。この詩篇の翻訳はたいへん高く評価されています。文学者の島崎藤村もこの詩篇に学びました。

植村牧師の説教のなかで、最も知られている説教は「キリストを小さくするなかれ」という説教題のものです。説教題だけで、自分はイエスさまを小さくしていないかと、信仰が問われます。この説教で、植村牧師は、私たちの信仰に「疑い」が入り込むことを警告しました。疑いが入ると神への信頼が薄くなってしまうからです。ほんの一部ですが説教の言葉をご紹介します。文語で語られていますが、聞き取りやすいように口語に直しているところもあります。

「私たちの足許は極めて弱い。信仰の腰が弱い。キリストを疑っている。私たちの祈りをかなえる力があるかどうか、キリストの力を疑っている。ある会社に自分の財産を投資することが出来ないなら、その会社は業績が伸びないのではないか、あるいは破産するのではないかと、疑っているのである。私たちは、イエス・キリストの神の国という会社に生命を投資することを渋っている。日本では神の国が成長しないのではないかと疑っているからではないか。それでうんと資力を投ずることが出来ないのだ。このように私たちはキリストの力をとても見くびっている。イエスの事業を疑っている。神の国の前途を疑っている。」

植村牧師は、信仰者にキリストを全く信頼するように説いています。心に疑いが忍び込むと、キリストへの信頼が浅くなり、キリストを小さくしてしまいます。疑いが入り込まないように警告しておられるのです。神を全く信頼していないと、自分の力や他の力を頼りにしてしまうからです。戦車や馬を求めてしまい、結果、敗北を喫してしまうからです。

私たちは試練の最中で、神さまへの信頼が揺れることを経験しています。それでもイエスさまは私たちを招き続けてくださいます。


すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ第11章28節)


神さまを小さくしてしまう疑いも、不信仰の罪も、私たちの重荷です。すべての重荷をイエスさまに委ねることができるのです。イエスさまに委ねるなら、疑いが取り除かれ、神さまを全く信頼する混じりけのない信仰にしてくださいます。ただ神さまだけを信頼せずにはおれなくなるのです。まっすぐ主を呼び求め始めている自分に気づくのです。もう戦車や馬の数に頼りません。


ある者は戦車を ある者は馬を求める。 しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。(7節)

彼らは膝をつき 倒れた。 しかし 私たちは まっすぐに立ち上がった。(8節)


主はどんな苦難の日でも、自分の力が尽きても、誰にも頼ることができなくても、主が、私たちを立ち上がらせてくださいます。

説教の後、レーナ・マリアさんの賛美を聞きます。レーナさんは両腕がなく、左脚の長さが右脚の半分で生まれました。私たちの想像を超える困難を通って来られたことでしょう。何度も倒れたけれども、必ず主が立ち上がらせてくださった、救いの喜びを心を込めて歌い上げています。「You Raise Me Up・主は立たせてくださる」。 

この詩篇は神を全く信頼してささげる祈りで閉じられます。


私たちが呼ぶときに答えてください。(9節)


 今日は聖餐の食卓が備えられています。聖餐でいただくイエスさまの血と肉は、神さまを信頼する心をむしばむ疑いを取り去ります。全き信頼を新しく受け取る食卓です。イエスさまから勝利の旗をいただく食卓です。勝利の旗にはイエスさまが流された血で十字架が描かれています。復活による勝利の旗です。私たちは、苦難の日も、病の日も、十字架の旗を高く掲げながら歩み続けます。先立つイエスさまに従って、天に向かって歩み続けるのです。そして、いつの日か十字架の旗を高く高く掲げて、死の海を渡ります。イエスさまは、私たちを甦らせて高く高く天に上げてくださいます。


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