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「門よ 頭を上げ、戸よ 上がれ」

更新日:2月23日

2022年2月13日

礼拝説教 後藤弘牧師


詩篇第24篇 ダビデによる。賛歌。

1 地とそこに満ちているもの

世界とその中に住んでいるもの

それは主のもの。

2 主が 海に地の基を据え

川の上に それを堅く立てられたからだ。

3 だれが 主の山に登り得るのか。

だれが 聖なる御前に立てるのか。

4 手がきよく 心の澄んだ人

そのたましいをむなしいものに向けず

偽りの誓いをしない人。

5 その人は 主から祝福を受け

自分の救いの神から義を受ける。

6 これこそヤコブの一族。

神を求める者たち

あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ

7 門よ おまえたちの頭を上げよ。

永遠の戸よ 上がれ。

栄光の王が入って来られる。

8 栄光の王とは だれか。

強く 力ある主。

戦いに力ある主。

9 門よ おまえたちの頭を上げよ。

永遠の戸よ 上がれ。

栄光の王が入って来られる。

10 栄光の王 それはだれか。

万軍の主 この方こそ栄光の王。 セラ


 先日、仲間の牧師から千葉宣教区は女性牧師が多いですねと言われて、初めてそのことに気づきました。それでも3人しかいません。習志野台、馬込沢、新鎌ヶ谷の牧師たちです。教団全体でみても女性の牧師はとても少ないのです。

今日は、日本で二番目に女性牧師になった方をご紹介したいと思います。先週、お話しした植村正久牧師の三女の植村環牧師です。環牧師は涙の谷をたくさん通りました。1890年に生まれました。お父さん正久牧師の指導もあったのでしょう、とてもよく勉強しました。21歳のとき、医者になると言ってアメリカに留学しました。当時、女性が留学するのはたいへんなことだったと思います。環さんは医学を専攻していましたが、途中から哲学に変更しました。帰国後、津田英学塾などで教師をしました。28歳で結婚し、翌年5月、長女を授かりました。しかし、ひと月後の6月、夫が若くして亡くなりました。同じ年の11月には長男が生まれています。33歳の時、4歳だった長男を小児麻痺で失っています。夫と子どもに先立たれた心の痛みはどんなに深かったでしょうか。今度は35歳のとき、父正久牧師が急逝しました。父の死をきっかけに伝道者になることを決意。6歳の長女を母に託して、今度はイギリスに留学して神学を学びました。4年後、39歳で帰国し、東京女子大などで教えながら、日本で二番目の女性牧師になりました。83歳になるまで教会に仕え、92歳で天に帰られました。

 私が親しくさせていただいている大先輩の牧師が、環牧師を伝道集会の講師に招いたときのことを話してくれました。環牧師は、聖書だけを持って講壇に立つと、これから神さまの救いについてお話をしますと言って、創世記から始めて、黙示録まで、聖書全体から説教しました。何と1時間半。でも、語る環牧師はもちろん、聞いている会衆も、緊張が緩むことなかったそうです。すごいなと思いました。たいへん残念なのですが、今のような録音機器はありませんでしたから、この説教を聞くことはできません。それでも私もいつかそのような説教をしてみたいなと思いました。

 今日の詩篇第24篇には、聖書全体のエッセンスがギュッと詰まっています。この詩篇を読み解けば、聖書全体で語られている神さまの救いを聞き取ることができます。今日、私は詩篇第24篇を、環牧師の説教を真似て創世記から黙示録まで、説教全体から語ろうと思っています。ただし1時間半の説教にはなりませんので、集中して聞いてくださると幸いです。

 さて、この詩篇はダビデの賛歌とあるように、ダビデの経験がもとになっています。ダビデが、神の箱をダビデの町、後のエルサレムにある聖所に運び上げたときのことです。ただし、今日はこの詩篇を、旧約聖書の信仰の中心だった神殿での礼拝と私たちの礼拝に重ねながら読むことにしました。詩篇を繰り返し読んでいると、詩篇自体がそのように読むことを求めてくるからです。

 

 先々週の礼拝でも聖歌480番の「輝く日を仰ぐとき」を賛美しました。そのとき、この聖歌が生まれたときの作者のエピソードをお話ししました。私たちは、聖歌の作者ではありませんが、夕焼けのオレンジの輝き、野の花の私たちを魅了する美しさ、人間の肉体の神秘ともいえる完全さ、など生活の隅々で神さまの創造のわざに触れることができます。先週木曜日の夜、雨が雪になり積もっていく様も、神さまが造られる自然の美しさに感動しました。神殿時代の人たちも、私たちも、神さまの偉大な創造に触れると、神をほめたたえざるを得なくなります。


地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの。 主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。(1-2節)


 ここは環牧師に倣って、創世記を開きましょう。聖書を開いた一番初めのところです。


はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。(創世記第1章1ー2節)


「地は茫漠として何もなく」「茫漠」。新改訳の第3版からこの難しい言葉で翻訳されるようになりました。辞書を調べてみると、このような説明になっていました。「茫漠たる砂漠」と言うように「だだっ広くて、とりとめのないさま」。地と思しきものがだだっ広く広がっているだけです。木も草花も全く生えていません。何もないのです。もとの言葉ヘブル語は翻訳するのが難しいので、いろいろな訳が生まれました。新改訳第2版は「地は形がなく、何もなかった」。フランシスコ会訳は「むなしく何もなかった」。新共同訳が新しくなった聖書協会共同訳は「混沌として」と一言で訳しました。

 「大水」という言葉もあります。海の原型でしょう。「原初の海」と呼ばれるものです。「原始時代」の「原」に「最初」の「初」で「原初」。海のもとになる大いなる水です。ただし海と地が入り混じって堺目がはっきりしていません。この状態を私は子どもたちが喜んで作る泥団子、泥と水が入り混じったドロドロの泥団子に譬えることがあります。先ほど「混沌」という訳語を紹介しましたが、地と海が混沌として、秩序のない地球の初めの姿です。

 詩篇に戻りまして、2節は、神さまが地を造られた様子を詩的な表現で語っています。主は、秩序がなく混沌としている海に、杭を打ち込んで、地の基を据えました。教会の斜め後ろにマンションを建てています。基礎工事に時間をかけていました。杭を深く深く打ち込んだのです。その振動は地震かと思うほどでした。主は、秩序のないところに深く深く杭を打ち込んで基礎を造られました。川は複数で書かれているので、これも「原初の海」を言い表しています。杭を打ち込んだ基礎の上に地を堅く立てたのです。

 子どもたちが大好きなブロック遊びを考えてみるといいかもしれません。ブロックを入れたバケツから、ブロックを床の上に取り出します。ばらばらで秩序がありません。子どもたちが車や家を組み立てていきます。ばらばらだったブロックを、子どもたちが秩序立てて、子どもたちの思い通りに遊びます。ブロックを子どもたちが支配します。ブロックの世界は、子どもたちのものです。天地創造とは大きな違いがあります。神さまは愛をもって天地を造られ、私たちに自由意志を与えて造られました。

 1節で大切なのは「すべては主のもの」という言葉です。神さまは秩序ある世界をお造りになり、今も、愛をもってご支配なさっているから「すべては主のもの」です。詩人はそのなかに自分も含まれていることを暗示しています。私も主のものだと喜んで告白しているのです。ここにいる私たちも主に愛されている主のものです。

 私たちは、神さまの創造のわざに触れると、私たちをお造りになった方を思い起こし、神さまにお会いしたくなります。感謝を申し上げたくなります。膝をかがめて敬意を表して礼拝したくなります。これは主のものである私たちにとってごく自然なことです。

神殿時代、人びとは、神にお会いするために、神に礼拝をささげるために、近くからも遠くからもエルサレムにやってきて、神殿のあるシオンの丘、主の山に登りました。

 私たちも同じです。主の日、日曜日に、神さまを礼拝するために、神さまに賛美や感謝をささげるために、神さまの言葉を聞くために、それぞれの生活から教会に上ってきました。

 神殿に到着した礼拝者たちは、神殿の祭司に問います。聖なる神さまにお会いするためには、どんな資格が必要なのか。


だれが 主の山に登り得るのか。だれが 聖なる御前に立てるのか。(3節)


祭司が答えます。


手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず  偽りの誓いをしない人。(4節)


 「手がきよい」は、罪を犯していないということです。手ですから、行いの罪を問うています。神殿には体をきよめるために沐浴できる施設がありました。そこで身をきよめました。「心の澄んだ人」。心が聖いということです。手は行いの罪を問うて、今度は内面に罪があるかどうかを問われました。さらにたましいが問われます。「そのたましいをむなしいものに向けず」たましいが神さま以外に向いていない、自分自身をむなしいものに持って行かないということです。そして、うそをつかない。心やたましいの罪はどうするのか。神殿礼拝では捧げ物によって罪をきよめました。


 主のものである私たち、同じように礼拝をささげるとき、「聖さ」が問われるのではないでしょうか。今日の日々の聖句・ローズンゲンの旧約聖書は、旧約聖書の最後の書マラキ書の第3章2節でした。


だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(マラキ書第3章2節)


 終わりの日、イエスさまはこの世界をさばくために来られます。金の原石から不純物を取り除くために精錬するように、私たちの罪をさばかれます。出来立ての布を真っ白くするために灰汁にさらすように、私たちの汚れをさばかれるのです。そのさばきに、だれも耐えられません。だれも御前に立っていることはできません。

 求められている聖さについて黙想していると、イエスさまの山上の説教が心に響いてくるのではないでしょうか。


心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。(マタイ第5章8節)


「手がきよい」人は、まず心がきよいのです。


心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ第5章3節)


心がむなしいものに向いているなら、まさに心が貧しいのです。


義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ第5章6節)


神さまは偽りを嫌いますから、私たちは神さまの義を求めます。

イエスさまは、この山上の説教で私たちに「幸いです」を8回繰り返して、神さまの祝福を受け取るようにおっしゃいました。この詩篇ですでに語られていました。


その人は 主から祝福を受け (5節a)


そして、聖書の中心、救いの福音が語られています。


自分の救いの神から義を受ける。(5節b)


 神殿時代の人たちは、沐浴に身をよって聖め、罪が赦されるための献げ物を献げて神の義を受け取りました。しかし、これは神の義の予型、予定の「予」、予めの「予」に、模型の「型」です。本物が現れるまでの、予告編のようなものです。本物の「神の義」はどこに現れるのでしょう。イエスさまは山上の説教を語られながら、私たちを十字架で聖めることを決めておられました。十字架と復活を信じるなら、私たちのすべての罪が取り去られ、聖められ、罪の赦しが与えられるのです。さばきの日に、神の御前に立つと、このような父の御声を聞くのです。「あなたは御子イエスの十字架によって聖められ、罪は赦されている。わたしはあなたに神の義を与える」。これが救いの福音です。さばきの日がイエスさまにお会いする喜びの日になるのです。聖書の中心がこの救いの福音です。詩篇のど真ん中に、救いの福音が記されているは偶然なのでしょうか。神さまが、この詩篇を通して、聖書の中心は救いの福音であることを証ししておられるのではないでしょうか。

 環先生に倣って聖書全体から説教をしますと言いました。確かに創世記から始まって、神殿時代を経て、新約聖書のイエスさまのみ言葉に至っています。私たちは聖書の中心の救いの福音をこの詩篇から聞き取ることができました。


 神殿の前にいる礼拝者たちが、祭司から神の前に立つ者の資格は聖さだと聞きました。礼拝者たちの代表者が祭司に応答します。


これこそヤコブの一族。 神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。セラ(6節)


 この群れをご覧ください。これこそ、私たちこそヤコブの一族です。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を信じている、信仰の一族です。信仰の父祖たちが、神を求めていたように、私たちも、天地を造られた神を、神の御顔を慕い求めて、礼拝するためにここに来たのです。私たちは、礼拝に参加させていただく資格がございます。聖なる神の御前に立つことが許されるはずです。

私たちも今、イエスさまの十字架の血潮で洗っていただいたので、神さまの御前に立って礼拝することが許されています。

 小学生だったころ、夏休みに映画に連れて行ってもらったことがありました。そのころの映画館は、映画が始まるまで、スクリーンを隠すように分厚い幕が降りていました。確か幕の右上の壁に時計がありました。10分前、5分前を指していきます。夏休み前に学校から割引チケットを渡されたときから、幕が開く瞬間を楽しみにしてきたのです。期待と興奮がピークに達します。心の中で叫びました。「早く幕を上げて!」

 礼拝者たちは祭司の許しを得て、礼拝に与ることになりました。礼拝者たちの期待と興奮は、映画どころではありません。生ける神にお会いするのです。礼拝の山に、何か月もかけて来た者もいます。礼拝者たちは山の下から登ってきて、上から来られる神を待ち望みます。礼拝は、上から降りて来られる神さまと山の下から登って来た礼拝者たちの出会いの場です。

 私たちも神さまとの出会いの場、礼拝の場にいるのです。

 礼拝が始まりました。司式している者が、天に向かって叫ぶように言います。


門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。 栄光の王が入って来られる。(7節)


何と力強いみ言葉でしょう。どんなときでもこのみ言葉を読むとわくわくしてきます。試練に遭って途方に暮れたなら、このみ言葉を天に向かって叫びましょう。栄光の王が来てくださいます。門を擬人化しているので、まるで門も神に仕えているようです。礼拝者だけでなく、礼拝そのものが生き生きしている様子が見えてきます。


門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。 栄光の王が入って来られる。(7節)


礼拝者たちが、声を揃えてこう問います。


栄光の王とは だれか。(8節前半)


司式者が答えます。


強く 力ある主。 戦いに力ある主。(8節後半)


戦いに勝利する力ある主です。ただしこの詩篇は国同士の戦だけを考えているのではないようです。

 私たちは神さまが天地を創造されたことを真実として信じています。面白いことに、聖書を持っていなかった日本も天地創造の神話を語り継いできました。今日の詩篇の舞台となっているカナン地方にも天地創造の神話があったのです。雨宮慧神父、説教の学びの会に2度ほどお呼びしたことがありますが、カトリックの司祭です。ヘブル語の世界にとても詳しい司祭です。雨宮神父によると、カナンの神話では、「ヤーム」という名前の「海」を意味する神さま、「ナーハール」という名前の「川」を意味する神さまがいたそうです。そうすると、2節、


主が 海に地の基を据え 川の上に それを堅く立てられたからだ。(2節)


は、カナン地方の人びとには「ヤームの神に地の基を据え、ナーハールの神の上にそれを堅く立てられた」と聞こえたでしょう。カナンの地では神話の神々が混沌として戦っていたけれども、イスラエルの人たちが信じているヤコブの神さまが、「ヤームの神」や「ナーハールの神」を制して、この秩序ある世界をお造りになったのだ。当時のカナンの人びとにも、ヤコブの神の力強さをイメージすることができたでしょう。神さまの力強さは、天地を造られる力であり、すべてを制して支配なさる力強さです。

 力強い神さまが礼拝の場に来てくださるのです。礼拝者たちの期待と興奮はさらに高まります。もう一度、問いと答えを繰り返します。司式者。


門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。(9節)


礼拝者たち。


栄光の王 それはだれか。


司式者。


万軍の主 この方こそ栄光の王。セラ(10節)

「栄光の王」は「万軍の主」。「万軍の主」ですから、神話の神々にも、悪魔にも、罪と死にも、圧倒的な勝利をおさめる栄光の王です。私たちの救い主イエスさまです。

 もう一度だけ旧約聖書を遡ります。神さまはイスラエルをエジプトから約束の地、カナンに導かれました。イスラエルの人たちは約束の地に神の町エルサレムを作り神殿を建てました。約束の地を目指す荒野の旅のリーダーに選ばれたのがモーセでした。モーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、ネボ山、ピスガの頂に登り、約束の地を見渡すことができました。モーセはシオンの丘に登ることはできませんでしたが、ピスガの頂に登ることができました。

 マルティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、1960年前後の人種差別が激しかったアメリカで、黒人が解放される地、約束の地を目指して活動をしていました。しかし、1968年4月4日、暗殺されてしまいました。キング牧師は、暗殺される前日、自分が殺されることを知っているかのように説教をしました。キング牧師の説教では「私には夢がある」が有名ですが、個人的にはこちらの「私は山に登った」という説教を、ときどき動画で見返すことがあります。何度見ても、その迫力に鳥肌の立つような経験をします。まるで自分が明日死ぬことを知っていて、会衆に「あなたがたは黒人解放の地、約束の地にたどり着くことができるんだ」と強くアッピールしているのです。説教の最後の言葉はこのようなものです。

さて、私は、これから何が起こるか分かりません。私たちには困難な日々が続くでしょう。しかし、今、私はそれらがまったく気にならないのです。なぜなら、あの山の頂に登ったからです。


みなさんと同じように、私も長生きできればいいと思う。長生きも悪くありません。

しかし、今、私は思い煩いません。ただ神のご意志を行いたいだけです。


主は私に山の頂に登ることをお許しになりました。私は頂から見渡すことができました。私は約束の地を見ました。


私はあなたがたと一緒に約束の地に辿り着くことはできないでしょう。しかし、今夜、あなたがたに知っていただきたいのです。私たちはひとつの民として、約束の地にたどり着くことを!


今夜、私はとても幸せです。私は何も心配していません。私は誰も恐れません。私は、主が来られる栄光を この目で見たのです。


キング牧師は、イエスらエルの民が約束に地に入ることができたように、あなたがたも人種差別から解放される地、約束の地に入ることができることを宣言しました。それをイエスさまが保証してくださった。私は再び来られるイエスさまの栄光を見たんだと証言したのです。神さまは、翌日、暗殺されるキング牧師に、特別な恵みによって、天の門の頭を上げさせ、永遠の戸を上げ、栄光の王、イエスさまが再び来られる幻を見せてくださったのです。まさに聖書の最後の書、黙示録が記している通りです。


 私たちは、この朝、神さまにお会いしたくて、ここ礼拝の山に登ってきました。神さまはみ言葉の戸を開いてここに降りてこられ、私たちにみ言葉を聞かせてくださいました。詩篇第24篇を通して、環牧師が取り次いだように創世記から黙示録まで語ってくださいました。私たちの生活は、神さまの天地創造のわざとイエスさまが再び来られる望みに囲まれています。だから私たちは父のあわれみにすがって、十字架の血潮にふさわしい聖さと義の生活をしたいのです。日々、イエスさまの血潮で聖め続けてくださるように、栄光の王が来てくださるように、私たちはこのみ言葉を叫び続けるのです。


門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。(9節)


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