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「迷い出た あなたを見つけ 喜ぶ主」

2022年7月3日 礼拝説教 後藤弘牧師


1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。

2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、

6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。

9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。

10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」


新約聖書に収められている愛の手紙をたくさん書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って、みなさまの祝福のためにお祈りをささげてから、説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節のお祈りです。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


今、お読みしたイエスさまの譬え話は、子どもたちにもよく分かりますし、多くの信仰の仲間たちが、私の救いの物語として愛しているものです。それだけ人の心を捕える魅力に富んでいますし、救いへ導くための神さまの力が働くたとえ話だということができます。


この15章には3つのたとえ話が語られています。これらの譬え話の要を聴き取れば、救いとはどんなに素晴らしいか、神さまの憐れみがどんなに深いものか、イエスさまの愛の力強さがどれほどのものであるかを、知ることができます。何度、聞いても、聞き尽くせない、何度、説教しても、語りつくせない宝のようなたとえ話です。生涯、味わい続けるんだなと思っています。あとでお話ししますが、私たち夫婦は、この羊飼いのたとえ話によって、教会に結びつけられたと言っても過言ではありません。羊飼いの譬えを体ごと味わう出来事があったのです。今でも、この譬えを読むと、ドキドキしてしまうことを感じています。


今日は、3つのうちの初めのふたつの譬え話、「いなくなった羊を見つけた羊飼い」と「失くした銀貨を見つけた女性」。この2つのたとえ話から、その要を新しく聴き取っていきたいと思っています。


イエスさまが譬えを話されるところに、対照的な人たちがいます。一方は、パリサイ人たちや律法学者。聖書の律法と律法から作りだした600余りの戒めをしっかり守って、信仰正しく生きようしていた人たちです。律法を守っているからこそ、神の民であり、神に正しさを認めていただいていると思っていました。もう一方は、取税人たちや罪びと。この人たちがイエスさまのお話を聞こうとして、イエスさまのもとに集まって来ました。取税人は、ユダヤ人を苦しめている、憎きローマ人の手先になって、ユダヤ人から税を取り立てて、しかも私腹を肥やしていました。罪びとは、神の民であるユダヤ人ですが、律法も守らず、礼拝もしていない。神に従っていないという意味での罪びとです。パリサイ人たちは、取税人も罪びとも、神の民から脱落し、神にさばかれるべき、汚れた人たちだと考えていました。罪びとたちとは口をきくことも、挨拶さえもしませんでした。まして、いっしょに食事をするなどもってのほかでした。いっしょに食事をするということは、深い信頼を表し、友情の証しでもありました。


ですから、イエスさまが、取税人たちや罪びとたちと食事をしているのを見て、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。田舎から出て来たイエスという若造は、罪人に聖書の話をし、一緒に食事までしている。まったくもってけしからん。イエスが甘ったるい話をしているから、罪人たちが、どんどん集まってきているじゃないか。パリサイ人や律法学者たちは、何とかイエスを陥れて、懲らしめないといけないと考え始めていました。そのようなパリサイ人たちや律法学者に向かって、イエスさまが譬え話を始められました。


「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて」。いつもなら「ある人が羊を百匹持っていて」。「ある人」と譬え話を語り始められるのですが、今日は違うんです。「あなたがた」なんです。パリサイ人や律法学者に向かって、「あなたがたが羊を100匹持っていたら」と言われたのです。これを聞いたパリサイ人たちは、驚いたでしょう。怒りさえ覚えたかもしれません。パリサイ人たちは、羊飼いの仕事を、重んじていませんでした。おそらく、日々、羊を連れ歩かなければなりませんから、律法や礼拝を守らないような羊飼いも多かったのでしょう。しかし、イエスさまに「あなたがたのうちのだれかが羊飼いだとしたら」と言われたのです。「自分が羊飼いだと思って、この話を聞いてご覧」「自分が羊飼いなら、こういうときどうしますか」と問われたのです。パリサイ人たちは、羊飼いなどになるわけがない、馬鹿にしているのか、と穏やかな気持ちでではいられなかったかもしれません。


しかし、イエスさまは、文句を言っているパリサイ人たちに、罪びとたちと食事をしている深い意味を知ってほしかったのです。譬え話をよく聞いて、悟ってください。14章の最後の言葉「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉が、ここにも響いているのです。


イエスさまがおっしゃった羊飼いは、いなくなった羊を見つけるまで捜しました。当時、羊がいなくなることは日常茶飯事で、いなくなったら、見つけて連れ戻す、このことを繰り返していました。しかし、ある程度、捜して見つからなかったら、諦めたようです。でもイエスさまが話された羊飼いは見つかるまで捜したのです。捜し歩いたのです。イエスさまこそ、この羊飼いなのです。イエスさまは、神さまのところからいなくなっていた私を、あなたを見つけるまで捜してくださいました。


先ほど、ふれましたが、羊飼いの譬えは、私たち夫婦が、教会に結びつくために、神さまが私たちになさった出来事と深い関りがあります。だから、この譬えを読むたびに、ドキドキと、心臓が早まるのが分かるのです。とても個人的なことで恐縮なのですが、改めてお話しすることを赦していただいて、羊飼いが一匹の羊を見つけるまで捜す、その心と重ねてお聞きくださると幸いです。


1992年、30年前ですね、そのころ、サザエさんの町として有名な東京世田谷区の桜新町に住んでいました。教会のイヴ礼拝に初めて参加しました。きっかけは、子どもたちが通っていたスイミングスクールで、妻が教会の姉妹から案内のチラシをもらってきたことでした。ふたりの娘、長女が4歳、次女が2歳でした。イヴ礼拝が終わって、集会室でケーキをいただきました。東京の教会のクリスマス、ホールはいっぱいの人でした。ひとしきり楽しんで、解散となりました。100人くらいの人が一斉に帰り始めました。4歳の長女が、いただいた可愛い砂糖菓子に夢中になりながら、帰る人波に流されて、教会を出てしまいました。商店街のバス通りで、はたと気づいた。パパ、ママがいない。怖くなって、歩道の真ん中で大声で泣き出しました。

そんなこととは知らずに、私たちはチラシをくれた方の旦那さんに挨拶をしたり、紙皿や紙コップを片付けていました。さぁ、帰ろうと思った。長女がいない。牧師をはじめ教会の人たちが、教会中をくまなく捜してくれました。教会の中にいない。いないはずです、外で泣いていたのですから。私たち夫婦は、不安と緊張でいっぱいいっぱいになりました。急いで乗って来た自転車で教会と自宅を往復しても見つかりません。時間が経ってきたので警察に捜査を依頼しました。警察が来るまで教会で待っていようとも思ったのですが、じっとしていられませんでした。自宅とは逆の方を捜して、いなかったら、教会で警察を待とうと考えました。さあ、どこまで捜しに行こうか、そうだ、500mぐらい先に交番があるから、交番までにしよう。大丈夫、必ず見つかると自分に言い聞かせても、心の中はざわざわし、心配で胸が引き裂かれるような思いでした。3年くらい前に、4人の幼い女の子ばかりを誘拐して殺害した事件、宮崎勤連続誘拐殺人事件があったばかりです。その事件のニュースの映像が頭の中をぐるぐる回っていました。もし、そんなやつに連れていかれたら、殺されてしまう。生きた心地がしませんでした。

商店街の通りを、注意深く両側を見ながら、交番まで来てしまいました。ああ、こっちにもいなかった、がっくり。落胆と悲嘆を抱えながら、交番の中を覗きました。いた!長女が!お巡りさんにあやしてもらっていたのでしょう、少し照れたような顔をした娘が、交番の真ん中に置かれた椅子にちょこんと座っていたのです。嬉しいなんてもんじゃありませんでした。あっとか、何か、叫んだ気がするのですが、覚えていません。交番に飛び込むようにして入っていくと、娘が抱きついてきて、しっかりと抱き合いました。お巡りさんに、事情を話しながら、何度も、ありがとうございます、とお礼を繰り返しました。若い警官の話によると、若者たちが駅から家に帰る途中、コンビニの前で女の子が泣いていた。いろいろ聞いたけど、事情がよく分からない。じゃ、交番まで連れて行こうとなったということでした。その若者たちにもお礼を伝えたいと思いましたが、娘を託してすぐに帰ってしまったということでした。

娘を自転車の子ども用の椅子の座らせて、急いで教会に戻りました。教会の方がたがみんなわがことのように喜んでくださいました。喜びをいっしょに分かち合えたことで、私たち夫婦は、教会の人たちと不思議な仲間意識が生まれ、私たちの教会に対する苦手意識が消え去っていました。

帰り際、牧師が、配布用の新約聖書のこの譬え話にラインを引いて、プレゼントしてくださいました。私たち夫婦を救う、神さまのご計画が始まっていたのです。


この出来事を通して神さまは、羊飼いのいなくなった一匹を捜すときの心配、そして見つかったときの喜び、これらを聖書を読む前に、私たち夫婦に教えてくださいました。イエスさまを信じるようになってから、この譬え話を読みながら、神さまはこの出来事を通して、羊飼いイエスさまが、私たちを捜してくださり、見つけてくださったんだ。神さまがどんなに私たち夫婦を心配しておられたか、どんなに愛してくださっていたか、よく分かりました。今も、この証しをしながら神さまの愛の深さを教えていただいています。

イエスさまは、この羊飼いの譬えを通して、パリサイ人たちに気づいてほしかったのです。ここにいる罪人たちは、神さまのもとから迷い出てしまった羊であること。イエスさまが罪人たちを見つけて、今、神さまのもとに連れ帰って来たところであること。イエスさまはおっしゃっるんです。この食事会は、救いの喜びの祝宴なんだ。今、天は、この祝宴以上に、この罪人たちが帰ってきた喜びが爆発しているんだ。あなたがたが求めている神さまの喜びが分かって欲しい。

さらにこう言っておられるんです。わたしはあなたたちの羊飼いでもあるんだ。わたしはあなたたちが神さまのもとに帰ることができるように遣わされたんだ。わたしがあなたがたの羊飼いだと分かったなら、実は、この罪人たちは、あなたたちの羊なんだ。あなたたちがこの人たちの羊飼いなんだ。わたしがこの地上を去った後、罪びとたちのよい羊飼いになってほしい。聞く耳をもって、わたしの譬え話から聞き取って欲しい。

もうひとつのたとえ話は、なくした銀貨を捜す女性です。銀貨10枚。ドラクマ銀貨一枚は、労働者の一日分の賃金にあたります。1枚でも失くしたら、生活が苦しくなります。とても価値があるのです。また、これは、今でいえば、結納金のようなものであったという説明もあります。どちらにしても、とても貴重なものですから、失くしてはならないものです。

当時の家は土間でしたから、土埃が積もりやすかったのです。女性は箒で家中を掃いて捜しました。窓のない家も多かったし、窓があってもとても小さいのです。だから灯を点けて捜しました。銀貨が灯りを反射して、キラッと光ることも期待しています。とても価値があり、失くしてはいけないものですから、「注意深く」、目を皿のようにして捜します。

この銀貨の譬えでは、銀貨を捜す女性だけに焦点を当てています。この女性も羊飼い同様、銀貨を見つけたとき、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、いっしょに喜んで欲しいと言って、自分の喜びに招き入れようとしました。言葉にはなっていませんが、お祝いの食事会、あるいはお茶会を開いたでしょう。イエスさまは、羊飼いの祝宴に、この女性の祝会に、今、目の前で開かれている祝いの食事会に、パリサイ人や律法学者を招いているのです。「一緒に喜んでください。いなくなっていた罪人を見つけましたから」。

そして、「あなたがたに言います」と言って、パリサイ人たちを見つめる目に力を込められました。聞く耳のある者はよく聞いてくださいと願いを込めて、悔い改めの恵み深さを教えられました。

「一人の罪人が悔い改めるなら」。新約聖書の「悔い改め」は、旧約聖書では「神に立ち返る」という言葉で言い表されています。預言者エレミヤは、何度も、「神に立ち返るように」、イスラエルの民を招いていました。たとえばエレミヤ第3章22節にあります。


背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。


神さまに背を向けて生きている罪びとたちよ、神さまに立ち返れ。悔い改めて神のもとに立ち返れ。エレミヤは、がんばってあなたがたの力で、不信仰から抜け出なさいと預言しませんでした。神さまがあなたを不信仰から救おうと言っておられるのです。

ふたつのたとえ話で、羊も銀貨も自分で自分の力で、羊飼いや女性のもとに戻ったのではありません。羊飼いや女性が、見つかるまで捜したから、羊飼いや女性の手のなかに返ることができたのです。この立ち返る、悔い改めについて、続く放蕩息子の譬えで、とても丁寧に語られています。


羊飼いや女性が、どうして見つけるまで捜したのか。羊は羊飼いのもの、銀貨は女性のもの、そして、罪人は神さまのもの、パリサイ人や律法学者も神さまのもの、そして、私たちも神さまのものだからです。


先ほども申し上げましたが、長女がいなくなって、まさか外に出て行くことは露ほどにも思っていませんでしたから、初めは教会の中にいるだろう、安心していました。しかし、教会の中にはいないと分かったとき、暗い海の中に投げ込まれたような気がしました。長女が見つかるまで、それほど心配症ではないと思っていた私も、誘拐されたらという不安と心配が、時間が経つに従ってどんどん大きく深くなっていきました。大げさのような気がするかもしれませんが、長女のいのちを心配し始めたのです。

「いなくなった一匹」や「なくしたドラクマ銀貨」の「いなくなった」や「なくした」は、もともと、同じ言葉で語られています。ギリシャ語で記されていますが、もともとの意味は「失う」という意味とともに「滅びる」という意味があるのです。羊は自力で帰ることはできませんから、羊飼いがいなければ滅びるのです。私が長女を捜していた時、まさに「滅びる」「死」の恐怖がどんどん大きくなってきました。羊飼いも羊が滅びないように祈りながら捜したのです。神さまは、私にこの羊飼いの気持ちを、イエスさまを信じる前に、教えてくださっていたのです。

そして、今、イエスさまは、私たちを見つけるために、どんな熱い思いをもって、捜してくださったかを推しはかることができます。私たちは、あたりまえのように、神さまに背を向けて生きていたのですが、イエスさまの目には、滅びに急いでいるのが、はっきり見えていたのです。心配で胸が張り裂けそうになりながら、私たちを捜してくださったのです。


このことをよく表していているのが、昨日のローズンゲン日々のみ言葉でした。詩篇139篇9節です。


私が 暁の翼を駆って 海の果てに住んでも そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。


「暁の翼」。どんな翼を思い描きますか。暁は朝焼けです。太陽の光が夜の暗闇を引き裂き始めると、雲がだんだんオレンジ色や赤色に染まっていく。息をのむほどに美しい光景です。ドイツに留学したことのある仲間の牧師が、「暁」をドイツ語から訳した時「モルゲンロート」と訳しました。ドイツ語ではそのまま「モルゲンロート」と記されているのです。これは朝焼けが雲だけでなく、雪に覆われた山々も赤く染まる美しさを言い表しています。スイスの人たちなら朝焼けに染まったアルプスの山々を思い浮かべるでしょう。私は、朝焼けで美しくピンクに染まる富士山を見たとき、あまりの美しさに言葉よりも先に、おお、と声を上げてしまったことがありました。

しかしながら、美しく輝く暁の翼を駆って、どこに行くのか。海の果てです。地の果てと同じでしょう。誰もいないところに行くのです。あっと思いました。詩人は夜眠れなかったのです。何か人間関係でつらい思いをしたのでしょうか、解決の見えない事情があったのでしょうか。朝になる前に、誰もいないところに逃げたかったのです。神さまはあわれみで美しい翼を授けてくださいました。しかし、海の果てに逃げても、主は見出してくださいます。主の右の手で捕らえられ、滅びの思いから、いのちへと導いてくださるのです。まさに、いなくなった羊を見つけるまで捜す羊飼いと重なると思いました。

創世記の初めに、アダムとエバは罪を犯して、木々の間に隠れたとき、父なる神さまは、「あなたはどこにいるのか」と捜されました。今も、私たちが、どんなに罪に翻弄され、木々の陰に隠れたとしても、私たちを捜し求めておられるイエスさまの「あなたはどこにいるのか」という御声が聞こえてくるのです。


私は長女が見つかった時の喜びを今でも思い起こすことができます。それだけ見つけた喜びは大きかったのです。生涯、忘れないでしょう。イエスさまは、罪びとの私たちが神さまのもとに立ち返ると、それ以上の大きな大きな喜びが天にあると教えてくださいました。裏返せば、天におられる神さまは、私たちを一時も忘れず、心配してくださっているのです。私たちが滅びに向かっていくのを黙ってみておられないのです。どんなに海の果て、地の果てに、迷い込んだとしても、主は、見出してくださいます。

イエスさまは、譬え話を語られながら、私たちに天を見せてくださったのです。天におられる神さまは、私たちのことをどんなに心配してくださっているか。目を離さず顧みていてくださるかを見せてくださったのです。自分の目の前の厳しい状況ではなく、この天を見るようにおっしゃっているのです。天におられる神さまが見えていると、ひとりぼっちでも孤独にさいなまれることはありません。不安と恐れに襲われても、天の光に照らされていることが分かるのです。私たちは途方に暮れていても、放っておかれることはないのです。私たちが道に迷って立ちすくんでいても、近づいてくる羊飼いの足音が聞こえてくるのです。私たちの羊飼いは、私たちを見つけ、抱き抱え、担いで、神のもとに連れて行ってくださるのです。これが神さまへ立ち返ること、悔い改めです。私たちは、主イエスの腕の中で、肩の上で、迷い出てしまった罪を、恥を、素直に告白するだけです。神さまは、戻って来るあなたを見て、涙を流さんばかりに喜ばれるのです。今週の日々の聖句・ローズンゲンのみ言葉をお読みして祈りします。


人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)


私たちの羊飼いであられる主イエスさま、これから聖餐の祝いをいたします。罪に縛られていた私たちを、あなたが見つけて、十字架で救い出し、肩に担いで、聖餐の食卓へ運んでくださいました。この食卓から天におられる父の喜びが見えます。どうぞ、父の変わらぬ愛と喜びで捕えていてください。イエスさま、私たちを捜し求めて続けてくださるあなたの愛の深さを、これからいただくパンと葡萄汁、あなたの肉と血潮で、私たちのたましいに刻んでください。日々、あなたの足音を、あなたの御声を聴かせてください。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン


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