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「罪びとに 見せてください 愛の道」

2022年2月20日

礼拝説教 後藤弘牧師

詩篇 第25篇 ダビデによる


1   主よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます。

2   わが神 あなたに 私は信頼いたします。

    どうか私が恥を見ないように

    敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

3   まことに あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず

    ゆえなく裏切る者が 恥を見ますように。

4   主よ あなたの道を私に知らせ

    あなたの進む道を私に教えてください。

5   あなたの真理に私を導き 教えてください。

    あなたこそ 私の救いの神

    私は あなたを一日中待ち望みます。

6   主よ 思い起こしてください。

    あなたのあわれみと恵みを。

    それらは とこしえからのものです。

7   私の若いころの罪や背きを

    思い起こさないでください。

    あなたの恵みによって 私を覚えていてください。

    主よ あなたのいつくしみのゆえに。

8   主は いつくしみ深く正しくあられます。

    それゆえ 罪人に道をお教えになります。

9   主は貧しい者を正義に歩ませ

    貧しい者にご自分の道をお教えになります。

10  主の道はみな恵みとまことです。

    主の契約とさとしを守る者には。

11  主よ あなたの御名のゆえに

    私の咎をお赦しください。それは大きいのです。

12  主を恐れる人は だれか。

    主はその人に選ぶべき道をお教えになる。

13   その人のたましいは 幸せの中に宿り

    その子孫は地を受け継ぐ。

14   主は ご自分を恐れる者と親しく交わり

    その契約を彼らにお知らせになる。

15   私の目はいつも主に向かう。

    主が私の足を罠から引き出してくださるから。

16 私に御顔を向け 私をあわれんでください。

    私はひとり 苦しんでいます。

17 私の心の苦しみが大きくなりました。

    どうか この苦悩から私を引き出してください。

18 私の悩みと労苦を見て

    私のすべての罪を赦してください。

19 ご覧ください。私の敵がどんなに多いかを。

    彼らは不当な憎しみで 私を憎んでいます。

20 私のたましいを守り 私を救い出してください。

    私が恥を見ないようにしてください。

    私はあなたに身を避けます。

21 誠実で直ぐな心で 私が保たれますように。

    私はあなたを待ち望んでいますから。

22 神よ イスラエルを

    そのすべての苦難から贖い出してください


 季節外れのお話しから始めたいと思います。私は海辺に立つと、どうしても、寄せては返す波に合わせて行ったり来たりしてしまいます。みなさんも経験があるかもしれません。ふと水平線に目をやると、ああ、海が果てしなく広がっているんだな。大きな海の縁(ふち)に立っているんだなと思います。

 イエスさまは「神の国が近づいた」と言われました。神の国は上から降りて来てここに来ています。私たちは、今、千葉市にいますが、海辺で海の縁に立つように、神の国の縁にいるのです。足を地につけているけれども、同時に、神の国の縁に立っているのです。神の国とこの世界の境界線に立っていると言ってもいいでしょう。私たちは神の国の縁で神さまに礼拝しているのです。夢物語で神さまに祈っているのではないのです。私たちは神の国の縁に立って、賛美をささげ、礼拝をしているのです。生きておられる神さまに祈っているのです。御国の縁に立っているから、神の御顔を拝することができるのです。神の言葉が聞こえてくるのです。イエスさまを信じている者の恵みです。礼拝だけじゃなく、私たちは千葉に生きていながら、神の国の縁に生きているのです。

 この詩篇の作者も、神の国の縁に立って、心震わせながら、祈っています。神の臨在にふれられながら祈っています。

主よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます。わが神 あなたに 私は信頼いたします。(1ー2前半)

 この詩篇を読み始めて、気づくことのひとつは、2節に「敵」という言葉が出てくることです。何らか詩人を圧迫するものがある。あるいはいるのです。他の詩篇なら敵との戦いの様子を詳しく記しているものもあります。しかし、この詩篇は、19節まで「敵」という言葉が消えてしまいます。まるで「敵」には関心がなくなったように語っていません。自分の罪に集中していくのです。何が起きているのでしょうか。

 はじめ私も何が起きているのか分かりませんでした。詩篇を研究している人たちが、これは「アルファベット歌」だということを教えてくれました。日本語の翻訳では表現できませんが、各節の最初の文字が、旧約聖書を記しているヘブル語のアルファベット「アレフ、ベート、ギメル・・・」になっているのです。詩篇150篇の中には9つのアルファベット歌があります。アルファベット順に揃えるだけでも、たくさんの創意工夫が必要だったでしょう。しかし、ヘブル語の素晴らしいところはそれだけではありません。アルファベット順にしたからと言って、救いのメッセージが薄くなっていないのです。具体的にどのように素晴らしいかというと、詩篇の構造によって、詩篇のメッセージを明らかにしているのです。

今日はヘブル語の文化の素晴らしさを知っていただこうと、参考資料をお配りしました。それを見ていただきながらお話をさせていただきます。(最終頁を参照してください)

 緑文字の1-3節を「A」段落、そして同じ緑文字の19ー21節を「A'」段落と名付けました。「A」と「A'」を見ていただくと、黒文字で書かれている言葉が共通しています。「わがたましい」と「私のたましい」「私が恥を見ないように」「待ち望む」そして「敵」です。「A」と「A'」が対になっているんです。同じように黒文字の4-7節「B」と15-18節「B'」は「私」という言葉が共通しています。青文字の8-10節「C」と12-14節「C'」は「契約」、そして言葉は違いますが「罪人」「貧しい者」と「恐れる者」が共通しています。11節「D」は単独です。最後の22節は、21節までを経て、詩人の祈りが大きな祈りになって、詩篇を閉じているのです。

 そうすると詩篇は「A -B -C -D -C'-B'-A'」という構成になっています。そうするとこの詩篇の初めと終わりから「D」に向かっていることが一目瞭然です。「D」が詩篇の中心で、「D」に詩篇の主題が表れているんです。主題は「罪の赦しを求める」です。アルファベット順にしながら、構造で主題を明らかにする表現力は素晴らしいと思います。

そうすると、なぜ「A」以降、「敵」が消えたかが見えてきます。詩人には確かに「敵」と呼ばれる存在がいました。しかし、その「敵」によって、自分の心が問われたのです。どういうことかというと、2節に「敵が私に勝ち誇らないにようにしてください」。私たちは、相手あからさまに勝ち誇ったような態度を取ったなら、どんな感情がわいてくるでしょうか。嫌だなとか、むっとしたりとか、あるいは見返してやりたいという思いではないでしょうか。また19節には「彼らは不当な憎しみで、私を憎んでいます」。正当な憎しみでも、憎しみに対して憎しみが生まれるのではないでしょうか。私たちの人間関係のなかによく起こることかもしれません。人は憎しみの悪循環で戦争の悲惨さを招いてきました。詩人は敵の存在によって、自分の罪深さがあぶりだされたのです。

 仙台の冬は北海道ほどではありませんが、千葉よりはぐんと寒いです。子どもころ、茶の間に火鉢があって、お湯を沸かしたり、お餅を焼いたりしました。また手をかざして暖を取ったりもします。火鉢の楽しみはあぶり出しでした。白い紙にミカンの汁で絵を描いて、火鉢の炭に焦げないようにかざして、絵をあぶり出すのです。あぶり出さなければ、紙は何も書かれていないように見えます。しかし、火であぶると、くっきり絵が現れてくるのです。

 この詩人も、ふだんは自分の心に神に指摘されるような罪がないと思っていました。しかし、敵が現れたことによって、自分の心の底に潜んでいた罪が、あぶり出されたのです。ですから、「B」段落から「B'」段落まで、自分の罪と向き合わざるを得なかったのです。「敵」の存在よりも、自分の「罪」の問題が、心の中でどんどん大きくなったのです。ある人はこう言っていました。「敵は神さまが罪を指摘するために遣わされた天使だ」。「敵」が「天使」だというのは、なかなか鋭い見方です。私たちも人間関係のささいなトラブルによって、あぶり出される罪に気づくことがあるのではないでしょうか。この詩篇は「敵」という「天使」が現れた時、どう祈っていいかを教えてくれています。

 先ほど段落分けをしました。「B」と「B'」は「祈り」を、「C」と「C'」は「祈りの確信」を歌っています。この順で味わっていきましょう。

 「B」と「B'」は信仰者の真実な祈りです。敵が現れたことによって、自分の隠れていた罪が湧き立ってきました。7節「私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください」18節「私のすべての罪を赦してください」。罪が示される。それは神の国の縁に立っている証しです。聖い神さまの御前に立たされたからこそ、自分でささいだと思っている罪も、忘れ去っていた罪も、あぶり出しのように、くっきりと示されたのです。

 示された罪の重荷でもがき苦しみ始めます。16節「私はひとり苦しんでいます」。罪の問題は、神さまと私の問題です。だれも間に入ることはできません。まして人のせいになどできません。17節「私の心の苦しみが大きくなりました」。御国の縁に立つと神さまの聖なる光に照らされ、罪の重荷がどんどん重くのしかかってきます。こう祈らざるを得ません。18節「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください」。この悩みと労苦は敵の攻撃によるものではありません。自分のうちにあった罪の重荷を負っている苦しみです。「すべての罪を赦してください」。

 先ほど、この詩篇は「D」に向かっている構造となっていることを明らかにしました。「B」と「B'」の祈りが11節「D」に結集し、うめくような祈りになっています。


主よ あなたの御名のゆえに 私の咎をお赦しください。それは大きいのです。(11節)


「それは大きいのです」。敵に攻撃されるよりも、自分の罪の大きさに、自ら驚いています。自分はこんなにも罪深かったのだと気づ、赦しを求めて、悔い改めに向かっています。悔い改めは、神の国の縁から、神さまのみもとに飛び込むことです。神さまは両手を広げて待っておられます。

 ひとつ大事なことは、神の国の縁に立っているから罪があぶりだされたのです。神さまの聖い光に心が照らされたので汚れがぐっと浮き上がってきたのです。ただ自分の思いで、自分を責めているのとは違います。神のふところへ飛び込まなければ、罪からの解放はありません。ただ自分で自分を責めているだけでは、心がぐしゃぐしゃになってしまうので気をつけなければなりません。

 罪の赦しを神に求めていることを明確にしている言葉があります。「道」という言葉です。赤文字で記しましたが、この詩篇には「道」という言葉がたくさん語られています。罪を「道」で言い表すなら「罪は主の道から外れること」です。罪が示されるということは、自分が主の道からそれていることに気づくことです。4節から5節一行目までを、元の言葉の意味を大切にして訳すとこうなります。


「あなたの道を知らせてください」「あなたの小道を教えてください」「真理の中をー言い換えるならあなたの道を―歩ませてください」


人は、罪があぶり出されると、主が導いておられる道からそれているのに気づいて、「主の道を求め」始めるのです。ただ自分を責めるだけで終わりません。


 うめき苦しみながらも、神に救いの道を求め祈っていると、子が親に願いを訴えるように、神さまに訴え始めます。神さまを信頼しているからです。6節と7節の訴えている言葉はとても興味深いものがあります。


主よ 思い起こしてください。あなたのあわれみと恵みを。 それらは とこしえからのものです。(6節)

私の若いころの罪や背きを 思い起こさないでください。あなたの恵みによって 私を覚えていてください。主よ あなたのいつくしみのゆえに。(7節)


6節「思い越してください」7節「思い起こさないでください」。まったく逆のことを求めています。何を思い起こしてほしいのでしょうか。6節、主のあわれみと恵みです。この「あわれみは」は、母の胎から派生した言葉です。お母さんのお腹に赤ちゃんを授かる、だんだんお母さんのお腹が大きくなってくる。お母さんは優しくお腹をさすります。お母さんのお腹の子を愛おしむ思いが表れています。母がお腹の子を愛おしむように、神さまが私たちを愛おしく思ってくださるのが「あわれみ」です。

 「恵み」は、以前にも申し上げましたがヘブル語で「ヘセド」という言葉です。「愛」と訳すこともある言葉です。神さまは私たちを愛おしく愛していてくださる。愛おしいも、漢字にすると「愛」です。「あわれみと恵み」は「愛と愛」なのです。詩人は、神さまに私たちへの「愛と愛」を思い起こしてほしいと訴えています。

 また、あわれみも恵みも複数で記されています。このことも大事で、憐れみ数々、恵みの数々です。何を訴えているのでしょうか。6節の「とこしえから」は「古くから」です。詩人はこう訴えています。天地創造以来、あなたは罪人の私たちに数え切れないほどのあわれみと恵みを施してきてくださったじゃないですか。あなたのあわれみと恵みは私のすべての罪を圧倒するほど大きく深いのではないですか。私の若いころの罪や背きもあなたのあわれみと恵みに飲み込まれるでしょう。このような思いを、思い起こさないでくださいという言い方で表現しているのです。神さまの「愛と愛」を信じて、「愛と愛」を根拠として、赦しが与えられることを待ち望んでいるのです。

 旧約聖書の時代に生きていた詩人は、イスラエルの歩みに現わされた神の愛を根拠に、罪の赦しを願い求めました。新約聖書の時代に生きている私たちには、もっと明確な罪の赦しの根拠があります。イエスさまの十字架です。

 この説教の後、世界中で愛されている讃美歌を歌います。「主に罪を赦されて」です。英語のもとのタイトルは「Blessed assurance」「祝福の確実さ」です。「救いの確実さ」です。英語の歌詞を辿ると救いの根拠をこう歌います。「イエスさまの血で洗われ、イエスさまの霊で生んでいただいたから」。リフレイン、繰り返し歌詞は「This is my story This is my song」「イエスさまの十字架でこの私が救われた、これが私の救いの物語、私の救いの喜びの歌だ」。私の救いの確実さは、根拠は、イエスさまの血潮なんだ。

 先週の木曜日、「日々の聖句・ローズンゲン」で与えられた旧約聖書のみ言葉はこの第25篇からでした。すでにこの説教を準備していましたから、ああ、第25篇は今度の礼拝のみ言葉として導かれているんだと、うれしく思いました。5節です。

 

あなたの真理に私を導き 教えてください。(5節)


このみ言葉からこのような祈りが導かれメイルに記しました。


イエスはご自分のことをこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ 14:6)」。イエスさまご自身が真理であられる。イエスさまを知るということは真理を知ること。イエスさまを知ることは窮屈でしょうか。いいえ、私たちを罪と死から解放してくださいます。私たちを自由にしてくださる方です。徹底的に恵みに生かしてくださいます。主よ、真理であるあなたのうちにいることができますように。


 また、詩人は歩むべき道を祈り求めていましたが、具体的な道は見えていなかったでしょう。でも私たちは見えています。歩んでいます。イエスさまはご自分が道だとおっしゃったからです。御国の縁に立っている私たちは、主の道に、イエスさまのうちに導き入れられています。


 神さまに訴えていると、神の恵みによって、祈りが聞かれた確信が与えられました。それが4-7節「C」と12-14節「C'」です。祈りの言葉が、確信の言葉に変化しています。8節「罪人に道をお教えになります」9節「貧しい者にご自分の道をお教えになります」12節「選ぶべき道をお教えになる」。

 さらに、祈りの確信から、神さまがくださる祝福を歌っています。13・14節。


その人のたましいは 幸せの中に宿り その子孫は地を受け継ぐ。(13節)

主は ご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。(14節)


主に救われた者のたましいは、「幸せ」に宿る。「幸せ」と訳していますが、他の訳は「恵み」です。これはもともとは「良い」という言葉です。創世記第1章31節


神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記第1章31節)


神さまは造られたすべてのものを見て、非常に良かったと言われました。「良い」には、聖い、真理だ、美しいという意味も含んでいます。救われた者のたましいは一足先に「とても良くて、美しい、幸いな神の御国」に住むことができる。地上では良い地が与えられ、何よりも神さまと親しく交わる恵みが与えられる。今、私たちがしているように、いつも御国の縁に立って祈り、親しく御声を聞くことができるのです。神の祝福の契約の通りです。

 これほどまでに主がどうしようもない罪びとを愛してくださっている。私たちは身を低くせざるを得ません。それが、貧しい者、主を恐れる者という言葉で言い表されています。神の御国の縁に立ち、罪が示され、自分の貧しさが明らかになり、いのちを捨ててまで救ってくださったイエスさまに出会います。イエスさまの「愛」と「愛」に圧倒されて、主を恐れます。神さまをほめたたえざるを得なくなるのです。賛美の歌があふれてきます。


 先ほど、これから賛美する曲を紹介しました。作詞したのはファニー・クロスビーという女性の詩人です。1820年、アメリカ・ニューヨークに生まれました。ファニー・クロスビーは、生後6か月で失明しました。医者の誤診だったようです。その医者は町にいることができず、町を去りました。ファニー・クロスビーは、お母さんやおばあちゃんをはじめ、熱心なクリスチャンに助けられながら成長しました。目が見えない上に、わが子を幼くして亡くして、たいへん苦労しました。それでも神さまに頼り、御国の縁を歩み続け、作詞家として活躍できました。生涯で作詞した讃美歌は9千曲とも言われています。

ある時、彼女を失明させてしまった医者が、ずっと心を痛めていたことを知ったとき、ファニー・クロスビーが語った言葉が残っています。


「もし今、私が彼に会うことが出来たら、伝えたいのです。私の目を見えなくしたことで自分を責めないで下さい。あなたにとっては失敗だったかもしれません。でも神さまに失敗はありません。私が肉体的に暗やみの中で生涯を暮らすことは、神さまのご計画だったと私は信じています。見えないことを通して多くのものを見ることができたので、神さまへの賛美が生まれました。讃美歌を通して多くの人を励ますことができたのです。私は世界中で一番幸せな者だと思います。今しばらく体の目は見ることができません。でも天の御国に帰るなら、私はこの目で最初に救い主イエスさまを見ることができるのです。」


ファニー・クロスビーは、失明の原因となった医者を敵として責めてもおかしくありませんでした。しかし、主のあわれみによって、神さまの道を求め続けました。御国の縁に立って、いつもまっすぐ神さまに向かう道からそれないように祈っていたのです。


誠実で直ぐな心で 私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから。(21節)


私たちにもこの祈りが与えられています。お祈りします。


詩篇 第25篇 構造

A

1 主よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます。

2 わが神 あなたに 私は信頼いたします。

どうか私が恥を見ないように

が私に勝ち誇らないようにしてください。

3 まことに あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず

  ゆえなく裏切る者が 恥を見ますように。

B

4 主よ あなたのに知らせ

あなたの進むに教えてください。

5 あなたの真理にを導き 教えてください。

あなたこそ の救いの神

は あなたを一日中待ち望みます。

6 主よ 思い起こしてください。

あなたのあわれみと恵みを。

それらは とこしえからのものです。

7 の若いころのや背きを

思い起こさないでください。

あなたの恵みによって を覚えていてください。

主よ あなたのいつくしのゆえに。

C

8 主は いつくしみ深く正しくあられます。

それゆえ 罪人をお教えになります。

9 主は貧しい者を正義に歩ませ

貧しい者にご自分のをお教えになります。

10 主のはみな恵みとまことです。

主の契約とさとしを守る者には。

D

11 主よ あなたの御名のゆえに

私の咎をお赦しください。それは大きいのです。

C

12 主を恐れる人は だれか。

主はその人に選ぶべきをお教えになる。

13 その人のたましいは 幸せの中に宿り

その子孫は地を受け継ぐ。

14 主は ご自分を恐れる者と親しく交わり

その契約を彼らにお知らせになる。

B’

15 の目はいつも主に向かう。

主がの足を罠から引き出してくださるから。

16 に御顔を向け をあわれんでください。

はひとり 苦しんでいます。

17 の心の苦しみが大きくなりました。

どうか この苦悩からを引き出してください。

18 の悩みと労苦を見て

のすべての罪を赦してください。


A’

19 ご覧ください。私のがどんなに多いかを。

彼らは不当な憎しみで 私を憎んでいます。

20 私のたましいを守り 私を救い出してください。

私が恥を見ないようにしてください。

私はあなたに身を避けます。

21 誠実で直ぐな心で 私が保たれますように。

私はあなたを待ち望んでいますから。

22 神よ イスラエルを

そのすべての苦難から贖い出してください。

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