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「稲妻が 閃いて 主が 来られる日」

2022年9月4日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第17章21-37節


22 イエスは弟子たちに言われた。

「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。

23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、

行ってはいけません。追いかけてもいけません。

24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、

ちょうど同じようになります。

25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、

この時代の人々に捨てられなければなりません。

26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。

27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。

人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、

29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、

すべての人を滅ぼしてしまいました。

30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。

31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。

32 ロトの妻のことを思い出しなさい。

33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、

一人は取られ、もう一人は残されます。

35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」

36 【本節欠如】

37 弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、

イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」


新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を祈ってから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈り、へブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

私は、以前、年末になると、新年のスケジュール帳を手に入れて、予定を書き込むようにしていました。ただし、最近、スマホを使うようになって、パソコンとスマホが連携しているスケジュールを使うようになりました。でも、スマホに予定を入力するには、まだまだ手間取ってしまいます。

今日のみ言葉を通して、イエスさまは、あなたの予定表に、わたしの再臨の予定は入っていますか、と問うておられます。忙しい生活の中で、イエスさまの再臨、イエスさまが再び来られることを、忘れがちになってしまう私たちは、はっとさせられます。私たちには、いつ、イエスさまが再び来られるかは分かりませんが、み言葉を聞きながら、心に描いている人生の予定のど真ん中に、イエスさまの再臨を、改めて書き込みたいと思っています。

先週、パリサイ人がイエスさまに「神の国はいつくるんですか」と尋ねました。イエスさまは、「見なさい、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」。神の国は、コインの表裏のように、未だにと既にのふたつの面があるのだ。あなたがたの目には、神の国は、未だに、この地に来ていないけれども、神の国は、わたしと共に、既に、あなたがたのところに、あなた方の目の前に来ている、とお答えになりました。

今日、イエスさまは、再臨、「再びという意味」の「再」と「来るという意味の来臨」の「臨」で「再臨」、イエスさまが再び来られるときのこと、主の再臨について、丁寧に教えてくださっています。イエスさまの一度目に来られたのは、クリスマスの夜でした。そして、十字架と復活を通られ、天に昇られました。イエスさまは、今、聖霊によって私たちと共におられますが、私たちの目には見える姿ではここにはおられません。しかし、イエスさまは救い主メシアとして再び来られ、神が支配なさる神の王国を建ててくださいます。


先週、イエスさまは、パリサイ人たちと話しておられましたが、今日、再び弟子たちに向かって話し始められました。22節。

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。

「人の子の日」。これはルカだけが使っている貴重な言葉です。「人の子」は、旧約聖書で語られている救い主メシアを指しています。イエスさまは、わたしがその救い主メシアであることを明らかにして話されるとき、ご自分のことを人の子とおっしゃいます。ですから、「人の子の日」は、「救い主メシアが来られる日」です。つまり「イエスさまが再臨なさる日」です。

このときの弟子たちは、毎日、イエスさまと目を合わせ、言葉を交わし、寝食を共にして伝道の旅をしていました。しかし、イエスさまが十字架で死なれ、復活され、天に帰られたなら、イエスさまを目で見ることができなくなります。イエスさまが再臨なさるまでの間、弟子たちは、聖霊によって伝道し教会を建て上げていきます。そのとき、世の激しい迫害に遭います。殉教する者も出ます。

イエスさまは、弟子たちが試練を通ること知っておられ、あなたがたは、わたしの再臨の日だけでもいい、たった一日でもいいから、わたしに会いたいと、強く願うようになる。しかし、再臨の日までわたしに会うことはできない、と預言なさったのです。


イエスさまはパリサイ人たちに、21節で、神の国は「ここだ」「あそこだ」と、人びとが、わたしの再臨の噂をしても惑わされるな、と警告なさいました。今日の23節は、順序こそ逆になっていますが、パリサイ人たちに警告した「あそこだ」「ここだ」という言葉を使って、同じように惑わされるな、さらに追いかけるなとまでおっしゃって、厳しく警告しておられます。23節。

人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。

イエスさまは、弟子たちも、パリサイ人たちと同じように、神の国の到来についてまったく分かっていなかったことを知っておられたのです。厳しい迫害や試練の中で、主イエスにお会いしたいという思いが強くなり、人びとの噂に右往左往する危うさがあったのです。

イエスさまは、パリサイ人たちには、イエスさまが、どんなふうに再臨なさるかはおっしゃいませんでした。しかし、弟子たちには、信仰の要である再臨を、しっかり弁えていて欲しいので、今日、一歩も二歩も突っ込んで話してくださいました。24節。

人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。

イエスさまの稲妻、わくわくしてしまいます。稲妻は、旧約聖書を読んでいると、神の臨在を示すしるしのひとつです。最近、ゲリラ雷雨のような激しい雨や雷を経験しています。稲妻が夜空を切り裂くように走ると、ぞくっと恐くなります。「人の子の日」「救い主イエスさまが再臨なさる日」、稲妻が閃くのと同じように、イエスさまが来られます。主の稲妻は、天の端から天の端まで光ります。マタイの福音書ですと東から西に閃くきますが、ルカは「天の端から天の端まで」、よりスケールが大きいイメージです。地球のどこにいても主の稲妻は見えるのです。「ここだ」「そこだ」と聞いて、走り出したり、追いかけたりする暇も必要もありません。すべての人に明らかな形、目に見える形で、主の再臨が現れます。しかし、25節。


しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。

イエスさまは、十字架にかかられるためにエルサレムに向かっている旅の途中で、このみ言葉を語っておられます。「まず」です。イエスさまは、再臨の前に、わたしは十字架で、あなたがたの身代わりとなって、死の苦しみを受けます。わたしを受け入れないこの時代の人びとに、まるで、ごみを捨てるように、わたしは死の闇の中に捨てられます、とおっしゃいました。「捨てられなければなりません」は、小さな3文字「dei」によって語られています。ほんの小さな3文字ですが、救いの計画を成し遂げようとする神さまの大きなご意思を表す言葉です。イエスさまは、わたしは、十字架ですべての人の罪の裁きを受けて死ななければならない、と受難の予告をなさったのです。つまり、あなたがたの救いは、十字架から始まり、再臨で完成する、とおっしゃったのです。

イエスさまは、さらに再臨なさるとき、どんなことが起きるのかを、旧約聖書のふたつの出来事に重ねて、話されました。26節から29節です。

26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。

27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、

29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。


ひとつ目の出来事は、創世記第6章から第8章に記されている「ノアの日」です。ノアは、神さまに大洪水による裁きの日が来るから箱舟を造るように言われ、神の言葉に従って忠実にこつこつ箱舟を造りました。同じ時代を生きていた人たちは、日々の生活に忙しくしており、食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしていました。神さまに心を向けず、神さまを礼拝せず、神さまの言葉を軽んじていたのです。そして、神さまがおっしゃった通り、大洪水の日が来て、ノアの一家だけが救われました。

ふたつ目の出来事は、創世記第19章に記されている「ロトの日」です。アブラハムの甥のロトは、罪まみれの町ソドムに住んでいました。神さまは、ソドムを滅ぼそうとされましたが、ロトは、神の使いによって、ソドムから逃げるように導かれました。ソドムの人たちは、ノアの時代の人たちと同じように、食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていました。日々の生活は大切なのですが、神に心を向けるどころか、神に背き、罪に浸りきっていたのです。ロトがソドムの町から逃げ出すと、天から火と硫黄が降ってきてました。ロトとふたりの娘だけが救われました。

イエスさまは、わたしが再びこの地を訪れる日、「ノアの日」と「ロトの日」に起こったと同じような、救いと裁きが行う、とおっしゃいました。ふたつの日で強調しておられるのは、神の言葉に従ったノアの家族とロトの家族が滅びから逃れて救われたことです。一方、日々生きることだけに心縛られてしまい、神さまに心向けず、神さまを見捨てていたような人たちは裁かれました。私たちにとって、裁きの厳しさの方が衝撃的に心に響くかもしれません。しかし、忘れてはならないのは、イエスさまは、この二つの日を語られる前に、既に、わたしはすべての人を救うために十字架で死ぬ、とおっしゃっていたことです。イエスさまは、罪深い私たちが、恐ろしい滅びから逃れることができる道を造るために、今、エルサレムの十字架に向かって、まっすぐに進んでおられるのです。

イエスさまは、ロトと娘たちが、懸命に走って小さな町に逃げ込み、火と硫黄の裁きから逃れることができたように、「人の子が現れる日」に、裁きが始まったらなら、懸命に走って逃げるように、おっしゃいました。30節から32節。

30人の子が現れる日にも、同じことが起こります。

31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。

32 ロトの妻のことを思い出しなさい。

この当時の家は、平らな屋上があって、外階段がついていました。再臨の日、稲妻が光ったら、屋上にいる人は、家の中に大事な財産があっても、部屋には戻ってはならない。畑にいる人も、財産を取りに家に戻らないように命じられました。神の使いは、ロトの家族に、逃げるとき、決して後ろを振り向かないように命じていました。しかし、ロトの妻は、町の生活を惜しんだのでしょうか、残してきた家財が気になったのでしょうか、振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。

このロトの家族の出来事から、イエスさまはこうおっしゃいました。33節。

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

イエスさまは、これと同じような言葉を何度か話されています。ふたつのいのちという言葉が語られていますが、初めのいのちは、ロトの妻が振り返って惜しんだような、この世で大切にしているもの、肉体の命も含めて自分を生かしていると思っているものです。ふたつ目のいのちは、神の国にあふれている永遠のいのちです。イエスさまは、この世のいのちに心を縛られている人は、永遠のいのちを失い、世のいのちを捨てる人は、永遠のいのちを得ることができる、とおっしゃいました。


さらに、イエスさまは、人の子の日に、こういうことが起きるとおっしゃった。34節、35節。

34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。

35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」

ヨハネの福音書第14章3節で、弟子たちが、イエスさまの死を感じ取って、不安で落ち着かず心騒いでいました。イエスさまは、「また来て」という言葉で再臨に触れながら、こう言われました。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

「あなたがたをわたしのもとに迎えます」の「迎えます」という言葉が、今日の34節35節の「取られ」と同じ言葉なのです。

夜、夫婦でいっしょに寝ていても、再臨の日、イエスさまを信じている者は、神さまのみもとに迎えられ、ひとりはこの地に残ります。昼間、ふたりで一緒に働いていても、再臨があると、イエスさまを受け入れている者は、神さまのみもとに迎えられ、もう一人は地上に残されます。

これも衝撃的なシーンです。仲間たちと世の終わりについて語り合っていて、休憩時間に、はやく引き上げてほしいなとか、みながすっと消えて、自分だけ残るかもしれない、というように、このことを引用して話すことがよくあります。それほど、インパクトがあり、一度聞いたら忘れられない言葉です。一人は取られ、もう一人は残される。

弟子たちは、これらの再臨のときに何が起こることを、イエスさまから直接聞いたのですから、その裁きの厳しさに、恐れと不安で、足が震え出していたかもしれません。恐る恐る、イエスさまに尋ねました。37節。

弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」

「主よ、それはどこでお起こるのですか」と、丁寧に訳されていますが、もとの言葉は、短いたったふたつの言葉だけです。「主よ、どこ」。裁きへの恐れで弟子たちの表言葉数が少なくなってしまっているのです。

しかし、イエスさまは弟子たちをなだめるどころか、さらに追い打ちをかけるように、不気味なことをおっしゃった。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」。わたしが再び、この世に来るとき、「ノアの日」や「ロトの日」の厳しい裁きが、必ず、起こる、とおっしゃったのです。しかし、これは弟子たちを恐れさせるためではありません。イエスさまが、再び来られるのは、私たちの救いを完成するためなのです。裁きがあるなら、救いはさらに確かにあるのです。救いの確かさは十字架と復活に、既に、現れているのです。イエスさまは、わたしはあなたがたの救いを完成するために来る。あなたがたは、わたしが再び来るまで、人びとに惑わされず、落ち着いた生活をするように。与えられる試練に耐えながら、わたしの再臨を確信して待つように、とおしゃったのです。

私の先輩の牧師が、説教の中で、再臨の主を待ちながら生きている人を紹介していました。もう亡くなられた方ですが、谷恒昌という方です。谷先生は、戦後、行くあてもなく道路で生活をしている子どもたちを憐れに思い、大学教授の道を捨てて、子どもたちの保護施設を作って一緒に生活をした方です。その時の動機は、先々週の説教でお話ししたみ言葉でした。イエスさまに癒していただいた人が10人。しかし、イエスさまに感謝しに戻って来たのはたったひとりのサマリア人だけ。谷先生は、このサマリア人に自分を重ね、ただただイエスさまに救っていただいた感謝をささげているだけです、と話しておられました。その後。北海道家庭学校と言って、非行に走ってしまった少年たちのための施設で、少年たちと飲食を共にしながら指導をするようになりました。指導と言っても、礼拝で、少年たちに、愛情を注ぎ込むように、み言葉をまっすぐ語り続けました。しかし、少年たちは脱走を試みてしまう。冬に事件が起きることが多かった。3人の少年が脱走して、冬の冷たい川でおぼれ死ぬというたいへん痛ましい悲劇もありました。また、ある正月に、成績のよいふたりの少年に、帰省することを許可した。しかし、ふたりでいっしょに万引きをして捕まってしまいました。谷先生は、礼拝で学校の残っていた少年たちにその報告したとき、涙が止まらず、深い悲しみで、体が震えるのを抑えることができませんでした。

 谷先生がある礼拝説教で、少年たちに、私たちはいつか必ず死ぬのだということを話し、信仰についてこう語っておられた。神さまは尋ね求めて得られるものではない。私たちは神さまを待ち望むほかないのだが、虚しさに耐えて、寂しさをこらえて、ひたすらに待ち望んでいると、ふと後ろから支えられている自分を感じることがある。それを私は信仰と呼ぶ。私たちは待つことに耐えたいと思う。死を越えて私たちは待つのだというのです。耐え続け待ち続ける。なぜ耐え続けることができるか、待ち続けることができるか、後から神さまが支えてくださるからだ。神さまが後ろから支えてくださるから、私たちは前を向くことができる。自分の愛の虚しさに耐えて、泣き崩れるけれども、私たちは崩れない。


私たちは、今日、イエスさまの再臨のお約束の言葉を聞きました。谷先生は、少年たちに、神さまは後ろから支えてくださっている、それが信仰だと言われました。こう言い換えることができるでしょう。神さまのみ言葉によって、私たちの信仰を、後ろから支えてくださっている。私たちは神さまに支えていただいている。私たちは、日々の生活の悩みに追い込まれてしまい、ノアの日やロトの日のように、神さまに心を向けることができなくなるようなときがあるかもしれません。厳しい試練のただ中で、耐えがたい悲しみ、失望や敗北を経験します。しかし、イエスさまは、私たちの救いを完成するために、再び来てくださいます。イエスさまは、わたしは、既に、十字架の苦難を通ったのだから、わたしがあなたがたのところに、再び来るのは、確かなことではないか、とおっしゃいます。私たちのためにいのちを捨ててくださったイエスさまにお会いできるのです。喜びをもってイエスさまをお迎えしたいのです。再臨を信じる信仰を、イエスさまご自身が、み言葉を通して支えてくださっているのです。だから、主が再び来られるのを待つことができるのです。どんなことにも耐えながら、前を向いて歩み続けることができるのです。主を待つ目が曇らないように、十字架の血潮で洗っていてくださいます。神の指が石の板に十戒を刻んだように、神さまは、イエスさまが稲妻のように来られる日を、心の予定表のど真ん中に、神の指で、決して消えないように刻んでいてくださいます。お祈りします。


主よ、私たちは、日々、襲いかかって来る試練に押しつぶされ、あなたが来られる幻が見えなり、前に進めなくなることがあります。どうか、再臨信仰の貧しさ弱さを赦してください。イエスさまの十字架とみ言葉によって支えられて、あなたにお会いする日を、試練に耐えながら、喜びをもって待つ信仰に立つことができますように。死んで終わる人生ではなく、再臨の日に神のみもとに引き上げられ、神さまとの永遠の日々があることを確信できますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン

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