2022年3月20日 礼拝説教 後藤弘牧師 詩篇第22篇 指揮者のために。「暁の雌鹿」の調べにのせて。ダビデの賛歌。(変則的ですが説教を進めながら聖書朗読をしました)
柳美里さんという女性の作家をご存じでしょうか。1963年生まれ。一昨年の2020年4月11日、福島県の原町カトリック教会で洗礼を受けました。ご両親は小さな漁船で日本に流れ着いて日本に住むようになった在日韓国人です。柳美里さんが幼いころ両親は離婚し、母親と新しい父親と暮らすようになりました。しかし新しい環境になじめず反抗し、家出し、自殺未遂もしたことがありました。プロテスタントのミッションの学校だったからでしょう、中学1年生のとき、聖書と劇的に出会いました。聖書の言葉が体に流れ込むように入って来た。み言葉と一緒にいたいと思い、赤いマジックでⅠコリント第13章の愛の賛歌を、」腕に刻むように書きました。その後、激流のような人生でしたが、聖書から離れることはありませんでした。
311東日本大震災は鎌倉で経験した。すでに作家として独り立ちをしていました。なぜか被災地に心が惹きつけられた。被災地に何度も通った。不思議な導きで、小高町のFMラジオの緊急災害放送「南相馬ひばりエフエム」に関わるようになった。小高町は福島原子力発電所から30キロにあります。この放送局は、主に被災の状況や、配給や給水の情報を伝えていた。柳美里さんは被災者の話を聞く番組のパーソナリティーをするようになった。1年くらいの予定だったが、2018年3月まで7年間続いて、600人の被災者の話を聞くことができました。はじめは鎌倉から通っていたが、小高町で被災者といっしょに生活をしながら、話を聞かなければならないと思い、小高町に移住しました。2018年4月、「フルハウス」という本屋をオープンした。神さまの奇跡がたくさん重なった結果だった。表は本屋さんだが、元々は水道屋さんの家、裏に作業場として使っていた大きな倉庫があった。柳美里さんは演劇にも携わっていることもあり、倉庫を改装して演劇をするようになった。柳美里さんは、600人の被災者一人ひとりの心に、悲しみが溜まって、溺れそうになっていたことを知っていた。柳美里さんは興味深い経験をしました。被災者たちがいっしょに演劇に集中していると、目には見えないひとつの水路が現れ、みんなの心にたまっていた悲しみが、水路を伝って心の外に流れ出したのです。
なるほどと思ったとき、あっ、祈りも同じではないかと思いました。祈ると心が軽くなる経験をみなさんもしていると思います。悲しみで溺れそうになるとき、祈りは神さまに悲しみを受け取っていただく水路になっているのです。悲しみが深い時、嘆く言葉もなくなることがあります。そうときにこそ、詩篇の言葉で祈って欲しいのです。詩篇には多くの嘆きの言葉があります。嘆きは悲しみで溺れてしまいそうなときの叫びの祈りです。詩篇の言葉で、悲しみや絶望を、神に向けて訴えることによって、祈りが水路となって悲しみが神さまに向けて流れ出すのです。それだけではありません、祈りの素晴らしさは、悲しみが流れていくだけでなく、今度は神さまから慰めや平安が流れ込んでくるのです。
311や原発や病、それだけではなくいじめなど、さまざまな理不尽な出来事で打ちのめされたとき、こういう問いが生まれます。「何でこんなことが起きるのか」「どうして私がこんな目に遭わなければならないのか」。実は、このような問いは、神さま以外のところに持っていく場所はないのです。人に訴えても解決できません。詩篇の嘆きは、乱暴な言葉で言えば、神さまの胸倉を掴んで訴えているんだと言われます。神さまに訴えることで、どこにも持っていくことができない悲しみや絶望が、神さまに向かって流れ始める。悲しみを受け取ってくださる神がおられることを経験するのです。神さまは遠くに行かれたのではなく、ともにおられる。それがもっとも深い慰めなのではないでしょうか。
詩篇第22篇の詩人は、理不尽な災いに襲われて、絶望している人の代表です。どうしてこんなことが起きたんだ、神さまはこのことをお赦しになっているのか。最も近くにいてほしいときに、神さまが遠いのです。今こそ御声をお聞きしたいのに、黙っておられる。昼も夜も呼び続けても、祈りに答えてくださらないのです。苦しくて悲しくて夜も眠れず、神に向かって叫ばずにはおれない。神さまに嘆き訴えています。
わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私のうめきのことばにもかかわらず。(1節)
わが神
昼に私はあなたを呼びます。
しかし あなたは答えてくださいません。
夜にも私は黙っていられません。(2節)
私たちはつらかったときを思い起こしたり、今の悲しみを思うなら、このように叫ぶ詩人の心に共感できるでしょう。
今、流れているウクライナの映像はリアルタイムです。私たちは戦争の記録や映画を見る機会があります。しかし、ウクライナ侵攻は、記録のように過去のことでもなく、映画のように作成したものでもなく、まさに今、起きている出来事そのまま。ロシアの攻撃が常軌を逸するようになりました。学校や病院、そして多くの子どもたちや女性たちが避難している劇場を爆撃し始めたのです。いまだに多くの子どもたちが瓦礫の下に埋まっているのです。ウクライナには多くのキリスト者がいます。その方々はこの詩篇の言葉を思い起こし、自分の嘆きとして、神さまに向かって訴えておられることでしょう。この悲劇はリアルタイムと申しました。ならば私たちもリアルタイムに今、ウクライナの人たちといっしょに神に向かって訴えます。
わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。(1節)
「神さま、あなたは、今、どこにおられるのですか」「どうして沈黙しておられるのですか」という訴えです。神さまに出会ってない方にとっては、絶望の言葉としか聞こえないかもしれません。確かに災いに遭った時に「神も仏もない」という言い方をするでしょう。しかし、ここでは「わが神」です。「私の神」です。「私の」がない「神」は、直接に関わりのない遠い神です。しかし、「私の神」と言うときには、神さまと密接な関係があるのです。神さまを信頼しているから「私の神」と呼ぶのです。それも繰り返して2回呼んでいることは、神への信頼の深さが現れているのです。絶望しているからこそ、悲しみがあふれてくるからこそ神さまにしがみついて訴えているのです。
ですから「どうして」という言葉は、「どうしてこんなことになってしまったんだ」という絶望の言葉ではなく、あくまで神さまに「どうしてですか」とお聞きしているのです。すがりつくようにして訴えているのです。神さまを信頼しているからです。私たちが理不尽さに打ちのめされて絶望したとき、この言葉で祈ると、詩人の神への信頼が私たちのうちに沁み込んできて、心の底からあふれてくる悲しみや絶望が神さまへ流れ出します。
すると自分の先祖たちが神さまを信頼し、神さまは信頼に応えるようにして救ってくださったことを思い起こしました。
けれども あなたは聖なる方
御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。(3節)
あなたに 私たちの先祖は信頼しました。
彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。(4節)
あなたに叫び 彼らは助け出されました。
あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。(5節)
おそらく出エジプト記において、海を裂いて、先祖たちを救い出してくださったことを思い起こしたのでしょう。このときだけでなく神さまはいつも先祖に恥を見せることをなさらず、先祖は神さまを信頼していた。そうだ、私ももっと信頼しよう。
しかしながら、私たちは、とてもつらい状況にあると、信仰が揺れることを経験しています。詩人も、信頼を思い起こしましたが、目の前の困難に揺さぶられました。
しかし 私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしりの的 民の蔑みの的です。(6節)
私を見る者はみな 私を嘲ります。
口をとがらせ 頭を振ります。(7節)
「主に身を任せよ。
助け出してもらえばよい。
主に救い出してもらえ。
彼のお気に入りなのだから。」(8節)
「私は虫けらです。人間ではありません」。空爆を受けているウクライナの方々にこう思っておられる方もいらっしゃるでしょう。「私たちの何だと思っているんだ。虫けらを殺すかのように、爆弾を不分別に投げ込むなんて」。私たちもこなごなに打ちのめされると同じように思うのではないでしょうか。
しかし、それでも心の深いところに刻まれた神のへの信頼は消えていません。今、いのちの危機にあるけれども、私のいのちは神さまからいただいたことに思いが至ります。
まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。
母の乳房に拠り頼ませた方。(9節)
生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。
母の胎内にいたときから あなたは私の神です。(10節)
「あなたが私を母のお腹から取り出してくださった。そして母の乳を飲むようにされた。そのように私のいのちは初めからあなたの御手の中にあった」。柳美里さんがみ言葉を腕に書きましたが、そのように体に刻み付けたくなるようなみ言葉のひとつがこれでしょう。「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」。この告白が嘆きから賛美への大きな転機を迎える鍵の言葉だと思います。「あなたは私の神」。赤マジックで心に書き込みましょう。
詩人はこの後、また、激しく揺れます。11節から21前半まで続きます。ウクライナの方に寄り添いながら読むと心が痛みます。ただし、気をつけて読むと、11節と19から21節前半に、祈りの言葉が生まれ始めています。「わが神」と叫び、先祖の信頼、いのちの源を思い起こす中で、揺れながらも神さまと新しく出会い始めているのです。
どうか 私から遠く離れないでください。
苦しみが近くにあり
助ける者がいないのです。(11節)
12ー13節は、まさにロシア軍に取り囲まれているウクライナの状況です。
多くの雄牛が私を取り囲み
バシャンの猛者どもが私を囲みました。(12節)
彼らは私に向かって 口を開けています。
かみ裂く 吼えたける獅子のように。(13節)
爆撃や銃撃の破壊音は、人びとを死の恐怖の暗闇に陥れ、人びとの心はまさに14から15節のようです。
水のように私は注ぎ出され
骨はみな外れました。
心はろうのように
私のうちで溶けました。(14節)
私の力は土器のかけらのように乾ききり
舌は上あごに貼り付いています。
死のちりの上に あなたは私を置かれます。(15節)
私たちは死のちりの上に置かれている、それが人びとの実感でしょう。心は折れ、ろうのように溶けてしまい、しっかり立つことさえできず、土器のかけらのように乾ききり、口の中もからからで舌はあごに貼り付いている。地下シェルターで夜を過ごす心境ではないでしょうか。不安な夜を眠れずに過ごすときの私たちです。
犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(16節)
私は 自分の骨をみな数えることができます。
彼らは目を凝らし 私を見ています。(17節)
彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(18節)
「彼らは目を凝らし、私を見ています」。ロシア軍が戦車から街の様子をうかがっている様子に重なります。
しかし、嘆きによって悲しみが主の御手の中に流れ、すると主が近くにおられるんだと気づき始めて、祈りが生まれました。
主よ あなたは離れないでください。
私の力よ 早く助けに来てください。(19節)
救い出してください。私のたましいを剣から。
私のただ一つのものを犬の手から。(20節)
救ってください。獅子の口から 野牛の角から。(21節前半)
すると、心の深いところに御声が聞こえ始めたのです。
あなたは私に答えてくださいました。(21節後半)
どんな答えだったか詳しくは記していませんが、確かに御声を聞いたのです。ただし敵の攻撃から救われてはいません。御声が聞こえるだけでいいのです。確かに神がともにおられるなら、死の床の上にあっても、神を賛美できるのです。ここでは集会の幻を見せていただいたのでしょう。すべての人が神を賛美しています。賛美という言葉が、喜びと共に何度も繰り返されます。
私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ
会衆の中であなたを賛美します。(22節)
主を恐れる人々よ 主を賛美せよ。
ヤコブのすべての裔よ 主をあがめよ。
イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。(23節)
主は貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず
御顔を彼から隠すことなく
助けを叫び求めたとき 聞いてくださった。(24節)
大いなる会衆の中での私の賛美は
あなたからのものです。
私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。(25節)
どうか 貧しい人々が食べて満ち足り
主を求める人々が主を賛美しますように。
──あなたがたの心がいつまでも生きるように──(26節)
賛美によって確信した主のご支配を告げ知らせます。敵の攻撃の中で主の完全な勝利を歌っています。
地の果てのすべての者が思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。(27節)
王権は主のもの。
主は 国々を統べ治めておられます。(28節)
地の裕福な者はみな 食べてひれ伏し
ちりに下る者もみな 主の御前にひざまずきます。
自分のたましいを生かすことができない者も。(29節)
子孫たちは主に仕え
主のことが 世代を越えて語り告げられます。(30節)
彼らは来て 生まれてくる民に
主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。(31節)
とても不思議なのですが、嘆きから始まった詩篇が、賛美と勝利の歌になりました。こう言えるでしょう。賛美と勝利は、神さまに嘆きを訴えることから始まる。
ここで少しの間、ウクライナからアメリカに目を移します。アメリカのウィリモンという牧師がこのように語っています。2001年9月11日、ふたつのタワービルディングに向かって、乗っ取られた航空機が突っ込んだ。高さを誇るふたつのビルが崩落し多くの方が亡くなった。理不尽な惨劇でした。後に公共テレビ(PBS)でドキュメンタリー「グラウンドゼロからの信仰と疑い」が放送された。グラウンドゼロはツインタワーの跡地で、追悼の広場になっている。911の恐怖を体験した人に、そのとき神さまはどこにおられたと思うのかというインタビューをした。911以前、神さまをどう信じていたかによる答えだった。「神さまは愛情深く、同情的で、思慮深く、面倒見が良く、人間に対して悪いことはお許しにはならない方だ」。つまり「人間が願う通りの神さま」を信じていた人たちは、911によって神に幻滅してしまった。「神は人格を持たず理念のような存在だ」と考えていた人たちは、漠然と人格のない観念的な慰めを見出すだけだった。しかし、「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という詩篇のみ言葉を理解していた人たちはこう答えた。「2000年前の4月の金曜日に神がおられたところだ」911はアメリカの歴史始まって以来の最悪の事態と言われていた。しかし、世界の歴史上、最悪の事態は911ではなく、ゴルゴタの丘であの金曜日に起こった出来事だ。だから911の悲劇に、イエスさまは十字架の上におられ、すべての人の嘆きを受け取り「わが神、わが神」と叫んでいてくださった。
どんな最悪な出来事だったのでしょうか。私たちを救いに来られた神の御子が、私たちの罪のために、公衆の面前で侮辱され、暴力を受け、死の苦しみを受けられた。父なる神が子なる神を十字架から助けようとはせず、見過ごしになさり、御子は私たちの身代わりとなって見捨てられてしまわれた。イエスさまは繰り返し「わたしは父とひとつです」とおしゃっていました。決して分かつことができない父と子が十字架の上で裂かれました。これこそ最悪の出来事。あってはならないことが起きたのです。マタイの福音書第27章44―46節。
イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書第27章44―46節)
イエスさまが、十字架の上で、詩篇第22篇の言葉で、父なる神さまに訴えられました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。イエスさまがこの言葉で祈られたときに、「わが神、わが神」という言葉は、人の嘆きの言葉から、私たちの救いの言葉になりました。神の御子が私たちのために十字架の上で御父に見捨てられてくださったからです。
柳美里さんの言葉を借りながら言うと、私たちの心が、苦しみ、悲しみ、絶望でおぼれ死にそうなとき、主イエスといっしょに「わが神、わが神」と神をお呼びするなら、苦しみも悲しみも絶望もイエスさまに流れ込んでいくのです。イエスさまは私たちの罪とともにすべてを受け取ってくださいます。
プロテスタント教会が生まれた教会改革が起こったとき、ジュネーブで牧師としてたくさんの働きをしたカルヴァンという牧師がいます。カルヴァンは子どもたちに聖書の信仰を教えるためにジュネーブ教会信仰問答集を書きました。その中で、イエスさまの十字架についてこういう意味のことを言っています。十字架の上はイエスさまにとって地獄だった。どうして地獄か、神に見捨てられたところだからだ。カルヴァンは悪人の行くところが地獄だと考えていません。人間にとって最も苦しい地獄は、罪のゆえに神に見捨てられること。イエスさまはすべての人の罪を負って十字架に上られた。父なる神さまは罪を受け入れることはできないから、主イエスを見捨てられた。十字架は、目で見えるところでは小高い丘に立っていた。けれども霊の目で見たら、主イエスは神から見捨てられたのだから、十字架は地獄の底に立っていたのです。地獄とは神がおられないところです。絶望を嘗め尽くして、地獄の最も深い底から、「わが神 わが神」と叫んでおられるのです。私たちがどんなに苦しい絶望を経験したとしても、この主イエスの十字架より深い絶望を経験することはありません。イエスさまはまことの人になられましたが、まことの神であられます。神が死ぬという、人間が決して経験することがない深い絶望をなさっておられる。私たちが絶望して、この方といっしょに「わが神 わが神」と神を呼ぶとき、イエスさまとひとつにしていただけます。イエスさまは私たちよりも深いところでいっしょに叫んでいてくださる。私たちの絶望をイエスさまが下から支えてくださる。絶望の底の底でも神を信頼してしがみついて祈っておられるイエスさまとひとつになるからです。私たちの絶望がどんなに深くても、イエスさまがもっと深いところで受け取ってくださいます。悲しみも苦しみも、私たちの絶望的な罪も受け取ってくださいます。
私たちは、私たちの国に自殺をなさる方がとても多いことに心痛めています。私たちよりも深いところで「わが神、わが神」と祈ってくださる方を紹介したいのです。私たちがこれ以上の絶望はないと思う絶望をも受け取ってくださる方を知って欲しいのです。イエスさま絶望を知っておられ、愛して死んでいてくださるからです。今日、死にたいと思っておられる方の唇に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを、主が授けてくださるよう切に願わざるを得ません。
先ほど時間をかけて詩篇第22篇を最初から最後まで読みました。嘆きに始まり賛美と勝利の歌に至りました。イエスさまは、私たちがイエスさまとひとつとなって「わが神、わが神」と祈って、絶望のただ中に、主がともにおられることを知ってほしいと願っておられます。私たちの絶望をイエスさまの復活の勝利の光が照らしていることに気づいて欲しいのです。
この説教の後、「丘に立てる荒削りの」という賛美を献げます。終わりのところ、元の英語の歌詞はこういう言葉です。「私は古い荒削りの十字架にすがる。それはいつか冠に変るのだ」。もし絶望したらな、十字架にすがりましょう。いっしょに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びましょう。荒削りの十字架はかならず復活の光り輝く冠となります。
ウクライナの人たちは「どうしてこんなことになってしまったんだ」「神は助けてくださらないのか」と、今、「わが神 わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んでおられます。今、イエスさまはどこにおられますか。イエスさまはウクライナの真っただ中に立っている十字架の上におられます。すべての人の絶望の嘆きを受け取っていてくださいます。十字架の上で、すべての暴力、銃弾も砲撃も受けておられます。イエスさまは絶望の底の底からいっしょに叫んでいてくださいます。ウクライナ全土に、いや世界中に、主の叫びは響いています。イエスさまは、私たちのためにも叫んでおられます。深い絶望や悲しみに溺れそうになっても、たったひとつ、しがみつくことができる救いがあります。十字架です。十字架のイエスさまの祈りです。お祈りします。
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