2022年1月16日 主日礼拝説教 後藤弘牧師
詩篇57篇
指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。
ダビデによる。ミクタム。
ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。
1 私をあわれんでください。
神よ。私をあわれんでください。
私のたましいはあなたに身を避けていますから。
私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。
2 私はいと高き方神を呼び求めます。
私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。
3 神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ
神は恵みとまことを送ってくださいます。
4 私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。
彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。
5 神よ あなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。
6 彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。
私のたましいはうなだれています。
彼らは私の前に穴を掘り
自分でその中に落ちました。セラ
7 神よ私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。
私は歌いほめ歌います。
8 私のたましいよ目を覚ませ。
琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。
9 主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。
10 あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。
11 神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。
みなさんは、今お読みした詩篇第57篇の中に、「ああ、いいな」と、心に響いたみ言葉はあったでしょうか。このみ言葉に心が鷲づかみにされちゃったというものがあったでしょうか。
聖書を子どもたちに教えていた先生が、詩篇を読んで感想を分かち合う授業を続けたところ、だんだん子どもたちが自分の気持ちを詩篇の言葉で話すようになりました。聖書の詩篇は、ただ鑑賞するだけではなくて、時代を超えて、読む者の言葉になるのです。私たちが詩篇の言葉にふれて「ああ、いいな」と思うとき、実は、詩篇の時代や背景とはまったく違いますが、背後にある魂の求めは同じなのです。
今日の詩篇第57篇にも、一読しただけで、宝のようなみ言葉が、ちりばめられています。みなさんの心を捕えたみ言葉はどれでしょうか。ひとつだけ取り上げるのは難しいのですが、この詩篇の頂点をなしている7節、8節に、私たちの心は、ぐっと、鷲づかみにされるのではないでしょうか。
神よ 私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。(7節)
説明を聞かなくても、詩人の心は分かります。詩人が強い信仰によって言っているのではありません。詩人の信仰は揺らいでいたのです。でも、神の大きな恵みを思い起こして、あるいは恵みの経験をして、そうだ、この方が支えてくださっているんだ、この方だけを信頼すればいいんだ。そういう思いが湧いて、告白の言葉が生れたのです。神よ、あなたが生きて助けてくださるから、
神よ 私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。(7節)
詩人は心が激しく揺さぶられるような厳しい試練の中で、告白しているのです。試練の厳しさは、「私の心は揺るぎません」という言葉を二回繰り返していることで分かかります。同じ告白の言葉が第108篇1節にも記されていますが、そこでは繰り返されてはいません。
神よ 私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。私の心の底も。
「私の心は揺るぎません」という告白は、繰り返されなくても強い信仰の言葉です。それを2回繰り返しているということは、この試練によって絶望のどん底に陥れられ、いまだに闇の中にいて、いのちの危機にさらされている状況を物語っているのです。
私たちの心にこの告白の言葉が響いたなら、詩人の試練と違っても、私たちのたましいが揺らがない信仰を求めているのです。だからこの告白のみ言葉が心に響くのです。心に刺さるのです。
神さまはこの告白を喜んで受け入れられ、その口に歌を授けてくだいました。
私は歌い ほめ歌います。
歌うと共に喜び叫びました。
私のたましいよ 目を覚ませ。
琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。
私は暁を呼び覚まそう。(8節)
このみ言葉は心に刺さるというよりも、いっしょに喜び叫びたいと思ったのではないでしょうか。神をほめ歌った口に神が望みを吹き込んでくださったのです。詩人は奮い立たされ、喜び叫んだのです。
私のたましいよ、試練の闇に覆われているけれども、眠っている場合じゃない。神が働いておられるじゃないか。目を覚ませ。目を覚まして、神がなさる救いを待ち望もう。琴よ、竪琴よ、お前たちも黙っていてはならない。目をさまして神への賛美をかき鳴らせ。私は神の栄光をほめたたえたいのだ。
次のみ言葉の輝きが際立っています。「私は暁を呼び覚まそう」。絶望の闇に向かって叫んでいます。吹き荒ぶ試練の嵐に向かって勝利の声を上げています。目覚めたたましいが揺れ動く心に命じています。「私は暁を呼び覚まそう」。自分の力で朝日を昇らせようというのではありません。自信過剰の言葉ではありません。大言壮語でもありません。絶望のどん底にいるこの私に神の偉大な力が働いている。神の圧倒的な恵みに促され、叫ばざるを得ないのです。暗闇に響き渡る希望の叫びです。
私たちはこのみ言葉を、日々の朝のみ言葉としたい。この言葉をもって朝を迎えたいと思います。最近の言葉で言えば、このみ言葉を叫ぶことを、朝を迎えるルーティンにしたい。なぜなら、私たちの心の目は、次々立ちはだかる出来事によって曇ってしまうからです。悲しみや苦しみをどうすることもできずに魂がうなだれてしまうからです。いつもの朝であっても罪は私たちの目を霞ませるからです。神に向かって眠っているたましいを目覚めさせるのです。
私のたましいよ 目を覚ませ。琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。(8節)
聖書の詩篇は150篇収められています。その中に信仰者の嘆きの詩篇がたくさんあります。この第57篇も試練のなかで神に助けを求める「嘆きの祈り」のように見えます。しかし、今見たように、試練のただなかにはありますが、暗闇の中で、信仰を告白し、希望の歌を歌い始めています。神をたたえているのです。私たちも試練に遭ったならこのような信仰に立ちたいと願います。この信仰に憧れるのです。詩人がもがきながらも信仰の心が、7・8節の希望に引き上げられていく流れを、初めから聞きとっていきましょう。
この詩篇には、はじめに小さなメモがついています。旧約聖書の中でも王の中の王であるダビデが書いたものであること。「ミクタム」。本来の意味は「金の中」。金はとても高価で価値がありますから、価値の高い、数々の珠玉の詩の中から選ばれた詩篇であると理解されています。「金の詩篇」とも言われます。「調べ」とありますから、この詩篇が読まれるとき、流れる曲があったようです。この詩篇のなかに「琴」や「竪琴」が記されていますから、「琴」が奏でられたていたのでしょう。その曲のタイトルが「滅ぼすな」。とても衝撃的なタイトルです。いろいろな黙想が広がります。詩人はいのちの危機にさらされていること。しかし、神が味方をしてくださるので、決して滅ぼされることはないと確信しているのです。「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」。先日の説教でもお話ししましたが、神さまは、最初のイスラエルの王としてサウルをお立てになりました。そして次の王に選ばれたのがダビデです。当時、他の民族との戦いに明け暮れていました。ダビデが戦いの先頭に立つと連戦連勝、人びとからの人気はうなぎのぼり。女たちはダビデは1万人の敵を倒したが、サウルは千人だけだ、と流行歌のように歌っていました。
女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」Ⅰサムエル18:7
面白くないのはサウル王。サウル王にねたみの霊が入ってしまい、ダビデを殺そうとします。ダビデは、主がお立てになったサウル王に背くことは、主に背くことだと、主への誠実な信仰の持ち主です。サウル王にどんなに襲われても、反撃せず、ひたすら荒野の中を逃げ回りました。サウル王は三千の兵を率いて、ダビデを追い回します。ダビデは身内の少数の仲間しかいません。サウル軍に襲われたらひとたまりもありません。サウル王の執拗な追撃から逃れるようにして洞窟に隠れた時に歌われた詩篇です。
洞窟、あるいは洞穴。光のない暗闇です。敵に攻め込まれたら、逃げ場はありません。いのちの危機が目の前に迫っている状況です。死をも覚悟せねばならない絶望の洞窟、闇の洞穴です。
私たちはサウル王の精鋭の三千の軍隊に襲われることはありません。しかし、オミクロン感染が急な拡大を見せている今、死をも覚悟しなければならない闇の恐ろしさ、洞窟に追い込まれた絶望がよく分かるのではないでしょうか。この朝、トンガの火山を起因とする津波警報のニュースを見て驚きました。高台に避難している人たちの心は、311を思い出し、不安の洞窟に追い込まれていました。それだけではなく、日々の生活に降りかかる試練によって、私たち一人ひとりが追い込まれてしまう絶望の洞窟を知っています。
詩篇はただ歴史を歌ったものではありません。信仰の詩篇です。詩を歌うことによって、詩人の嘆きに身を寄せることができるだけではなく、主がくださる救いや恵みやまことを受け取ることができるのです。この詩篇を私の詩篇、私たちの詩篇として読むならば、主が暗闇から希望の光へ私たちを引き上げくださいます。
私をあわれんでください。
神よ。私をあわれんでください。
私のたましいは あなたに身を避けていますから。
私は滅びが過ぎ去るまで 御翼の陰に身を避けます。(1節)
この詩篇は冒頭から私たちの心を捕えます。「私をあわれんでください」。直前の詩篇、第56篇も「神よ、私をあわれんでください」と歌い始めています。しかし、この第57篇は、「私をあわれんでください」を二回繰り返しています。主に救いを求める切実な思いが、私たちの心に迫ってきます。いのちの危機がそこまで迫っているのです。絶望の淵で叫んでいるのです。
詩人は洞穴で叫んでいますが、たましいをどこに置いていたのでしょうか。「私のたましいは あなたに身を避けています」「御翼の陰に身を避けます」。あなたのお守りを信頼しています。ただただあなたに身を避けています。救ってくださるのはあなただけです。「滅びが過ぎ去る」までですから、今、洞窟から一歩外に出れば、猛烈な嵐が荒れ狂っているのです。雌鶏は危険が近づいて来た時、雛を自分の羽の下に集めて守ります。信仰の目に洞窟が主の御翼に見えたのかもしれません。主に身を避ける。主の守りのなかに飛び込みます。私たちが人生の嵐に遭ったときに第一にすべきこと、それは主の御翼の陰に飛び込むことです。御翼の陰には慰めと平安があります。主に身を避けながら主に祈るのです。
私はいと高き方 神を呼び求めます。
私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。(2節)
御翼の陰での祈りです。賛美です。もう一度繰り返しますが、今、詩人はいのちの危機の真っただ中にいます。人の目には絶望のどん底です。しかし、主に身を避けるなら、主への祈りと信頼が生れてくるのです。
どのような神を信頼しているのでしょうか。「私のためにすべての成し遂げてくださる神を」。私たちが成し遂げるのではありません。神が成し遂げてくださるのです。すべてを、救いのすべてを成し遂げてくださいます。神さまは私たちを救うためには持てるものすべてを送ってくださいます。天から助けを、恵みを、まことを。
神は天から助けを送って 私を救い
私を踏みつける者どもを辱められます。
神は 恵みとまことを送ってくださいます。(3節)
暗い闇の絶望の洞穴の中から天を見上げています。取り巻く闇を恐れていません。迫りくる恐怖におののいていません。この詩人が強いからではありません。詩人の信じている神が大いなる方だからです。この方は天から助けを送り救ってくださる。すべての救いを成し遂げるために、この絶望の闇に恵みとまことを送ってくださる。天を見上げたとき、神が詩人の信仰を筋金入りの信仰にしてくださいました。主よ、ここに来て助けてくださいと祈っていないのです。天から助けが来る。恵みとまことが天から送られてくる。絶望の闇のなかで、じっと神からの救いを待っているのです。神の救いを確信しているからです。救いは洞窟の外、天からやってきます。天を見上げず、すぐにぐらぐら、おろおろしてしまう私の信仰が恥ずかしくなってしまいます。
さて、詩人の現状はどのように語られているでしょうか。
私のたましいは 獅子たちの間で
人の子らを貪り食う者の間で
横たわっています。
彼らの歯は槍と矢 彼らの舌は鋭い剣です。(4節)
「横たわっています」。みなさん、この言葉から、どのような詩人の姿を思い浮かべるでしょうか。私は、初め、きょとんとしました。獅子たちに囲まれているのです。貪り食う者たちが、槍と矢のような歯で噛みつき、鋭い剣のような舌で食い尽くそうと飛びかかってきているのです。私たちにもこの危険が迫っています。まさに、今、オミクロンという獅子が、吠えたけって私たちを貪り食おうと世界中を歩き回っています。思いがけない試練や病が私たちを悩みの底に突き落として貪り食おうとしているのです。人の中傷の言葉が鋭い剣となり、私たちの心が切りつけてきます。
しかし、この詩人は「横たわっています」。敵に囲まれていても、平然と横たわっているのです。なぜか、御翼の陰に身を避けているからです。主の御翼に守られているのです。天から恵みとまことが送られてくるのを、じたばたせずに、しっかり体を休ませながら、じっと待っているのです。私の不信仰があらわにされてしまいました。絶望の洞穴に追い込まれたら、主を信じていても、びくびく恐れてしまいます。どうにかしようと、じたばたしてしまいます。苦しくて横になれず眠れない夜もあるのです。
獅子が詩人を食い尽くそうと、舌なめずりをし、よだれを垂らしているところで、詩人は、天を仰いでいます。神の栄光の輝きを見ています。大きな賛美を歌い始めました。
神よ あなたが天で あなたの栄光が全世界であがめられますように。(5節)
獅子に囲まれるような試練によってもみくちゃにされて、神の助けはないんだとあきらめてしまうなら、私たちのなかで神さまが小さくなってしまいます。無力の神さまにしてしまいます。詩人は違います。獅子たちに囲まれても、まっすぐ神を見上げ、心が一筋に神に向かっています。自分の危機的状況など忘れたかのように、神の栄光が、天で、ただただ神があがめられることだけを思っているのです。たとえここで自分が倒れたとしても、神が辱められるのではなく、神があがめられる結果となるようにと祈っているのです。
彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。
私のたましいはうなだれています。
彼らは私の前に穴を掘り 自分でその中に落ちました。セラ(6節)
6節もとても興味深い。5節で高らかに神をほめたたえるほどの確信を得ていたのですが、どうも、仲間から敵の動きに関する情報が入ったようです。「あなたを倒すためにあなたの足をからめとる網を仕掛けたようです」。敵は攻撃の手をゆるめるどころか、ますます激しく攻め立てて来ます。詩人は一瞬がっかりしました。たましいがうなだれてしまいました。しかし、続報が入ってきました。「私たちを陥れようとして敵が掘った穴に、敵が落ちました」。うなだれていたたましいが、はっとします。神がなさったのだ。神が天から助けを送って救ってくださったのだ。私のすべての救いを成し遂げてくださるのは間違いのないことなんだ。神の変わらない恵みとまことに感謝して、自分の揺らいだ信仰を恥じて、悔い改め、心新たに、神に告白します。
神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。(7節)
詩人は神への信仰が揺らぐ弱さを経験しました。しかし、神の救いを経験し、神への信頼が大きく成長しました。「神よ 私の心は揺るぎません」もう一度、自分に言い聞かせるようにも言っています。「神よ 私の心は揺るぎません!」賛美が心の底から湧き上がってきました。
私は歌いほめ歌います。(7節)
私のたましいよ 目を覚ませ。
琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。
私は暁を呼び覚まそう。(8節)
敵が去って行ったのではありません。獅子は諦めずに噛みつこうとしています。攻撃の手を緩めていません。問題は解決していないのです。絶望の闇のなかにいるのです。そこで歌っているのです。神に向かって目を上げろ。神は生きておられる。私を助けてくださる。私のたましいよ、目を覚ませ、琴よ、竪琴よ、黙っているな、眠っていてはならない。目を覚ませ、私は神への賛美を歌いたいのだ。
・ この神にあって、私は暁を呼び覚まそう。絶望の闇が自然に明けることを望んではいません。そうではなくて、絶望のなかに、すでに神が救いを成し遂げようとしておられることを確信し、神にあって、神に奮い立たされて、叫んでいるのです。私は暁を射呼び覚まそう。自分の力に頼っているのではありません。神の救いを確信している叫びです。
この詩篇は大きな賛美で閉じられます。詩人は、洞窟に居るのに、その目は洞窟を突き抜けて、天が見えているのです。
主よ 私は国々の民の間で あなたに感謝し
もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。
あなたの恵みは大きく 天にまで及び
あなたのまことは 雲にまで及ぶからです。
神よ あなたが天で あなたの栄光が全地であがめられますように。(9~11節)
洞穴のような暗い絶望に追い込まれたらなら、自分の救いを求めるだけで精一杯になりますが、詩人は天におられる神を見つめ、神が全世界を救ってくださる幻を見ています。神がくださる恵みは、私を救うだけの小さな恵みではなく、私たちの手の届かない天にまで及ぶ大きなおおきな恵みなんだ。神のまことは、私たちを守ってくださるだけの小さなまことではなく、雲にまで及ぶほど大きなまことなんた。
2節。
私はいと高き方 神を呼び求めます。
私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。(2節)
「すべてを成し遂げてくださる神」。先週のルカの福音書のみ言葉にも、「成し遂げる」という言葉がありました。「完了した」という言葉だと申し上げました。イエスさまは十字架の上で、私たちの救いためにいのちをささげてくださったとき、最後に「完了した」「成し遂げた」と言われました。主は十字架ですべての救いを成し遂げてくださいました。
(イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。ヨハネ19:30)
この方が甦られ、私たちの御翼となっておられます。必ず助けてくださいます。ですから、旧約の詩人よりも、もっと確かな思いでこう告白できるのです。
神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。(7節)
私たちの心は些細なことでも揺れるのです。主は私たちの小ささを知っておられます。だからすべて救いを成し遂げてくださったのです。すでに十字架の上で。小さな信仰と小さな心を悔い改めて、大きな大きな神の恵みの御翼の陰に飛び込みましょう。獅子に囲まれても、悪口の剣が飛んできても、主が助けてくださいます。恵みとまことを送ってくださっています。朝毎に叫びましょう。
私のたましいよ 目を覚ませ。
琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。
私は暁を呼び覚まそう。(8節)
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