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「父よ、我らを赦し給え」

2022年3月27日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第23章32―28節


ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。


 ドイツに留学したことのある仲間の牧師からこういう話を聞いたことがあります。町を歩いていたら、ふと気がつくと、すれ違う人たち、ひとりふたりじゃなくたくさんの人たちの額に灰がついている。どうもその人たちは教会から出てくるようだった。私たちはイースターの前の一週間を受難週と定めてイエスさまの十字架に集中します。伝統を大切にしている教会は、イースター復活祭の46日前の水曜日に、特別な礼拝をして、牧師あるいは司祭が信徒の額に灰を十字架の形に塗りつけます。友人の牧師は、その礼拝の帰り道の信徒たちに出会ったのです。この日を灰の水曜日と呼んでいます。灰は悔い改めを象徴しています。灰の水曜日からイースターまで、主のご受難に心を向け、悔い改めに徹して歩むのです。この期間をレントと申します。今年は3月2日が灰の水曜日で4月17日がイースターです。私たちは灰を額に塗る習慣はありませんが、受難週そしてイースターに向けて悔い改めを大切にして歩みたいと思います。


 教会は、悔い改めに徹する歩みのために、イエスさまの十字架の上で祈られた言葉を黙想することを大切にしてきました。イエスさまが十字架の上で祈られた言葉は、四つの福音書に七つあります。語られた順序に並べて「十字架上の七つの言葉」と呼んでいます。「十字架上の七つの言葉」を心に刻んで、イエスさまの十字架のご受難に思いを潜め、悔い改めてきたのです。

イエスさまの十字架上の七つの言葉は、十字架の救いのみわざがどういうものかを鮮やかに物語っています。十字架の上で七つの言葉で祈り、いのちをささげ、救いを完成してくださったからです。みなさんは主が十字架で語られたどの言葉を思い起こされるでしょうか。七つの言葉を簡潔にご紹介します。


第1 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカ23:34

第2 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23:43

第3 「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」「ご覧なさい。あなたの母です」ヨハネ19:26-27

第4 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」マタイ27:46

第5 「わたしは渇く」ヨハネ19:28

第6 「完了した」ヨハネ19:30

第7 「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ルカ19:30


 私たちは、先週、第4の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」を詩篇第22篇と結びつけて心に刻みました。今日は、主が十字架の上で一番初めに語られた「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているかが分かっていないのです」を心に刻みながら、悔い改めの心を造りたいと思っています。

 イエスさまは、時には指導者たちと論争になったことがありましたが、弟子たちや群衆の一人ひとりと目を合わせて福音を語って来られました。しかし、今、十字架の上のイエスさまは目を天におられる御父に向けておられます。十字架の第一の言葉は、イエスさまが私たちを御父に執り成してくださる祈りです。

 改めて確かめておきたいのはイエスさまが「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」という祈りをどこで祈られたかです。私たちのように教会堂やで祈っているのとは全く違います。十字架の上です。ルカの福音書によると、イエスさまが十字架につけられた直後にささげられたのです。犯罪人が十字架刑に定められると、開き直って横柄な態度を取ったり、反抗する者たちもいました。「殺すなら、殺して見ろ、十字架なんか恐いものか」。しかし、いざ、十字架につけられると、全身が引き裂かれるような痛みに耐えかねて「俺が悪かった」とか「勘弁してくれ」と懇願したようです。しかし、イエスさまは、助けを求めて絶叫せざるを得ないような痛みを耐えながら、自分の救いをお求めにはなりませんでした。彼らのために祈りました。彼らとは、近いところではイエスさまを十字架につけたローマ兵たちです。十字架に追い込んだ指導者たちもそうです。民衆も彼らのうちに入ります。そして私たちです。私自身、彼らの中に自分の顔が見えました。釘打たれた痛みよりも、私たちの罪の赦しを求めて、御父に執り成してくださった。「父よ、彼らをお赦しください」。イエスさまがいのちをかけて、私たちの罪の赦しを、父なる神さまに祈ってくださっている。死にのみ込まれながらも、執り成しておられるイエスさまのはかり知れない愛の大きさに圧倒されます。深い畏れで心震えます。イエスさまの祈りの重みはイエスさまのいのちの重さです。

 十字架から次に聞こえてくるのは、「彼らは、自分で何をしているかが分かっていないのです」。これは「あなたは何も分かっていないね」と、私たちを諭す言葉ではありません。イエスさまが御父に私たちの罪の弁明をしてくださっているのです。イエスさまが御血潮を流して私たちのために執り成してくださっている。直接諭されるよりも、深く心がえぐられます。ああ、ほんとうに私は何も分かっていなかった。悔い改めへ導かれます。主よ、申し訳ありません。お赦しください。

 このように悔い改めに導かれるとき、見落としてなならない点があります。それをひとつの童話でお話ししようと思います。「北風と太陽」という童話をみなさんもご存じだと思います。一度聞いたら忘れられない童話です。北風と太陽、どちらが偉いか戦うことになった。コートを着た旅人がやってきた。コートを脱がせた方が勝ちにしよう。まず北風、コートを吹き飛ばそう。冷たい北風を旅人に思い切り吹きつけた。旅人はコートを飛ばされたら凍え死んでしまうと思い、コートを体に縛り付けるように両手でしっかり押さえ込んでしまった。次に太陽、旅人に向かってさんさんと輝く温かい陽を照りつけた。旅人は汗がにじんできたので、コートを脱いだ。この勝負、太陽の勝ち。

 教会はこの童話をいろいろな形で応用して話すことがあります。今日は悔い改めの視点でお話ししようと思います。北風と太陽、罪人に悔い改めさせる競争をした。北風は罪を指摘する言葉で責め立てた。罪人は自分の正しさを主張するコートや言い訳のコートで心を固くしてしまいました。太陽は罪を赦す愛で照らしました。罪人は神さまに罪を赦されたことを知り、安心して罪を認め、悔い改めました。見落としてはならない点というのは、罪の赦しが先にあることです。

 私が初めて「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです」というイエスさまの言葉を聞いたとき、はっとしました。私の罪が赦される?とても驚きました。それまで、人から自分の過ちを指摘されたら、口で謝ったとしても、心では言い訳のコートを着込んで、自分の正しさを曲げませんでした。そうやって自分を守らないと心が潰れてしまうと考えていたからです。しかし、イエスさま「父よ、彼らをお赦しください」と先に罪の赦しを執り成してくださったのです。罪が赦されるなら、もう言い訳はいりません。安心して重いコートを脱ぎました。あの時もこの時も自分でよかれと思ってやっていた、言っていた。しかし、実は何をしているのかが分かっていなかった。みこころからそれていた。素直に自分の過ちを認め、悔い改めることができました。私たちは、先に赦しがなければ、罪を認める勇気が出ないので、真の悔い改めに至りません。

 しかしながら、私たちが生きている社会は、謝罪が先で、赦しは後です。近ごろ、さまざまな謝罪会見が行われるようになりました。何かしら過ちを犯したら、まず謝罪をしなければなりません。それを聞いた人たちが、十分に謝っているか、またその後、十分に反省しているか、反省が生活に生かされているかを計って、赦しを与えるかどうかを検討します。謝罪が悪いと言っているのではありませんが、赦されないことの方が多いのではないでしょうか。

 聖書は、赦しが先なのです。私たちの社会とは逆なのです。驚きという言葉では足りません。驚愕です。十字架上の七つの言葉も、罪の赦しの執り成しから始まっています。赦しが先にあることを明らかにしています。それから謝罪とも言える悔い改めに導かれるのです。もう赦されているんだと簡単に言えるような軽いものではありません。先ほど申し上げた通り、イエスさまがいのちを捨てられたゆえの赦しです。罪の赦しはイエスさま神の御子のいのちの重みがあるのです。

 十字架の言葉を聞くということは、痛めつけられて十字架で死なれるイエスさまをかわいそうにと同情することではありません。イエスさまを十字架につけたのは私だ。私の罪がイエスさまを殺したのだと、罪を認め、悔い改めることです。しかし、自分の正しさを手放せない私たちは、先に十字架から罪の赦しをいただかないと、悔い改める勇気が出ないのです。だからイエスさまは十字架の上でいのちをかけて、罪の赦しを執り成してくださったのです。

 イエスさまの一番弟子とも言えるペテロは、罪の赦しが先にあることを、イエスさまが十字架に架かられる前に経験していました。

 先日、牧師たちと受難週について語り合っていたとき、バッハ・コレギウム・ジャパンが演奏する受難曲を聴くと主のご愛にふれることができると話題になりました。バッハ・コレギウム・ジャパンは、指揮者の鈴木雅明さんが、1990年に結成したオーケストラです。バロック時代の古楽器オーケストラと合唱隊で編成されています。ユーチューブで見つけました。曲はヨハネ受難曲。ヨハネ福音書に記されているイエスさまのご受難の歩みを辿ったものです。2020年、コロナ禍に無観客で演奏されたコンサートです。インターネットで配信するための動画ですから、画像も音声もとてもきれいなものです。動画ですが生演奏を聴いているように惹きつけられました。イエス役のソリストが、イエスさまに見えてしまいました。感動したシーンがいくつもありましたが、そのひとつは、イエスさまが裁判を受けているところでした。離れたところにいたペテロが、イエスさまを三度知らないと言ってしまった。鶏が鳴いた。イエスさまは振り返ってペテロを見つめられた。ペテロはイエスさまに「あなたは、鶏が鳴く前に、わたしを知らないと言う」と告げられた言葉を思い出した。イエスさまを愛しているのに知らないと言ってしまった自分が情けなくて悲しくて、外に出て激しく泣いた。福音書記者役のソリストが切々と「外に出て泣いた」と歌い、さらに混成合唱がもう一度「外に出て泣いた」と歌い上げました。ペテロは激しく泣いた。主イエスに見つめられたからです。主の眼差しがなかったら、主を知らないと言ってしまった言い訳をしたでしょう。しかし、イエスさまに見つめられた。イエスさまの眼差し、それは罪を赦す眼差しでした。ペテロの言い訳をする心は溶かされ、激しく悔い改め、激しく涙が流れました。イエスさまはペテロを見つめながらこう語りかけていました。「あなたの罪のためにわたしはこれから十字架につく。あなたの罪は赦される。わたしはあなたを愛している」。ペテロはイエスさまに責められて泣いたのではない。赦されて泣いたのだ。主イエスは悔い改めよりも先に赦しを受けたからでした。

 ヨハネ受難曲のもうひとつの素晴らしいなと思ったところは、ただ受難の物語を歌い上げるだけでなく、イエスさまの十字架は私のためだったという、信仰を歌っているところである。ペテロの涙に続けてこう歌っています。「イエスさま、私にも御眼差しを注いでください。私が頑なに悔い改めを拒むなら、私が罪を犯したなら、私の良心を揺り動かしてください!」。私たちが真に悔い改めるには、主イエスが赦しの眼差しが必要なのです。先に赦しの眼差しがなければ、今日のみ言葉で言えば、十字架の上から「父よ、彼らをお許しください」という言葉が先に聞こえなければ、真実の悔い改めができないのです。

主のご受難に心を向けて歩むときの祈りのひとつはこれです。イエスさま、私にも赦しの御眼差しを注いでください。私が頑なに悔い改めを拒むなら、私が罪を犯したなら、私の良心を揺り動かしてください!悔い改める勇気を与えてください。私がイエスさまを十字架につけたのだから。


 イエスさまが福音伝道を始められた時の言葉の中に悔い改めが語られています。


時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコの福音書第1章15節)


プロテスタント教会が生まれたころ、ローマカトリック教会は罪の赦しをお金で買えると説いて、免罪符あるいは贖宥状と呼ばれるものを販売していた。ルターは聖書にそんなことは書いていない。罪の赦しは悔い改めによって与えられるのだと確信していた。それでヴィッテンベルグの城教会の扉に95か条の議論のテーマを貼り出したのです。これは当時の神学論争のやり方でした。ローマカトリック教会と議論をしたいと申し出たのです。教会を改革しようとしたのではありません。聖書的に正しいかどうか神学的に議論をしたかっただけです。だから学問で使われているラテン語で書かれていました。95か条の一番目が悔い改めについてです。マルコが悔い改めよと言ったのは、イエスさまを信じるときだけでなく、イエスさまを信じて御国を目指す私たちが、生涯、日々、悔い改めに生きることを求めている。プロテスタント教会に生きている私たちは、受難週に向けてだけではなく、日々、悔い改めながら歩めるように願っています。

 私は、今日のイエスさまの第一の祈りを黙想しているなかで、はっとしたのです。マルコの悔い改めてという言葉の背後に、すでに「父よ、彼らのお赦しください」という祈りがイエスさまのうちにはあったのです。罪が赦されなければ悔い改めることができない私たちの頑固な心を知っておられるからです。しかし、私はイエスさまの十字架の執り成しから遠いところで、悔い改めているのではないか。自分の力で罪の赦しを得ようとしているのではないか。と問われたのです。その原因は、十字架の上のイエスさまの祈りをしっかり聞いていないからではないか。イエスさまが私の罪のために死へ赴こうとしておられる恐れを忘れているからではないか。だから赦されている確信が揺れることがあるのではないか。たくさんのことを問われました。ペテロもイエスさまに見つめられ赦しの眼差しによって悔い改めに導かれた。悔い改めは十字架の主を見つめて、主の執り成しの祈りに促されて、ささげるものだと改めて心に刻みました。


 今日のイエスさまの十字架の祈りを聞き続けたイエスさまの弟子のひとりを紹介しなければならないでしょう。ステパノです。ステパノは教会の最初の殉教者です。ステパノはユダヤの人びとに、神の御子を十字架で殺した罪を指摘しました。人びとは激しく怒り、町の外に追い出して石を投げつけました。ステパノはいのちの灯が消えるとき叫びました。使徒の働き第7章60節です。


そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。


「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。ステパノは自分に石を投げつけた人たちを赦して欲しいと主に祈ったのです。イエスさまの十字架の上の祈りと同じでように、主に自分の救いを求めたのではなく、彼らの赦しを執り成しました。ステパノはイエスさまの十字架の上の祈りを聞き続け、自分の祈りとして祈り続けたので、イエスさまの祈りの言葉が自分の言葉となったのです。ですから意識が遠のくようななかで祈ることができたのです。


 最後に、2000年前に、イエスさまが私たちの罪の赦しのために死なれたことを改めて心に刻んで、この説教を終えたいと思います。


しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙第5章8節)


2000年前、私たちはイエスさまにまだ出会っていませんでしたし、まして罪の赦しを求めていません。しかし、罪の中に生まれる私たちに罪の赦しが必要であることを、イエスさまは知っておられました。今も何をやっているのかが分かっていない私たちです。私たちを悔い改めへ導いて救うために、イエスさまは十字架で、今も、執り成していてくださいます。私たちの耳にイエスさまの祈りが十字架から聞こえてきます。


父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。


イエスさまのこの祈りがあるから、みこころからそれてしまっても、どんなに失敗しても、罪を犯しても、悔い改めに導かれ、罪赦されて、主とともにやり直すことができます。イエスさまは、今、私たちのために十字架の上で祈っていてくださいます。お祈りします。

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