2022年5月8日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第13章1―9節
1 ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。
2 イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。
3 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
5 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
私の仙台の実家の小さな門の脇に、さほど大きくないいちじくの木がありました。夏の終わりごろからだったでしょうか、いつの間にか実が大きくなり始めている。しかし、食べるには、しっかり大きくなって、しかも鮮やかに色づかないと美味しくない。子どもの頃、毎日のように、早く食べごろにならないか、チェックしました。十分に赤く熟して、先が少し割れ始めると、最高に甘く美味しのです。ときどき、待ちきれなくて、まだ十分に熟していない実を取って食べると、青い味がしました。失敗したな思いつつ、これはこれで美味しいと負け惜しみを言っていました。でも、やっぱり美味しいのは赤く熟して割れ始めた実でした。
聖書を読むようになって、いちじくの木は、ぶどうの木やオリーブの木に並んで、祝福を表す言葉があって、実家のいちじくを思い起こしながら、嬉しく思っていました。ときどきいちじくの木が悪者の役をさせられているときはさびしい思いがします。
今日のみ言葉のいちじくの木は、私自身に重なるたとえとして、イエスさまが用いてくださっているので、とても嬉しいと思っています。イエスさまは、第12章からたくさんのことを話してくださいましたが、いちじくの木のたとえを全体のまとめとして話しておられます。
今日のみ言葉は、章をまたぎますが、すぐ前の第12章57-59節としっかり結びついています。先週の説教のところですが、イエスさまが終わりの日の審きについて話しておられました。今の時代は、罪の裁きが行われる終わりの日に向かっている。だからその日が来る前に神と和解して罪を赦していただこう、とおっしゃいました。
イエスさまがこのように話しているところに、幾人かの人たちが来て、イエスさまにひとつの報告をしました。
ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた(1節)
このピラトは、ローマ皇帝の権威に下でユダヤを治めていた総督ポンティオ・ピラトです。総督ピラトは、使徒信条に「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、ユダヤ人たちの裁きを経たイエスさまを、最終的に十字架で処刑することを決めた人です。
このような報告でした。数人のガリラヤの人たちが、過越しの祭りのためにエルサレムに上って行った。神聖な過越しの子羊のいけにえを携えて神殿に献げようとしたとき、襲われて殺されてしまった。総督ピラトの残忍さはよく知られていました。ガリラヤの人たちの血が流され、その血が献げ物のいけにえに振りかかったのでしょう。とっても大事で神聖ないけにえを汚したのです。この事件の報告がエルサレムから地元のガリラヤに届いたのです。ガリラヤの人たちは、大切な神礼拝の場で殺害し献げ物を汚すとは、何という冒涜だ、神の民にとって最大の屈辱だ、と地団太踏んで悔しがりました。しかし同時に、因果応報として捉えてもいました。どういうことかというと、神殿でこんな災難に遭うということは、殺された人たちが神さまに対して何か大きな罪を犯していたからではないか。神の怒りによって罰せられたのだと考えてたのです。
私の子どものころ、よく「親の因果が子に報い」という言葉が聞こえてきました。子どもの立場から言うと、なかなか上手くいかない、失敗ばっかりしているというとき、自分の努力が足らないのではなく、親が何かしら悪いことをやった罰が、自分に降りかかっているんだ。何をしても上手くいくはずがないと否定的に考えることです。この言葉をテレビの中で浪花節のようなに唸っていた人がいたような気がします。近頃、それに類するような言葉を聞いて驚きました。「親ガチャ」という言葉です。これも子どもの立場からいうと、自分の生まれもった容姿や能力や家庭環境は親によるもので、それによって人生が大きく左右されると考えて、「生まれてくる子どもは親を選べない」という意味になるようです。「親ガチャ」は親に限定されますが、何かの原因が、現状に影響して、悪い結果になっている、因果応報という考えが、時代を超えて、人間に根づいているんだなと思います。
聖書の時代にも、ヨハネの福音書第9章を読むと、因果応報という考えがあったことが分かります。目の不自由な人がいた。弟子たちがイエスさまに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」。まさに因果応報です。それに対してイエスさまはこう答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」。イエスさまの福音は、私たちの頭の中から因果応報を根こそぎ引き抜いてくださいます。因果応報に縛られ、否定的な考えに支配されたり、諦めていた人たちを解放しました。ただし、この世は因果応報がいまだに根付いていますし、私たちのうちにも因果応報のくせが残っていますから、気をつけないと、因果応報の罠にかかってしまうことがあります。その点からも今日のみ言葉を注意深く読みたいと思っています。
ガリラヤの人たちは、神殿で災害にあった人たちは、何かしら罪を犯していたので、ピラトに殺されるという災難が降りかかったのだという因果応報の考えに縛られていました。イエスさまは、そのことをご存じでしたので、こう答えられました。2節3節です。
イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
イエスさまは、ここでも、因果応報をきっぱり否定なさいました。罪深かったから、そのような災難に遭ったのでは、決してない。
さらに因果応報がないことを理解してもらうために、イエスさまは、ガリラヤに住んでいる人たちもよく知っていた、エルサレムで起きた事件について話されました。
エルサレムの城内にあるシロアムの池のところに立っている塔が倒れて、エルサレムの住民18人が下敷きになって亡くなった事件です。シロアムの池は、城内のとても大事な水源です。特に戦争になったら城内の貴重な水源なのです。ですから倒れた塔は池を守るために建てられた塔かもしれません。建設中だったのでしょうか、大きな地震があったのでしょうか、何かの理由で倒れてしまい、18人のユダヤ人が下敷きになって亡くなったのです。
この事件を聞いたガリラヤの人たちは、これも因果応報で捉えていました。この18人は大きな罪を犯していたので、神の怒りによって罰せられ、災難に遇ったのだ。
ピラトに殺されたのは、明らかに人災でしょう。そして、塔が地震などで倒れたなら自然災害になるでしょう。どちらも、私たちの回りで起きている災難あるいは災害と重なるので、身近な問題です。
ウクライナの厳しい状況は私たちの心を痛めるばかりです。ここでは、報道やコメンテーターの言葉を繰り返すことはしないで、違う視点から考えてみたいと思います。
先日、第二次世界大戦、敗戦間際に行われた特攻隊についての特集がありました。幸い生き残った方が丁寧な取材をしていたのです。特攻機は爆弾を積んで敵艦に体当たりするものです。一度飛び立ったら故障以外は帰って来ることはできません。帰ってくるための燃料も車輪もありません。生き残ったひとりの裏千家の15代の家元・千玄室さんがインタビューを受けていました。上官から特攻に志願するかどうか問われた。紙に「熱望・希望・否」とだけ書かれていて、〇をつけろと言われたのです。戦時下の空気感の中で「否」と答えることはできない。当然のように千さんが属していた隊は、全員、特攻志願として扱われた。そして、千さんは、特攻機が体当たりするとき、地上の基地の様子を教えてくれました。特攻機が敵艦に突っ込むために降下し始めるとき、モールス信号のような通信機を押し続けることになっている。「ツー」という音が鳴り続ける。その音が切れると、電信兵が「だれそれの特攻機、突っ込みました」と報告するのだそうだ。尊いひとりの若いいのちが沖縄の海に散った瞬間です。特集を見ていた私も悲しみと虚しさで唇を噛んでしまいました。
また特攻機で飛び立つ前に、家族に書いた手紙がいくつか紹介されました。みなが国と死との間で葛藤していました。国家には失望しているが、これからの日本と若い人たちのために死ぬんだ。納得したつもりでも、なぜ死ななければならないのか、苦しみ続けていました。国の権威は、人のいのちを殺すことができる権威であることを忘れてはならないのです。ピラトの権威で殺されたガリラヤ人たちと同じです。二度とこのような悲劇を繰り返してはなりません。今、ロシアの兵士たちも国の権威で訓練と言われて戦場に送り込まれているのです。ロシアを非難する前に、私たちは日本が過去の戦争で犯した罪を悔い改めなければならないのではないでしょうか。
そして、ウクライナの人びとに降りかかった災難に寄り添い、詩篇の嘆きの言葉に教えられて、神さまに訴えましょう。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。どうして、こんな理不尽なことに耐えなければならないのか。どうして、愛する家族が死んでいかなければならないのですか。
311東日本大震災のとき、あちらこちらから神の怒りによって罰せられたという因果応報による声が聞こえてきました。しかし、震災後、まもなくボランティアに行った者としては、まったくそう思えませんでした。震災遺構にもなった南三陸町の災害防災庁舎を訪ねました。ロープや浮きなどが絡みついた悲惨な赤くむき出しの鉄骨を見上げたとき、イエスさまの十字架の上で死の津波にのみ込まれた無惨なお姿が見えてきました。そして、悲しみの鉄骨の下で仲間たちと祈ったとき、亡くなった方は神さまに委ねて、今、生きている者が希望を持って生きることができるように祈ることを求められていると受け取りました。
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(3節、5節)
「そんなことはありません」。エスさまは、きっぱり、因果応報を否定なさいました。3節と5節はまったく同じ言葉で語られています。また「わたしはあなたがたに言います」という言葉使いも、イエスさまが大切なことを話されるときに用いられる言葉です。3節5節と繰り返されたことは、イエスさまがとても強くアッピールしているのです。
イエスさまは、「そんなことはありません」という言葉でふたつのことを否定されました。ひとつは、神さまの前には人はみな罪びとであり、亡くなった人たちだけが、他の人よりも罪深かったのではないこと。もうひとつは、亡くなった方は、因果応報によって審かれ滅んだんだと考えることを否定なさいました。死の向こうは、神さまの手のうちにあり、人の考えで決めることも、知ることもできないところです。だから亡くなった方は神さまの御手に委ねること。今、この地に生かされている人たちも、いつか死ぬときかが来るのだから、それらの事件によって死と向き合って、それまでどう生きるかということが問われているのだ、とおっしゃったのです。
悔い改めないなら滅びます。イエスさまがおっしゃる滅びは、神さまから遠く離されることです。みなさんの中に、あれっ、これも因果応報ではないのかなと思った方もおられるかもしれません。悔い改めないことが原因となって、結果として滅びる。
イエスさまはそのように思われてしまうことをご存じで、悔い改めがどういうものかを、先週の第12章58節59節に重ねるようにして、ブドウ園のたとえで教えてくださいました。6節と7節。
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
ブドウ園は、旧約聖書、特にイザヤ書などを読むと明らかなのですが、ぶどう園、あるいはぶどう畑やぶどうの木は、ユダヤの民、信仰の民をたとえています。神さまは、ぶどうの木がよい実を豊かに実らせることができるように植えられた。そのように信仰の民を、ユダヤの地に住まわせてたのだと言われているのです。ここもぶどう園のたとえです。でも、このぶどう園のたとえで興味深いのは、みなさん気づかれましたか、ぶどう園にいちじくの木が植えられているんです。もとのギリシャ語を調べてみると、このいちじくの木は単数で書かれています。ぶどう畑にいちじくの木が1本だけ立っているのです。周りのぶどうの木は実をたわわに実らせている。でもいちじくの木は実を実らすことができていない。そこに神さまにたとえられているぶどう園の主人が来ました。
ぶどう園の番人、これはイエスさまがたとえられています。ぶどう園の主人としては、いちじくの木を植えて、実をつけるのを3年も待ったのですから、「切り倒してしまいなさい」と、番人に命令したのは当然のことです。たとえの意味から言うと、いちじくの木は審かれたのです。
ぶどう園の主人が神さま、番人がイエスさまだとすると、いちじくの木は誰でしょうか。私です。このみ言葉を聴いているあなたです。いちじくの木が周りのぶどうの木を見て、みんなすごいな、豊かな実を結んでいる。それにひきかえ実りのない私はどうしようもないな。審かれて切り倒されてもいたしかたがないよな。確かに土地を無駄にしているだけだ。でも切り倒されるのはつらい。いや、切り倒さないで!
すると番人はこう懇願しました。8節9節
番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
「そのままにしておいてください」は、「赦してください」という意味の言葉です。
番人の言葉を聞いていたいちじくの木はびっくりしました。ご主人の言うことに素直に従っていなければならない番人が、ぼくをご主人に「実のならないことを赦してくれるように」執り成してくれたんです。いちじくの木を審くのを待ってください!と番人がご主人にお願いしてくれたのです。喜びがわいてきました。しかも番人は木の周り掘って、肥料をやることを約束してくれたのです。いちじくの木のために最善のお世話をすると申し出てくれたのです。番人は、自分が精一杯お世話すれば、いちじくの木は実を結ぶと確信しているのです。
いちじくの木は私たちだと言いました。番人は木の回りを掘って肥料をやる。イエスさまは、私たちが悔い改めの実を結ぶために、私たちに最善を尽くしてくださるのです。私たちが審かれて滅びないように、神の御子が私たちに仕えてくださるのです。悔い改めができるように、み言葉を聴かせ、成長できるように御霊を注いでくださるのです。それだけでも、私たちには十分だと言えるかもしれませんが、それだけでとどまりません。この番人は私たちの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるのです。いちじくの木も十字架のイエスさまを知ったらなら、悔い改めの実を結ぶことができるのです。
ピラトに殺された人たちは「罪深い」からだと疑われましたが、シロアムの塔で亡くなった人たちは「罪の負債」という言葉になっています。この言葉によって、先週の第12章58節59節の借金は罪の負債であることが明らかになります。58節59節のたとえでは、私たちは訴える人といっしょに終わりの日の審きの座まで歩いていました。イエスさまは最後の審きを受ける前に神さまと和解するように勧めてくださいました。ここも同じです。1年の猶予があるのです。これは終わり日までということでしょう。終わりの日まで、悔い改めの実を結ぶ生き方ができるように、イエスさまが私たちに仕えてくださるのです。これが因果応報と言えるでしょうか。因果応報なら、個人の責任が問われるのですから、神さまもイエスさまも裁判官のように高いところで眺めていればいいのです。イエスさまは、悔い改めないと滅びますと言われましたが、イエスさまは私たちが悔い改めて救われるように、最後の最後まで、いのちを捨ててまで仕えてくださっていました。
ですから、先週の説教で、悔い改めについてこうお話をしました。「気をつけたいのは『悔い改め』は罪が赦されるための条件ではありません。私のために十字架で死んでくださったイエスさまの愛を知った者が、その愛の大きさゆえに身を低くさせられ頭を垂れて、神さまからの恵みの賜物として、罪の赦しを受け取る姿勢が、悔い改めです。もう一度繰り返すようですが、十字架の下に引き寄せられて、イエスさまの愛のお姿に心打たれ心砕かれて、罪を言い表すのが悔い改めです。十字架から注がれている罪の赦しの血潮のなかで悔い改めるのです」
いちじくの木はこんなに愛されているのですから、ぶどうの木と比べる必要はないのです。ぶどうの木の優れた姿を見て、落ち込んだり、いじけたりしなくていいのです。いちじくの木はいちじくの木として、イエスさまの愛を受けて、いちじくの木らしく一所懸命に生きればいいのです。旧約聖書には、いちじくの木もぶどうの木と同じように、神さまの祝福を表すものとして記されているのです。
このたとえ話には結論は記されていませんが、ご主人は、待ってくださいました。いちじくの木が悔い改めの実を結ぶのを待たれました。人の因果応報で考えるような神さまだったらすぐに切り倒すでしょう。しかし、神さまは待っておられます。待つ神さまです。その間にイエスさまが周りを掘って肥料をくださるです。いのちの血潮を惜しみなく注いでくださるのです。悔い改めは、神さまのもとに帰ることです。一日のうちでも、何度も、神さまから迷い出てしまう私たちです。終わりの日まで、私たちは、日々、イエスさまに支えられながら、悔い改めて、神さまのもとに帰り続けるのです。日々、悔い改めの実をむすんで生きるのです。イエスさまは今日も私たちを執り成していてくださいます。
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