2022年7月10日 礼拝説教 後藤弘牧師
11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
新約聖書に収められている愛の手紙をたくさん書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って、みなさまの祝福のためにお祈りをささげてから、説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節のお祈りです。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
私たちの教会のホームページをご覧になったことがあるでしょうか。まだまだ開発中ですが、今年から、毎週の礼拝説教を載せるようにしています。また、毎朝、みなさんにメイルで送っている、日々の聖句、ローズンゲンと祈りをアップするようにしています。なかなか忙しい時代ですので、インターネットでホームページを開いても、文章を読む前に、ちらっと見て、次のページへ移ってしまう人が多いと言われています。そこで、すぐに目につくように、ひとつの絵画を載せています。レンブラントという17世紀を生きたオランダの画家が、今日のみ言葉を描いたものです。レンブラントの絵は多くのキリスト者にこよなく愛されています。レンブラントの聖画を集めて『レンブラントの聖書』という画集もあるくらいです。レンブラントの絵で、この教会の特色、また神さまの救いを、見るだけで、少しでも伝えたいと思っているからです。この絵は、弟息子が家に帰ってきたところを描いたものです。ぼろぼろになった弟息子が父親の足元に跪いています。柔和な顔をした父親が、弟息子の肩のところに両手を置いていて抱き留めています。レンブラントはこの絵に『放蕩息子の帰郷』とタイトルをつけています。神さまのところに帰って来た私たちの物語です。
私はこのイエスさまの譬え話を、何度も説教してきましたし、いろいろな説教も聞きましたし、注解書も読みました。今回、この説教を準備しながら、率直な感想を言いますと、イエスさまがおっしゃろうとしていることが、自分は十分に分かっているだろうかと問われました。この譬えの説明はできるけれども、読み方が浅かったと言わざるを得ないと思いました。弟息子が父の御腕に抱かれていることを、外から眺めて説明はできるけれども、イエスさまは、私自身が弟息子になって、父に抱いていただくように、招いておられるのではないか。また、神さまの愛に抱かれる経験をしてはいるけれども、神さまの腕から迷い出ていることが多いのではないか。今回、説教しながら、私自身が、神さまに御腕に抱きとめられて、罪を赦され、新しくされるところに立たせていただきたいと願わされました。ご一緒に弟息子の歩みをたどってみたいと思います。
11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
弟息子は、生前贈与を、お父さんに要求しました。この当時の生前贈与について、いろいろな説明を読みました。父親が亡くなって子どもたちに財産を贈与するとき、弟は兄よりも少ないこと。もし生前に分けてもらうこともあったようですけれども、処分する権利は父親にあることなどです。イエスさまは、当時の生前贈与についても知っておられましたが、2000年後にこのたとえ話を読む私たちにもよく分かるようにあまり細かいことはお話になりませんでした。それよりも大事なことは、淡々と語られていることです。いろいろなものを読むと、弟息子は何度も執拗に父親に頼んだというものもありますが、ここは、父親があっさりと財産を分けてやったように読めるのではないでしょうか。
この物語は譬え話です。このお父さんは父なる神さまを指しています。お父さんがすんなり生前贈与を認めたということは、天の神さまは、私たちに自分で選ぶ自由な意志を大切にしておられるのです。神さまは、私たちが神さまのもとを出てしまうなら、つらい厳しい道を歩まなければならないことを知っておられるのですが、心痛めながら耐えてくださるお方なのです。聖書にはたくさんの戒めがあるので、私たちをぎゅうぎゅう縛り付けるイメージがあるかもしれませんが、そうではないのです。私たちが神さまに喜ばれる道を自らの意志で選び取ることを待っておられるのです。
そして、もっと大切なことは、弟息子が、生前贈与を求めたということは、お父さんに対して、早く死んでほしいと言ったも同然なのです。なんということでしょう。弟息子は気づいていませんが、戻ってきたときに抱き止められて、味わった父の大きな愛は、すでにここにあったのです。弟息子は、その愛に気づかなかったばかりか、その愛の絆を断ち切ったのです。もうあなたとは関係ない。自分の力で、自分の思うようにやっていく。その言葉に、父親がどんなに傷ついたか、どれほど悲しんだか、気づいてはいません。
人は、神さまの愛のなかに生きることができるように、神さまの似姿に造っていただきました。そして、神さまは人をご覧になって、「非常に良かった」、ルカ福音書第3章22節の言葉で言えば「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」とおっしゃいました。しかし、最初の人が、神さまの言葉を無視して、罪に堕ちて、御国から出なければならなくなって以来、すべての人は、神のもとを離れてしまっていたのです。弟息子が家を出たように、私たちも父の家から出てしまっていました。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
弟息子は、もらった財産をすぐさまお金に換えて、遠い国に旅に出ました。イエスさまは弟息子が「家を出てしまった」ではなく、旅立ったと言われました。旅なんです。旅はどんなに時間がかかろうと、どんなに遠くに行こうと、家に帰ってくるものです。旅立ったという言葉で、お父さんは弟息子が早く帰って来ることを願っていることを表しています。
行先は「遠い国」。ユダヤに生まれたイエスさまが、この譬えをユダヤ人の代表のようなパリサイ人たちや律法学者に語っています。この「遠い国」は、ユダヤの向こうの異邦人の国、つまり、神を信じていない国、神を神としない国です。私たちの日本も、その視点から言えば、遠い国に違いはありません。
先週、この日本も、神を神としない遠い国であることをつくづく思わされました。私の故郷の仙台の出身中学の女の子ふたりが、朝、通学途中で、追い回されて刺された事件がありました。私が中学生のころは、いろいろな細かいことはありましが、こんな恐ろしい事件が起きるようなところではありませんでした。痛かったでしょう、恐ろしかったでしょう、体と心が癒されるよう祈りました。
そして、金曜日です。昼ご飯を食べようかなと思っていたところに、安部元首相が銃弾で撃たれたというニュースが飛び込んできました。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんのコメントがいち早く報じられていました。このような記事でした。
横田早紀江さんは、安倍元首相の訃報に接し、ショックが大きく、対面での取材は受けられないということで、報道陣にコメントを寄せました。「あまりにも恐ろしいことが起きて、非常に悲しくてどうしようもなく、打ちのめされています。安倍さんは拉致問題を解決したいと 長い間言い続け、アメリカをはじめとする各国に対しても協力を得ようと頑張ってくださっていた。亡くなられたのは、非常に残念だ。このような世の中になり、本当に嫌になってきます。」と悲しみをあらわにしました。私たちの思いを言い表しているコメントだと思いました。
ほんとうに嫌になってしまうような、心痛めるような悲しい出来事が続く中で、昨日の日々のみ言葉ローズゲンは、旧約聖書がイザヤ書第48章21節でした。
主が荒れ果てた地を通らされたときも、彼らは渇くことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させられた。
このみ言葉の通り、今、私たちは「荒れ果てた地」を、御国を目指して旅をしています。「荒れ果てた地」ですが、私たちは渇き切ってしまうことはありません。水が与えられるんです。新約聖書のみ言葉がそのいのちの水の源を示していました。ヨハネの福音書第7章37節。
イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」
私たちは、心痛めて、飢え渇いて、嫌になってしまうような「荒れ果てた地」「遠い国」に生きているけれども、イエスさまが、み言葉によっていのちの水を飲ませてくださる。私たちは歩み続けることができるんだ、そう思いました。
「遠い国」は、見た目には繫栄しています。きらびやかな町です。楽しみがいっぱいあります。このような町は、霊的には「荒れ果てた地」です。神を神としないように、人を神さまから引き離す力に満ちています。弟息子は、後に、天に対して罪を犯したと悔い改めていますから、お父さんが信じている神さまも捨てて来たのです。ですから、簡単に罪の誘惑に翻弄されてしまいました。弟息子は、放蕩して、お金を湯水のように使い、すべてを使い果たしてしまいました。
これは他人ごとではありません。私たちの「荒れ果てた地」は、神さま以外に信頼するように誘惑する力に満ちています。近年は、情報でしょうか。いとも簡単にいろいろな情報が手に入ります。便利になった反面、情報を手に入れることで安心してしまったり、振り回されたりして、神さまから引き離されているのです。
遠い国で放蕩して生きるということは、荒れ果てた地で、父なる神さまがくださるいのちの水を拒否して、心痛めて、嫌になって、飢え渇いて、傷だらけになって生きることです。救いも癒しもないのです。
また、神さまを信じている私たちも、神さまの御腕の中で、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という御声を聞いていないと、さまざまな世の声に惑わされてしまいます。「自分の力でがんばって生きるんだ」「強くならなければ生きていけない」「自分の価値を高めなさい」「人の評価を得るんだ」「最も大事なのは健康とお金だ」。神さまの腕の中にいないと、このような声に振り回されて、人と比較しながら、いただいている賜物を使い果たして、疲れ果てて倒れてしまうのです。
さらに弟息子は飢饉に襲われました。持ってきた財産で、いっしょに遊んだ仲間は、お金が無くなると、引き潮のように去っていきました。飢饉になっても助けてくれる友はまったくいません。やっと豚の世話をすることができました。しかし、ユダヤ人にとって豚は汚れた動物ですから、ユダヤ人としての誇りを捨てなければなりませんでした。空腹で、空腹で、豚のえさのイナゴ豆さえ食べたくなりました。汚れた豚同然、いや、豚以下に落ちてしまったのです。しかも、いなご豆さえ与えてくれる人もいませんでした。孤独であることを突き付けられ、すべてを失ったことを思い知らされました。
この弟息子の姿にイエスさまが語られた山上の説教のみ言葉が響いてきます。マタイの福音書第5章3節です。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
弟息子は、意気揚々と家を出てきたのですが、惨めさと孤独に心打ち砕かれ、自分の貧しさをとことん思い知らされました。しかし、イエスさまは、それが幸いなんだ、天の御国に入ることができる入り口だとおっしゃった。その通りに、弟息子は我に返ることができました。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
「我に返った」。すべてを失って、死をも覚悟しなければならないようなところまできて、やっと、自分が何者であるかが分かったのです。自分に残されているたったひとつのことに気づいたのです。私はお父さんの子どもだ。捨てたと思ったはずの父を思い出したのです。
「我に返った」ところから、悔い改めが始まりました。悔い改めは、方向転換です。神に背を向けていた自分を、神さまに向けて方向を変えることです。ただし私たちは、我に帰るために、弟息子のように、実際に家を出て、放蕩して、豚の世話をしなくてもいいのです。イエスさまは、この譬えのみ言葉をしっかり黙想して、ああ、自分は弟息子だと思ってお父さんのもとに帰ればいいんだよ、とおっしゃっています。
弟息子は、家に帰ったら、お父さんに何と言おうか考えました。
18「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」
これは方向転換をして、父のもとに帰ろうという悔い改めの言葉ですが、まだ父の愛の中に飛び込んでいませんので、言い方が難しいのですが、悔い改めの途上の言葉なのです。ですから、天にも父にも罪を認めましたが、息子と呼ばれる資格はありません、と言っています。弟息子は、財産をむしり取り、家を出てしまったのだから、息子と呼ばれる資格はないと思うのは、人間的には当然のことです。しかし、弟息子は、まだお父さんを厳しいお父さんとしか理解していません。帰ったら、きっと、叱られると思っていたのです。自分が死なないですむように、必死に、受け入れてもらおうと思っているのです。ここではまだ神の愛の大きさに出会っていないのです、知らないのです。お父さんは、弟息子を息子として待っています。まして、雇い人にしようなどとは考えていません。
翻って、私たちは、父なる神さまのことを誤解していないでしょうか。神さまの厳しい基準には達することができないから、神さまの子どもの資格はないんだ。自分を神の子どもにふさわしくないと、自分を責めていないでしょうか。受け入れてもらうには足りない者だと思っていないでしょうか。もしそうならば、神さまを知っていても、弟息子と同じように、まだ、悔い改めの途上にいるのではないでしょうか。
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
弟息子は、立ち上がって、父のもとに向かって、空腹の体を引きずるようにして急ぎました。家までは遠かったのです。考えた悔い改めの言葉を吟味し繰り返し練習しました。あなたの子どもにはふさわしくないから、奴隷としてあなたの家に置いてください。
やっと父の家が見えるか見えないかというところまできました。弟息子は、自分の考えていたことが的外れであったことを体ごと知りました。お父さんの方が先に自分を見つけてくれたのです。ああ、お父さんは、家出したときから帰ってくるのを待っていたんだ。お父さんが駆け寄ってきました。当時の権威ある父親は、自ら息子に駆け寄ることはあり得ません。びっくりしていたら、有無を言わさず、抱きしめられました。お父さんは息子をそのまま受け入れ抱きしめたのです。お父さんの腕の中で、お父さんの大きな愛に出会いました。心の底に聞こえ始めました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。そして口づけされました。口づけは赦しを表しています。ああ、赦されている。
慌てて、練習してきた悔い改めの言葉を言いかけました。お父さんは聞こうともしません、「雇い人の一人にしてください」と言うのを遮りました。すぐにしもべに言いつけました。
ボロボロの服だった弟息子に、一番良い着物を着せました。家の権威を表す印鑑になっている指輪をはめさせました。奴隷は履くことができない履き物を履かせました。それだけではありません、祝い事のために大事に育ててきた子牛を屠って、祝宴を開きました。すべて息子として迎える証しでした。
弟息子は、父親のもてなしに戸惑いながら、抱きしめられたときでしょうか、口づけされたときでしょうか、祝宴でご馳走を食べながらでしょうか、お父さんの大きな愛を体いっぱい受けていることを知ったのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という御声がはっきり聞こえてきたんです。そのとき悔い改めが完成したと言っていいのかもしれません、ほんとうの悔い改めができたのです。お父さん、ごめんなさい、あなたの愛を知らずに、あなたのもとから出てしまいました。赦しください。あなたの愛をありがとうございます。これからはあなたといっしょに生きて行きます。
この譬えを語っておられるのはイエスさまです。イエスさまは、この譬えを語られたとき、すでにゴルゴタの丘に立てられる十字架を目指しておられました。神に造られたすべての子どもたちのために、子どもの資格を回復するために、私たちのすべての罪を負って十字架で死ぬことを決めておられたのです。十字架の死を心に秘めながら、この譬えを語ってくださったのです。この方が、私たちを背負って父の腕のなかに運んでくださっているんです。私たちに御父の御声を聞かせてくださっているんです。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。
分かるでしょうか。私たちは、今、父の腕の中にいます。真実の悔い改めに導かれているのです。罪を赦され、心も体も癒され、神さまの愛に抱かれています。私たちを新しくして、神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛することができるようにしてくださっています。さあ、ここから、「荒れ果てた地」に向かって、新しい一歩を踏み出しましょう。「荒れ果てた地」にあっても、神の愛の御腕は、主の十字架によって、いつも私たちと共にあります。お祈りします。
父なる神さま、私たちは、イエスさまが語られた弟息子です。あなたはイエスさまの十字架の愛によって、私たちを、はっとわれに返えるように息を吹きかけ、悔い改めの道を伴い、あなたの御腕の中に運んでくださいました。私たちは「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という御声を聴かせていただきました。この御声が聞こえなければ、私たちのうちに怒りや憎しみやねたみがどんどん湧き出てきます。どうか、あなたと自分と隣人を愛して、この荒れ果てた地を歩み続けることができるように、イエスさまの十字架によって、いつも父の御腕の中にとどまり続けることができるように助けてください。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン
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