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「南風 聖書に見つけ 時を知る」

2022年5月1日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第12章54-59節


54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。

55 また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。

56 偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。

57 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。

58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。

59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」


 個人的なことから始めることをお赦しください。私の青い苦い思い出ですが、そのころの時代の流れに乗って、既定路線から外れ大学に行くことを止めました。勉強したくない言い訳だったかもしれません。その私が、42歳になる年に、神学校ではありますが、大学の名がついている東京基督教大学に入学しました。神さまの導きでなければ、こんな不思議なことは起きないなと思いました。入学式のとき、さぁ、これから聖書の学びをいっぱいするぞ、と喜びに胸を膨らませていました。聖書概論という科目だったと思いますが、最初の授業は、イエスさまが歩かれたユダヤの地、パレスチナの地形について調べることでした。えっ、地形?聖書のみ言葉について学べると思っていたので、肩透かしを食らったような気がしました。しかし、面白かった。パレスチナは、肥沃な三日月地帯の一部であること、地域によって気候が大きく異なること、古代から文化・商業・交通の要衝だったこと、それゆえ侵略戦争が多かったこと、だからこそイエスさまがパレスチナにお生まれになったこと、そして死海は海抜マイナス422m。後々、このような地形の学びは、み言葉の背景や歴史に深く関わっていたことを知りました。やっぱり基礎の学びは大事なんだと思ったことを覚えています。


 今日のみ言葉も、パレスチナの地形を頭の中に思い浮かべることができると、とても分かりやすいのです。パレスチナの西には地中海があります。西から来る雲は地中海の水分をたくさん含んでいるので「にわか雨になる」のです。また、パレスチナの南は、ネゲブの砂漠が広がっていて、南からの風は時には熱風になります。ひとつの資料には、熱風が吹いてくると1時間で気温が30度上昇することもあるという信じられないような報告もありました。

 このような砂漠からの熱風はみ言葉の背景にもなっています。たとえばイザヤ書第40章6b-8節です。


6「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。

7 主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。

8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」


ここには神さまと自然現象が入り混じっていますが、「主の息吹」は、砂漠からの熱風をたとえています。ユダヤの人たちが朝早く起きる。見ると、庭や道端の草花はとても瑞々しく生き生きとしる。しかし、陽が高くなってきて砂漠からの熱風が吹いてくると、たちまち「草はしおれ」でしまう。このような草花の経験から、人の輝くような人生も、思いもよらないような困難に襲われると、むなしく打ちのめされてしまう。しかし、神の言葉はどんな災難に襲われても、決してしおれることなく永遠に立っている、というみ言葉が生まれたのです。

 パレスチナの人たちは、そのような熱風を経験しているので、誰でも、南風が吹くと「暑くなる」ことを予想できたのです。


 イエスさまは、このように天候の変化の予兆を見出すことができるなら、今の時代がどんな時代なのかを見分けることができるはずでしょ、と言われました。どういうことかというと、日々、空を見上げれば、いろいろな雲が現れては消えるけれども、西から来る雲は、雨が降るしるしとして見分けることができる。見分けたなら、その結果として、何をすべきか分かるのです。たとえば干していた洗濯物を取り入れるのです。風は、日によって、いろいろな方向から吹いて来るけれども、南風が吹いてきたら、今日は暑くなるしるしとして見分けることができます。見分けた結果として、やるべきことが分かるのです。たとえば農家の人なら作物にたくさん水をやるでしょう。さまざまな雲と風から、西の雲や南風を見分けることができると、なすべきことが分かるのです。

 そしてイエスさまは、こう問うておられるのです。天気の予兆を見分かることができるなら、今の時代、いろいろな出来事が起きるけれども、そのなかから神さまが働いておられるしるしを見分けることができるでしょ。その結果、自分たちは何をすべきなのかが分かるはずなのに、何もしていないのはどうしたことですか。


 イエスさまは、このことを、今、弟子たちだけではなく、群衆に向かって話しておられるのです。第12章は、イエスさまがたくさんのことを教えてくださっています。真ん中にイエスさま、その周りに弟子たち、そして弟子たちを囲むようにして群衆がいます。群衆ですから、何百人、あるいは何千人いたかもしれません。イエスさまは、ひとりひとりの目を見つめながら話しておられます。そして、群衆の向こうに、今、聖書を読んでいる私たちをも見ておられます。

 イエスさまは、改めて語りかけるように、弟子たちに群衆に、そして私たちに呼びかけました。「偽善者たちよ」。私たちにです、私たちを「偽善者」と呼んでおられる。厳しく叱責する呼び名です。

 私たちは、マタイの福音書を読んでいますから、イエスさまは、律法学者やパリサイ人たちに向かって「偽善」に気をつけるようにおっしゃったことを知っています。だから偽善者は彼らのことで、自分たちのことではないと思い込んでいます。

 この「偽善」は、当時、俳優が舞台で演じる時、その役柄の仮面をつけました。仮面は演技をするためにつける表面的なもので、俳優の人間的な内実とは違います。律法学者やパリサイ人たちの中には、人に良く思われたくて、人に評価して欲しくて、善人の仮面かぶったかのように信仰深さを演じていた人が多かったのです。そのような仮面はその人の人間的な内実とは違うので、イエスさまに偽善だと指摘されたのです。

 ここでは、天気を見分けることができるのに、もっと大切な今の時代を見分けることができていない。言い換えるなら、天気を見分ける知恵を持っているが、神さまの働きを見分ける知恵を持っていない。天気の知恵によってすべきことをしているけれども、神の知恵によってすべきことを何もしていない。イエスさまは「偽善」と指摘なさったのです。神の知恵を悟って生きることを求めておられるのです。私たちを「偽善者」と呼んでおられるのです。非常に厳しい呼び名です。


 では、私たちは何を見分けることができず、その結果、どんななすべきことをしていないのでしょうか。イエスさまは、56節のお言葉を57節で、こう言い換えました。


あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。


こういうことでしょう。あなたがたは、天気に関しては、雲や風を正しく判断して、雨や暑さ対策をするでしょう。それなのに、今の時代に隠されている神さまのしるしを正しく判断して、すべきことをしていないのは、どうしてですか。


 それでは、今の時代はどういう時代なのでしょうか。イエスさまは、58節59節で、今の時代についてたとえを話してくださいました。


58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。

59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」


このたとえはいろいろな理解をすることができます。この中に裁判官や牢が登場しますので、終わりの日の裁きに重ねて理解することができます。そうすると、今の時代、あなたにとって、あなたを訴える人といっしょに、裁判官のところに向かって、歩いている時代だと言っておられることが分かります。裁判官のところに行く途中で、訴える人と和解できないと、裁判にかけられ、牢に投げ込まれしまうことになる、とおっしゃっています。

 「その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き」とありますが、「ひっぱって行く」は「力ずくでひっぱって行く」と訳している聖書があるように、抵抗は許されない強い力で連れて行かれるのです。逃れることはできません。必ず、裁きの座に立たされるのです。

このたとえをさらに解く鍵の言葉は、「訴える人」と「最後の一レプタ」という言葉です。まず「一レプタ」ですが、これはお金の最小単位です。私たちで言えば5円硬貨、あるいは1円硬貨です。この「一レプタ」から分かることは、どんなことで訴えられているかです。訴えている人はあなたにお金を貸している、あなたは訴えている人に借金がある、借金を返済するように訴えられているのです。

 これを聞いていた人たちは、驚いたでしょう。イエスさまが一人ひとりの顔を見つめながら、あなたには私に返さなければならない借金があるとおっしゃったからです。聞きいていた人たちは、そして私たちも、すぐにこう答えようとすることでしょう。「私にはあなたに返さなければならない借金はありません」。

 しかし、聖書に親しんでいる方は、他のみ言葉を重ねて思い巡らせるなら、借金がどういう意味なのかが分かったのではないでしょうか。このようなみ言葉において、借金は神さまに対する罪を意味しています。神さまに赦していただかなければならない罪です。「最後の一レプタを支払うまで」ということは、どんなささいな罪だと思っていても、神さまに赦していただかなければならないということです。そうしなければ牢に投げ込まれ、そこから出られなくなるのです。

 当時、実際に借金を返済できなくて牢に入れられた者は、たとえ牢の中で働いて報酬を得たとしても、その報酬で返すことはできませんでした。自分の財産を処分して返さなければ、牢から出ることはできませんでした。そのような財産があるなら、牢に入れられる前に処分していたでしょう。つまり、一レプタの罪を赦していただくために、よいことを働いたとしても、高価なささげものをしたとしても、裁きから免れることも牢から出ることもできません。

 ですから、そうなる前に、裁判、裁きを受ける前に、訴える人と和解するように勧められているのです。

 このように考えてくると、訴える人が明確になったと思います。たとえなので、ちょっと不思議な気もしますが、この訴える人は、神さまです。イエスさまは、神さまと和解をして罪の赦しを受けておかないと、終わりの日の裁きで、牢に投げ込まれてしまいますと警告しておられるのです。この警告を無視することは誰もできません。ローマ人への手紙第3章23節は、聖書を読み始める人に暗唱聖句するように勧めるみ言葉でもありますが、とても大切なみ言葉です。


すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、


この世界に、誰ひとり「私は罪を犯していません」と言える人はいませんよ。神さまが喜ばれない汚れた思いや人を傷つける言葉があるでしょう。それだけではなく、神さまをどこかに放っておいて、自分の思いを優先にして生きているでしょ。それが罪の姿なんです。

 イエスさまはこのたとえを厳しい言葉で閉じています。1レプタも欠けることなく、借金の全額を支払うまで、牢から出てくることはできない。これぐらいは赦されるだろうと思っているささいな罪も、しっかり神さまから赦していただいていないと、牢から釈放してもらえることはない。

 イエスさまは、牢に投げ込まれるぞと言って、私たちを脅しているのでしょうか。それでは先週お話しした異端と同じになってしまいます。イエスさまは、神さまはあなたと和解することを強く望んでおられることをアッピールしているのです。いや、神さまは和解の道を備えていることを教えておられるのです。ですから、今お読みした第3章23節の続きの24節は、同じような流れで、このようなみ言葉が続いています。23節と24節はひとつの文章です。


神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。


イエスさまの厳しい言葉は、脅しではなく、救いへ導くための言葉なのです。イエスさまの厳しさをしっかり受け止めつつ、イエスさまの御前にひざまずくことが求められているのです。

 ですからイエスさまはたとえのはじめのところでこうおっしゃっていました。


途中でその人と和解するように努めなさい。


神さまとどうやったら和解できるのでしょうか。神さまは、どんな罪も受け入れることはできないほど聖なる方なのです。どう考えても、罪びとの私たちが、聖なる神さまから罪の赦しをいただくことはできないと思います。どんなに善い行いと思われることを積んだとしても罪は消えることはないからです。


 イエスさまがこのお話をなさった時、イエスさまの心のうちはどのような思いであったのでしょうか。同じルカの福音書第9章51節はこう言っています。


さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。


イエスさまは、ご自身が、私たちの罪からの救いを成し遂げて天に帰る日が近いことを知っておられました。その日を目指して御顔をまっすぐエルサレムに向けておられた。つまり私たちの救いを成し遂げるために、十字架に架かられることを心に決めておられたのです。エルサレム郊外の小高い丘に立てられる十字架に向かって毅然として進んでおられたのです。十字架こそ神さまが私たちと和解してくださる唯一の道でした。コロサイ人への手紙第1章22節はこう言っています。


今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。


「和解するように努めなさい」ということは、イエスさまがこう勧めておられるのです。「あなたは、わたしの十字架の死によって、すべての罪を赦していただけるのです。わたしを信じて、神さまと和解してください。そうすれば、裁きの日に、牢に投げ込まれずに、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前にたつことができるのです」

 そして、和解にはもうひとつ大切なことがあります。イエスさまが、群衆に語りかけている言葉は、13章9節まで続きます。大きな段落の区切りは、12章と13章の間ではなく、13章9節なのです。13章1-9節の主題は「悔い改め」です。イエスさまは神との和解を勧められた後、悔い改めを語られました。私が神さまと和解させていただくために、イエスさまが私の罪のために十字架で死んでくださることを知ったなら、私は自分の罪を「悔い改め」をせざるを得ないからです。ただし気をつけたいのは「悔い改め」は罪が赦されるための条件ではありません。私のために十字架で死んでくださったイエスさまの愛を知った者が、その愛の大きさゆえに頭を垂れて身を低くさせられて、神さまからの恵みの賜物として、罪の赦しを受け取る姿勢が、悔い改めです。もう一度繰り返すようですが、十字架の下に引き寄せられて、イエスさまの愛のお姿に心打たれ心砕かれて、罪を言い表すのが悔い改めです。十字架から注がれている罪の赦しの血潮のなかで悔い改めるのです。


 私たちは、この時代に、私たちの罪の赦しために注がれている十字架の血潮を見分けなければならないのです。天気を見分ける西の雲や南風にあたるような、イエスさまの十字架の救いを見分けるためのものは何でしょうか。第一にイエスさまのお言葉です。神の言葉です。聖書の言葉です。み言葉です。この世には膨大な情報の言葉があふれています。その膨大な言葉の中に、救いをもたらす恵みの雨を示す言葉、十字架から吹いてくる救いの情熱の風を指し示すような言葉を見出すことができません。


 立花隆というジャーナリストがいます。田中角栄の金権政治を暴いたことで有名になった人です。ちょうど一年前に亡くなったからでしょう、特集番組がありました。立花隆という人は、生涯、「人間とは何か」ということを追求しました。「知の巨人」と呼ばれているように、あらゆる分野に興味を持ち、膨大な読書量によって、100冊以上の著書を出しています。最後の遺言のような言葉は「墓も戒名もいらない、本のすべてを古本屋に売って、遺体は生ごみと一緒に出してくれ」というものでした。すべてを無にすることを選んだのです。なぜなら死んだらすべては無になるという結論に至ったからです。さすがに遺体をごみに出したら処罰されますから、それだけはかないませんでした。立花隆さんは3万冊の本を読んだようですが、神の救いを知るための西の雲や南風を見分けることはできませんでした。立花隆さんの6時間語り続けた最終講義のすべてを記録した本があります。途中まで読んで、積読になっていますが、聖書にもたいへん詳しいことがよく分かります。しかし、聖書の言葉も知識止まりで、西の雲や南風を見出すまでには至ってはいません。とても残念な気がしてなりません。


 私たちは3万冊の本を読むことはできないでしょう。しかし、聖書の言葉から、西の雲を見ること、南風に吹かれる恵みが与えられています。これは私たちの努力でも能力でもありません。ただただ主のあわれみによるのです。聖霊の助けによって、聖書の言葉のひとつひとつを、恵みの雨を降らせる雲、十字架から吹いてくる救いの風として見分けることができるのです。心を低くして祈りながら読む者に与えられる神さまからの恵みなのです。

 

 私たちは、イエスさまに偽善者よ、と呼ばれても致し方ない罪深い者です。だからこそ、日々、み言葉を手に取って、たましいを潤す恵みの雨、たましいを新しくする愛の風をいただきましょう。そこから十字架が見えてくるのです。神の愛が迫ってくるのです。それは神さまが、私の偽善の仮面をはぎ取り、キリストを着せてくださり、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。お祈りします。


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