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「主は私の光 救い いのちの砦」


礼拝説教 後藤弘牧師

詩篇 第27篇 ダビデによる。

1  主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。

主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

2 私の肉を食らおうと

悪を行う者が私に襲いかかったとき

崩れ落ちたのは

私に逆らう者 私の敵であった。

3 たとえ 私に対して陣営が張られても

私の心は恐れない。

たとえ 私に対して戦いが起こっても

それにも私は動じない。

4 一つのことを私は主に願った。

それを私は求めている。

私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。

主の麗しさに目を注ぎ

その宮で思いを巡らすために。

5 それは 主が

苦しみの日に私を隠れ場に隠し

その幕屋のひそかな所に私をかくまい

岩の上に私を上げてくださるからだ。

6 今 私の頭は

私を取り囲む敵の上に高く上げられる。

私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ

主に歌い ほめ歌を歌おう。

7 聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。

私をあわれみ 私に答えてください。

8 あなたに代わって 私の心は言います。

「わたしの顔を慕い求めよ」と。

主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。

9 どうか 御顔を私に隠さないでください。

あなたのしもべを

怒って 押しのけないでください。

あなたは私の助けです。

見放さないでください。見捨てないでください。

私の救いの神よ。

10 私の父 私の母が私を見捨てるときは

主が私を取り上げてくださいます。

11 主よ あなたの道を私に教えてください。

私を待ち伏せている者どもがいますから

私を平らな道に導いてください。

12 私を敵の意のままにさせないでください。

偽りの証人どもが私に向かい立ち

暴言を吐いているのです。

13 もしも 私が

生ける者の地で 主のいつくしみを見ると

信じていなかったなら──。

14 待ち望め 主を。

雄々しくあれ。心を強くせよ。

待ち望め 主を。


私たち夫婦の仲人は筒井隆介さんご夫妻でした。筒井隆介さんはもう亡くなられたのですが、ほんとうにユニークな人でした。夢を食べているような人でした。本業は油絵の画家。階段のところにある絵は筒井さんのものです。ギターやフルートを演奏したり、時には私の友人の劇団の公演に友情出演もしたりしていました。年に一度、ヨーロッパにスケッチ旅行に行っていました。信仰は持っておられませんでしたが、旅行中、ヨーロッパですから教会との出会いはたくさんあったようです。私たちが洗礼を受けた年の個展には、復活のイエスさまの絵をたくさん出展されてました。ちょうどそのころ、イエスさまの十字架のスケッチに水彩で淡く色をつけた絵をプレゼントしてくださいました。十字架の背後から、緑と赤の光が輝き出しているものでした。イエスさまの十字架の救いの激しさを感じておられるんだなと思いました。また私は同時に「主は私の光」というみ言葉を思い起こしていました。

十字架の絵をいただく二・三年前、私たち家族は教会の礼拝に出席し始めました。38歳になる年でした。それまで心の深いところで光を求めていましたが、本物の光に出会うことはありませんでした。礼拝堂の前から二番目の席に座り説教を聞くようになりました。説教ではごく自然にイエスさまの十字架が語られていました。はじめは十字架の意味はよくは分かりませんでしたが、だんだん心に細い一筋の光が差し込んできました。不思議でした。神のひとり子と呼ばれていた方が十字架で殺されておしまいになった話でした。主イエスのむごたらしいお姿が語られたのです。しかし、十字架から今まで見たことのない光が私に向かって来たのです。細い光でしたけれども、私のいろいろな入り組んだ感情を貫くようにして、真っ直ぐ私の心を照らしたのです。毎週続けて礼拝説教を聞いているうちに、十字架からの光がどんどん大きくなっているのに気づきました。そして、潮が満ちるように、主の光が私のうちに満ちてきて、スポットライトのように私を照らし、イエスさまが私を捕らえられました。本当の光でした。イエスさまが私を訪ねてくださったのです。イエスさまとの出会いでした。主の光は、ただ明るいだけではありませんでした。私の深い罪を粉々に打ち砕く光でした。光は私の救いとなりました。私のいのちを守る砦となる光となりました。

主の光はいつも私を照らしています。しかし、私の心が罪や恐れに縛られてしまうと、光が見えなくなります。まるで主が去ってしまって、昔の暗さに戻ったようになってしまいます。しかし、主はそれでもなお、私の心にみ言葉を通して光で照らし続けてくださいます。そうだ、目を主に向けなければと気づかされます。光が射してくる方に顔を上げ、じっと見つめていると、光の源である主の御顔が見え始めるのです。主との新しい出会です。特に「主は私の光」というみ言葉は、私を光の源に目を上げるように促してくれます。心に深い喜びが湧いてきて主の光を抱きしめたくなります。

「主は私の光」。あなたはこのみ言葉とどんな出会いをされてきたのでしょうか。今、この光が見えているのでしょうか。「私の救い」。どんな救いを受けたのでしょうか。今も救いをいただいているでしょうか。「主は私のいのちの砦」いのちの砦は、あなたをどんなふうに守ってくださるのでしょうか。


主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。(1節)


こ詩篇を書いた詩人ですが、平穏な日々の中でこの言葉を告白しているのではありません。戦いの最中です。敵の攻撃にさらされ、いのちの危険がそこまで迫ってきています。死と隣り合わせのような状況にあるのです。恐れる思いと怖がる心の板挟みになっていました。そこに光が射し込んできました。光の主が来られたのです。「だれを私は恐れよう」「だれを私は怖がろう」。光の救いがあったのです。いのちの危機にありましたから、「いのちの砦」という言葉には重みがあります。主の光がなければ、いのちを守ってくれるものはなかったのです。

詩人は、光の主にお会いすることができました。3節でも「私の心は恐れない」「私は動じない」と大胆に告白しています。

たとえ 私に対して陣営が張られても 私の心は恐れない。たとえ 私に対して戦いが起こっても それにも私は動じない。(3節)


ここに「陣営」そして「戦い」という言葉があります。みなさんは何を思わされたでしょう。私はウクライナに起こった悲劇です。ロシア軍はウクライナを取り囲むように陣営を張って、そこから侵攻という戦いを始めました。

ウクライナの第二の都市ハリコフは1日深夜、かつてない規模の空襲に見舞われ、無数の閃光が闇を照らしました。19歳の大学生ドミトリーさんが報告してくれました。「一般市民に爆撃を行っています。恐ろしい空襲だ。外は昼間のように明るい。朝まで生き延びられるといいですが」。ウクライナの夜の闇を切り裂く光は、いのちの光ではありません。いのちを奪う滅びの光です。

心を痛めながら黙想の中でウクライナを重ねていると、「主は私の光」というみ言葉がいっそう重みをましてきます。いのちの砦が今すぐ必要なのです。救いの光がウクライナの人たちに届くように祈らされます。いのちの砦がウクライナの人びと共にあるように願わされます。

私たちはたとい戦火の下でなくても、日々、霊的な戦い信仰の戦いを強いられているのではないでしょうか。恐れる思いと怖がる心の板挟みになってしまうことがあるのです。主はいつでもいのちの光のスポットライトで私たちを照らしておられるのですが、私たちのこころが恐れで縛られてしまうと、主の光の窓が閉まってしまい、主が取り去られたような暗い心になってしまいます。私たちにもいつもこの光と救いと砦が必要なのです。

詩人は戦争のただ中でどのようにして、光の主にお会いできたのでしょうか。その秘訣を4節で歌っています。


一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。(4節)


詩人の時代で「主の家」「その宮」と言えば、それはエルサレムの神殿です。詩人は地上に生のある限り、言い換えれば戦いで殺されるとしても、神がおられる神殿に住むことを願っている、求めている。そこで何をしたいのか。主の麗しさに目を注ぎたいのです。「目を注ぐ」は「じっと見つめる」です。「主の麗しさ」を「じっと見つめる」。恋人をじっと見つめるようにです。愛する人は美しく麗しいでしょう。愛の神は憐れみにあふれていて美しく麗しいのです。そして「思いを巡らす」。私たちがいつもしている黙想です。詩人は、麗しい主をじっと見つめ、また麗しい主が語られるお言葉を黙想したいのです。

この「思い巡らす」という言葉をいろいろな聖書で読むと、びっくりするほど違った訳があります。私たちの新改訳2017のひとつ前の翻訳は「思いにふける」と訳していました。同じ意味ですね。元のギリシャ語は「探し求める」という意味です。それに近い訳は「尋ね求める」。思い巡らせるということは、黙想を深めて主を探し求めるということ。びっくりしたというのは、この「思い巡らす」を「朝を迎える」とか「あかつきに目覚めたい」と訳している聖書があったからです。主の麗しさを巡らせていると時間を忘れてしまい、気づいたら朝になってしまうということでしょう。あるいは暁に目覚めて何よりも先に主の麗しさを思い巡らしたい、それを一日の備えとしたいということでしょうか。どちらにしても主への熱い思いを聴き取ることができます。いろいろな訳はありますが、新改訳2017が訳したように「思い巡らす」と訳したことは深い意味があると思います。私たちも主のみもとで、み言葉を黙想し、主の麗しさに目を注いでいると、光の主にお会いできることを知っているからです。

この詩人は戦いの最中です、神殿に行きたいという願いはかないません。でも、詩人は諦めません。敵の攻撃を受けているときでも、神の言葉を黙想することができる。神の言葉の黙想の中で、主の麗しさを見つめることができる。神の言葉を黙想するところに主は来てくださる。それならば戦いのただ中でも黙想しているところが主の宮になる。その秘訣は「一つのことを私は主に願った」。主の家に住むことができるなら、いのちを取られても構わないという、主への集中した思いであり、祈りであり、訴えです。この願いを主は見逃すことはなさいません。み言葉の黙想を祝福し、そこを主の宮にしてくださり、主ご自身が光として来てくださったのです。詩人は光を見つめながら告白しました。「ああ、主は私の光」。

これは私たちにとって忘れてはならない恵みの出来事です。み言葉を思い巡らせ、黙想し、主の麗しさを見つめるなら、そこが主の家となり、主が光として来てくださる。秘訣はたったひとつ。「主の家に住むことを、ただ一つの願いとする」だけです。台所で忙しくしていても、電車で通勤していても、公園を散歩していても、カフェでゆっくりしていても、コンビニで買い物をしていても、み言葉と共にあるならそこが主の宮になるのです。「住む」ということは、たまにお会いするという一時的なことではありません。「住む」ということはいっしょに生きることです。

主の家で、主は私たちといっしょに生きてくださいます。光で照らしていてくださいます。主の光は、主の言葉の光であり、私たちの魂を生かし、私たちのいのちになります。主のいのちが私たちのなかに入ってくるのです。そのとき、主の家は、主の砦であることに気がつく。私は守られている。光の中にある。「私の心は恐れない」「私は動じない」 

黙想が深まってくると、主の守りの素晴らしさを思い起こします。


それは 主が 苦しみの日に 私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に 私をかくまい 岩の上に私を上げてくださるからだ。(5節)


「岩の上に私を上げてくださる」。面白い表現です。どういうことでしょうか。詳しく説明している解説はありませんでした。おそらくこういうことかなと思いました。当時の戦いは剣や槍、そして弓矢でした。荒野での戦いでは大きな岩の陰は敵の攻撃から身を避けることができる唯一安全な場所でした。またウクライナが受けているような戦闘機による上空からの爆撃はありませんでした。ですから岩の上に置いていただいたなら、敵の攻撃どころか、敵の目も届かないのでとても安全だということでしょう。岩は安全の象徴となりました。そして最も安全を守ってくれる岩は神であるという言葉が生まれ、詩篇にも主はわが岩という言葉がたびたび語られています。主の岩に上げていただいたなら安心なのです。


黙想が深まり、主の麗しさを見つめていると、主への信頼が深まり、確信となります。


今 私の頭は 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。 私は 主の幕屋で 喜びのいけにえをささげ 主に歌い ほめ歌を歌おう。(6節)

「高く上げられる」。口調が変わりました。主の守り、主の勝利を確信しました。戦いに最中にあって、主への賛美が生まれました。

7節には6節までの確信はどこに行ってしまったのかと思ってしまうほど、訴えるような祈りがささげられています。以前、6節までと7節以下は、もともとは別の詩であったという説明がなされていたようです。今は、詩篇の研究が進み、そう言う人は少なくなりました。

詩人は主の守りを信頼し確信しています。しかし、ここは戦場です。目の前に剣や槍が突きつけられたり、石や矢が飛んでくるのです。武器に目が奪われて、恐れが入ってくるのは当然でしょう。まるで夜に部屋の電気が消えて真っ暗になって怯えている幼子ようです。幼子はすぐにそばにいる母親にしがみついて泣き叫ぶのです。「お母さん、そばにいて!ひとりにしないで!」。詩人も、主が共におられる確信があるからこそ、主を信頼して、祈っているのです。この方が必ず救ってくださる。何の疑いもなく信頼して訴えています。幼子が母にしがみつくように、主にしがみついて祈っているのです。主への揺るがぬ信頼が訴えとなりました。

聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。 私をあわれみ 私に答えてください。(7節)

詩人が祈っていると、主が詩人の心に「わたしの顔、主の顔を慕い求めなさい」と語り掛けてくださいました。主の御声が聞こえた詩人の心は、恐れに目を奪われている自分に主に代わって言い聞かせます。「わたしの顔、主の顔を慕い求めなさい」。はっとしてこう答えます。「主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます」。


あなたに代わって 私の心は言います。 「わたしの顔を慕い求めよ」と。 主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。(8節)


主の家ではこのような主との親しい交わりがあるのです。いっしょに住んでいるからです。だから敵の攻撃に目を奪われ、恐れによって主が見えなくなるといっそうつらいのです。


どうか 御顔を私に隠さないでください。 あなたのしもべを 怒って 押しのけないでください。 あなたは私の助けです。 見放さないでください。見捨てないでください。 私の救いの神よ。(9節)

しかし、主が詩人の信仰をふたたび強めてくださいました。


私の父 私の母が私を見捨てるときは 主が 私を取り上げてくださいます。(10節)


 敵を恐れて敵から目をそらしていましたが、強められ、敵を見据えながら訴えます。


主よ あなたの道を私に教えてください。 私を待ち伏せている者どもがいますから 私を平らな道に導いてください。(11節)

私を敵の意のままにさせないでください。 偽りの証人どもが私に向かい立ち暴言を吐いているのです。(12節)


次に詩人は主の家にある幸いを口にしました。


もしも私が 生ける者の地で 主のいつくしみを見ると 信じていなかったなら──。(13節)


 この戦いの真っただ中で、主のいつくしみによって、主の宮で主の麗しさを見せてくださったから、このように祈れるんだ。自分の力ではない、主によって守られているからだ。主がいのちの砦となってくださらなければ、魂も心も絶望で粉々になっていたはずだ。ああ、今私は、主の家にいる。主の光に包まれている。「主は私の光 私の救い」。


 今朝のニュースで、ウクライナのハリコフで暮らしている両親が、日本に住んでいる娘に電話でこう報告していました。「ひどい攻撃に遭っている。神のご加護があれば私たちは生き残れる」。「神の御加護があれば」。ウクライナ正教会のキリスト者でしょうか、心の底からの叫びでした。自分たちのいのちは神のお守りにかかっている!また、家族でポーランドに避難しようと向かっている車のフロントにイエスさまの聖画が置かれていました。

 311東日本大震災の直後、茶の間のテレビで被災地の壊滅的な映像を見た人たちの間で神も仏もないという言葉が飛び交っていました。都会の報道関係者が、被災地のキリスト者たちにこういう質問をしました。「こんなひどいことが起きたのに、それでも神さまを信じているのですか」。岩手沿岸のキリスト者の医師はこう答えました。この医師は自分も被災者だったのですが、いち早く病院を修復して治療にあたっていました。「教会の仲間は誰ひとり神さまを疑っていない。そんなこと考えるのは呑気に外から眺めているあんたたちだけだ」。その通りだと思いました。

 ロシア軍の砲撃を受けているハリコフのご両親も、車で避難しているご家族も、敵に囲まれている詩人が「主は私の光 私の救い」と告白したように主への信頼は揺らいでいないのです。だから8節で自分に言い聞かせたように、心の深いところに聴こえてきた神の言葉を自分に告げます。


待ち望め 主を。 雄々しくあれ。心を強くせよ。 待ち望め 主を。(14節)


 なぜキリスト者たちは苦しみの淵で、このように主イエスへの信頼が揺らがないのか。イエスさまは私たちの罪を負ったがゆえに、私たちの身代わりとなって罪人の罰を受けてくださいました。十字架の上で父に見捨てられて死なれました。そのとき私たちのどんな絶望よりも深く絶望して「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と叫ばれました。しかし、これは父にしがみつくように叫ばれた信頼の証しでした。だから私たちもイエスさまへの信頼を失いません。私たちは自分たちの絶望のただ中に立っている十字架から主の叫びが聞こえるのです。絶望の暗闇に十字架の光が輝いているのです。十字架の輝きは復活の光です。復活の主が揺れる心をしっかり支えてくださるのです。「主は私の光 私の救い」。お祈りします。


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