2022年7月24日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第16章1-13節
1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って、みなさまの祝福のためにお祈りをささげてから、説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節の大牧者イエスさまのお祈りです。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
今、お読みしたみ言葉をお聞きになって、どんな感想をもたれたでしょうか。初めて聖書の言葉を聞いた人でも、あれっと思ったことでしょう。イエスさまともあろう方が、不正を褒めるとは、どういうことなんだろう。仲間の牧師が、このみ言葉の黙想を発表したとき、「なんだこりゃ、不正な管理人のたとえ」というタイトルにしました。この牧師らしい正直なタイトルだなと、ちょっと笑っていまいましたが、みなさんも、その通りだなと思われるのではないでしょうか。なんだこりゃ。今日は、謎だらけのイエスさまのたとえ話を、みなさんと一緒に謎解きをしていきたいと思っています。
まず、とても大事なことは、イエスさまがこの譬えを誰に向けて語られたかを押さえておくことです。1節に「弟子たちに対しても」とありました。ちょっと丁寧に考えますと、聖書はもともと章や節はなく、ひと続きに書かれていました。それでは、聖書の研究や語り合うときに不便ですので、章や節をつけたのです。第16章1節というと、私たちはついつい新しい章が始まったと思って、第15章を切り離してしましますが、第15章と同じ場面でこの第16章はイエスさまが話しておられるのです。第15章は、パリサイ人たちや律法学者たちに向けて話しておられたました。パリサイ人たちは、旧約聖書の神さまは信じているけれども、イエスさまを神さまの御子、救い主として受け入れていないどころか、イエスさまに強い反感を持っている人たちです。そして、今日のみ言葉のところで、イエスさまは、弟子たちに身を向けるようにして話し始められました。弟子たちは、それまで、パリサイ人たちに話しておられるのを聞きながら、自分たちはこのようなお話はいつも聞いている、もう十分に分かっていると、呑気に聞いていたのです。自分のこととして聞いていなかったのです。イエスさまは、この後、私たちの罪のために十字架にかかられます。イエスさまが語ることができる時間は、残り少ないのです。イエスさまのすべての言葉は、遺言のように、心に刻むべき言葉だったのです。ですから、イエスさまは、弟子たちが目を覚まして、しっかり聞いて欲しかったのです。それで、呑気には聞いていられないような、衝撃的なたとえ話をされました。
イエスさまがおっしゃった譬えはこうです。ひとりの金持ちの主人がいた。この主人は土地をたくさん持っていて、小作農に土地を貸して、収穫したオリーブオイルや小麦などを土地代として受け取っていた。主人は納められた収穫物や土地を管理する管理人を置いていた。ところが、その管理人が主人の財産を無駄遣いしているという訴えがあった。早速、主人は管理人を呼んで、会計報告を出すように求めた。管理人は解雇されることを覚悟した。会計報告をまとめている幾日かの間に、この管理人、どのように謝罪をしようかと考えたのではなく、解雇後の身の振り方を考えた。力仕事はできない、物乞いは恥ずかしい。どうしよう。そこでひらめいた、分かった、ここを辞めさせられたら、迎え入れてくれる人を作っておこう。
この管理人、とんでもないことを始めました。主人に借りのある債務者を呼んで、勝手に債務を軽くしてやった。一人目の「油100バテ」の借りを、何と5割引きの「50バテ」にしてしまった。1バテは23ℓ、100バテは2300ℓ。不正な管理人は、半分の1150ℓにして、500万円分免除してやった。二人目の「小麦100コル」の借りを、「80コル」にしてやった。1コルは230ℓの容積だから、これも相当な量です。こちらは二割減ですが、やはり500万円分を免除している。ふたりの債務者とも、多額の土地代を支払わなければならないことから考えると、大きな農家です。不正な管理人が解雇になったら、雇ってくれる可能性があったのです。そして8節です。
主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
この「主人」は、譬え話で語られていた金持ちの主人とも考えられますが、新約聖書はもともとのギリシャ語で書かれているのですが、主イエスさまの主という言葉で書かれています。ですから、8節は、イエスさまが譬えの主人の口を通して語られた、あるいは譬え話を語り終えて、イエスさまが直接話し始められたと考えられます。どちらにしても、イエスさまは、「不正な管理人が賢く行動したのをほめた」。
弟子たちは、これを聞いて、私たちが驚いたように、びっくりして、目が覚めたでしょう。主よ、どうして不正を働いた管理人をおほめになったのですか。イエスさまは、さらに光の子らと言われました。これは弟子たちのことです。イエスさまは、不正な管理人が代表のようなこの世の子らのほうが、光の子である弟子たちよりも賢いとおっしゃった。弟子たちはこの世の子らよりも賢くない、つまり愚かだと言われたのです。弟子たちは、どうしてこんなことを言われるのか、びっくりしました。もう呑気に聞いていることはできません。自分たちはイエスさまを信じて、イエスさまに従っているのに、なぜ、自分たちを愚かだと言われるのか、真剣に考えざるを得なくなりました。続けて、9節でも驚くことをおっしゃいました。
わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
不正な管理人は、主人に対する債務を勝手に減額して、解雇後に迎えてくれそうな人に取り入りましたが、それと同じことをせよと、弟子たちにおっしゃったのです。不正の富で、友をつくりなさい。びっくりです。しかしながら、イエスさまのお言葉を丁寧に見てみると、弟子たちが迎えられるところは、永遠の住まいです。天の御国です。そうすると、この友は信仰の友、あるいは霊的な友と言っていいでしょう。また、富がなくなったときということは、地上のいのちがなくなったときのことです。元のギリシャ語から考えても死んだときです。弟子たちが地上の生涯を終えたなら、もし霊的な友が先に天の御国の永遠の住まいに行っていたなら、あなたを天で待っていて迎えてくれると言われたのです。不正な管理人は、主人の財産を不正に使ったけれども、あなたがたは、神さまからたくさんの富、お金だけでなく、いのちも時間も賜物も管理するように任されているのですから、その富を使って、信仰の友、霊的な友をたくさん作って、十字架の救いを知らせてください。不正な管理人が不正な友となった人に、あるいは迎えられたかもしれませんが、あなたの信仰の友は、間違いなく永遠の住まいで待っていて迎えてくれます。
10節から12節までは、ひとまとまりにして考えると分かりやすいと思います。
10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
ひとつ押さえておきたいことがあります。先ほど8節で、世の子らと光の子が対照されていたように、ここには世に属するものと神に属するものが対照的に記されています。世に属するグループは10節「最も小さなこと」11節「不正の富」12節「他人のもの」です。神に属するグループは10節「大きなこと」11節「まことの富」12節「あなたがた自身のもの」です。
そうすると、10節は、ふつう、小さなことに忠実な人は、大きなことを任されるという意味合いで理解されています。その意味は消えることはないかもしれませんが、この譬えの流れでは、「不正な富」も「他人のもの」も、その根源を辿って行けば、すべて神さまが造られ、神さまが私たちに託されているものです。これらと「最も小さなこと」が並べられているのです。
イエスさまは、決して、世の富を否定しているのではありません。私たちにとって、お金に代表される世の富は、強い誘惑はつきまといますが、この世を生きていくうえで必要なものです。しかし、その世の富を最も小さいと、イエスさまはおっしゃっているのです。「まことの富」「天であなたがたが受け取ることができる祝福」に比べるなら、この世の富、不正の富は、最も小さいものにしか見えないのです。イエスさまは、弟子たちに、私たちに、あなたがたが受け取ることになっている、天のまことの富の大きさが分かっているか、この世の富が小さく見えているか、と問うておられるのです。
ここにいる弟子たちのなかに、イスカリオテのユダもいました。イエスさまと弟子たちの財布を管理していましたが、ユダには世の富が大きく見えて、お金を誤魔化してしまい、不正な管理人となっていたといいでしょう。ついにはイエスさまを売ってしまいます。ユダは、最も小さなものに目をくらまされて、天のまことの富の大きさが見えていなかったのです。イエスさまは、この譬えを語られながら、ユダにまことの富の大きさを知って欲しかったことでしょう。そして、13節です。
どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
この13節の最後の言葉を読むと、今日の譬えの骨格とイエスさまのメッセージがはっきり見えてきます。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」。イエスさまがこれはマタイの福音書の山上の説教でも語られている、信仰の大切な根幹のひとつです。分かりやすいと思います。もし、しもべに主人が二人いて、違うことを命じたら、どうしていいか分からなくなりますし、どうしても、一方を愛し重んじて、他方を憎み軽んじてしまいます。私たちは二人の主人、神と富には同時に仕えることができません。
これを受けて、不正な管理人についてもう一度考えてみます。不正な管理人は、主人のお金を無駄に使うし、自分の受け入れ先を作るために、主人の財産を勝手に減らしてしまいました。不正な管理人は自分の懐を痛めていません。もう少し細かく見ると、二人の債務者に対する減額の額が同じでした。不正な減額ですが、よく考えて同じ額にしているのです。また、債務者の証文を書き変えましたが、不正な管理人は、債務者に書かせています。自分の手では書きませんでした。それは文書偽造で訴えられても、自分は書き変えていないと主張できるからです。不正な管理人は、不正の限りを尽くしています。不正なやり方に徹しています。謝罪をしようという良心の呵責さえ見られません。ここでの不正は、神さまを信じていない人の神にとって正しくない生き方です。イエスさまは、不正な管理人の、不正さを褒めたのではなく、ひとつに徹底して生きていることを褒めたのです。神を信じていないこの世の子は、徹底的に不正に生きている。徹底して生きることを賢いと言われたのです。それに対して、光の子は、神を信じて生きているけれども、信仰に徹することができない弱さがある。それを賢くないと言われたのです。何か困難があると、信仰が揺れて、この世に救いを求めようとする。試練に遭って途方に暮れると、おろおろしてしまう。小さなことで不安や恐れに苛まれてしまう。イエスさまは、神を徹底的に信頼して、神に徹底して忠実に従うことのできない弱さを愚かさを知っておられたのです。
弟子たちのこの弱さは、イエスさまが十字架にかけられるために捕えられたとき、明らかになってしまいます。弟子たちは、自分たちも捕らえられることを恐れ、殺されるかもしれないという恐れで、イエスさまを捨ててみんな逃げたのです。一目散に闇に向かって消え去ったのです。主を信頼し切れませんでした。主に忠実に従い切れなかった。イエスさまを愛し抜くことができなかったのです。信仰に徹することができない弱さや愚かさが明らかになった瞬間でした。しかし、イエスさまは、弟子たちの、そして、私たちの信仰に徹することができない弱さや愚かさも、自分を大切にしてしまい主に背を向けてしまう罪も、私たちの罪も弱さも愚かさも、すべて負って十字架にかかられることを受け入れておられました。
富という言葉は、もともと頼りになるものという意味から生まれた言葉です。世の富、人生で頼りになるのは、お金だけではありません、健康もそうでしょう。今日を生きるいのちも力もこの世を生きる富です。それらはすべて神さまが私たちに与えてくださっているものです。神さまが和たちがしっかり管理するように、私たちに託しておられるのです。そして、管理していくための心は、神さまという主人に頼ることに徹することです。この世の富は私たちを強く誘惑し惹きつけるのです。神さまに信頼していないと、最も小さいものが、大きく見えてしまうのです。ユダはその誘惑に巻き込まれてしまいました。天にあるまことの富を見失ったら、私たちは罪に翻弄されて、どこに向かっているのか分からなくなるのです。
しかし、イエスさまはただわたしに徹底的に従えと、弱い私たちにただ厳しく命じているだけはありません。神を頼りにしていないと、襲いかかる試練や困難に私たちが打ちのめされてしまうからです。
イエスさまは私たちの弱さを知っておられますから、日々、み言葉をきかせてくださり、私たちの弱さを強めてくださいます。たとえば、昨日の日々の聖句、ローズンゲンの旧約聖書はヨシュア記の第1章8節でした。私たちはささいなことでも、不安や心配で、心がいっぱいになってしまい、心が神さまから離れてしまい世が巨大に見えてしまうのです。そこで、イエスさまはみ言葉を通して、おっしゃるのです。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。
わたしはあなたとともにいるから、わたしを頼りに歩み続けよう。強くあれ。恐れてはならない。
また、新約聖書は、Ⅱコリント第12章10節でした。
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私たちが弱い時に、その弱さをイエスさまが十字架で覆って、私たちを強めてくださいます。私たちはますますキリストを頼りにして、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいるんだと、大胆に信仰に徹することができるのです。
イエスさまは、このように慰め励まして、天にあるまことの大きな富の、罪の赦し、救い、永遠のいのちなどの天の祝福を、この地上を生きているなかで、受け取り始めることができるように助けていてくださるのです。
そして、不正な管理人が、不正な友をつくりましたが、私たちは、最も小さな富のすべてを用いて、イエスさまを紹介して、霊的な友をつくるように召されています。イエスさまがおっしゃった言葉を証しすればいいのです。そのひとつは、ヨハネの福音書第15章13節。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
イエスさまは、あなたがまことの大きな富を手にすることができるように、いのちを捨てる大きな愛であなたを愛して、あなたを友と呼んでおられます。イエスさまはご自身のいのちの富をも、あなたに与えてくださって、天にある永遠のいのちをくださったのです。この方以外、私たちはどんな主人を求めるというのでしょうか。いや、イエスさまが私たちを求めておられるのです。お祈りします。
不正な管理人であった私たちを、正しい管理人にしてくださった、主イエス・キリストの父なる御神さま。あなたの大きな恵みのまことの富に心が揺すぶられています。イエスさま、あなたは十字架で私たちの罪のために、ご自分のいのちの富を捨てることで、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたの愛の富の大きさに恐れを覚えております。いのちを捨てて友と呼んでくださる方が、私たちの主人である恵みを心から感謝いたします。不正な管理人の徹底さで、私たちはあなたへの信頼に徹したいと願わされています。どうか、世の富の誘惑に引きずりまわされないように、弱い私たちをみ言葉と聖霊で強めてください。天にある愛の富を見つめながら、世の富を正しく用い、信仰に徹する喜びを深めてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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