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「キリストの 弟子が従う 愛の道」

2022年6月26日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第14章25~35節


25 さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。

26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。

27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

28 あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。

29 計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、

30 『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。

32 もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。

33 そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。聞く耳のある者は聞きなさい。」


新約聖書に収められている愛の手紙をたくさん書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って祝福のお祈りをささげてから、説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節のお祈りです。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


先週の月曜と火曜日の2日間、教団の仲間の牧師たちと、み言葉の黙想を学びました。コロナ禍の前は、集まって泊まりがけでやったのですが、今年は、昨年同様、ズームでの学びでした。でも、ズームだからこそ、タイに宣教師として遣わされている仲間もいっしょに学ぶことができました。今回の主題は「黙想を深める」。黙想はここまでやったら完成ということではなく、神との深い交わりを求めるのですから、生涯、トレーニングすることだと改めて思いました。初日に、神さまは真実な方で、加藤常昭先生を送ってくださり、丁寧な黙想指導を受けることができました。いろんなことを分かち合いたいのですが、時間の限りがありますので、黙想のこつだけをお伝えします。小学生のようですが、わくわくどきどき、です。み言葉を黙想をするとき、わくわくドキドキしているでしょうか。日課だからやらなくちゃとか、このみ言葉は知っているとか、このみ言葉は分かりにくいなとか、心がしぼんでいませんか。み言葉の黙想は神さまにお会いできるのですから、わくわくドキドキしてしまう。同じように、これから味わう今日のみ言葉もわくわくドキドキして聞いていきましょう。


今日のみ言葉に、小見出しをつけている聖書や注解書のほとんどが、「弟子になる条件」というタイトルにしています。確かに、イエスさまが「わたしの弟子になることはできません」と3度も繰り返して、おっしゃっていますから、なるほどと思います。しかし、その一方で、ペテロやヨハネ、そしてマタイも、「わたしに従いなさい」とイエスさまに召されて弟子になりました。また、ヨハネの福音書第15章16節では、イエスさまは「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」と、おっしゃっていました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

イエスさまが、イエスさまを信じて弟子となる人を選んでくださったのです。私たちがイエスさまを選んで弟子になったのではないのです。イエスさまを信じて間のないころは、自分で選んだような気がしますが、だんだんわかってくるのです。ああ、イエスさまが選んでくださったんだ。私たちの誰ひとりとして、自分でイエスさまを選んで、弟子の条件をクリアして、イエスさまの弟子になったのではありません。

では、今日のイエスさまの、わたしの弟子になることはできません、というお言葉は、どういう意味なのでしょうか。私たちは、すでにイエスさまを信じて弟子となって、イエスさまに従っています。私たち自身、弟子とはどういう存在なのかを確認するためにも、わくわくしながら、いっしょにみ言葉に聞いていきましょう。

今日の舞台は旅の途上です。イエスさまは、目的地をしっかり定めて旅をしておられます。目だけではなく、ご自身の存在すべてをエルサレムに向けて、ぶれることなく、まっすぐ進んでおられます。エルサレムの小さな丘に立てられる十字架が、イエスさまのこの地での旅の終着地です。この地上に来られた目的、私たちの救いを達成するところです。

イエスさまは旅を続けながら、神さまの愛の説教を説き、病の人を癒し、悪霊を追い出して来られました。イエスさまのお言葉とみわざを見聞きした大勢の群衆が、イエスさまといっしょに歩きながら旅をしていました。この人たちは、イエスさまの愛の大きさに惹きつけられ、イエスさまを愛し始めていました。

イエスさまは、ここで、すでに弟子になっていた弟子たちにではなく、この大勢の群衆に向けて、26節「わたしのもとに来て」と話し始められました。

「あなたがたはわたしのもとに来たんだね。わたしの弟子になりたいのですね。よく聞いてください。わたしの弟子になるということは、こういうことです。」そうおっしゃって、弟子になることについて丁寧に話されました。

イエスさまのお言葉がよく分かるように、初めに、さっと全体を見渡してみます。イエスさまは「わたしの弟子になることはできません」を3度も繰り返されました。この言葉がお話しの要でしょう。初めは、26節、家族や自分を憎むこと。2度目は、27節、自分の十字架を負うこと。3度目は、33節、財産を捨てること。その間の28節から32節までに、ふたつの譬えを語られ、そして結論のように塩の話をされて、最後にこのお話しの聞き方の秘訣をおっしゃいました。「聞く耳のある者は聞きなさい」。わたしの話は、心の耳で、霊の耳でしっかり聞かないとわからないよ、とおっしゃっているのです。これはよく分かります。3回繰り返された言葉を、さっと聞いただけなら、誰ひとり弟子になりたいと思う人はいないのではないかなと思うからです。しかし、イエスさまの弟子に選んでいただくこと、いや、選ばれている生きることこそ、私たちの喜びであり、ほんとうの人間として、ほんとうのいのちを生きることができる幸いだからです。ごいっしょに、心の耳をそばだてて、聞いていきましょう。


ふたつの譬え話から始めたいと思います。このふたつは「聞く耳のある者」の具体的な聞き方の姿勢が語られています。この譬えは分かりやすいものです。

ひとつめは、塔を建てるときの心得です。お城にあるような大きな塔ではなく、葡萄畑から葡萄を盗もうとする泥棒を見張るための塔をイメージしています。群衆に身近な塔です。イエスさまは、あなたがたが、塔を建てるなら、完成するまでどのくらいお金がかかるか、費用を計算するでしょ。計算しないで建て始めて、土台しか据えられなかったら、みんなに笑われてしまうでしょ。よく分かります。

ふたつめ、これもよく分かりやすい。王さまは1万人の兵隊を持っている。そこに2万人の兵隊を引き連れて敵が向かって来た。もし戦ったら負け戦になるのは明らか。王さまは、敵がまだ遠くにいる間に、敵の王に使いを送って、戦をしないで済ませるには、どのような条件かを尋ねさせて、和平条約を結ぶでしょう。よく分かります。

このふたつの譬えで、共通していた鍵の言葉は、まず座って、という姿です。「まず座って」。「腰を据えて」ということです。「じっくり考える、じっくり検討する」。塔を建てるには、いくらかかるかを見積り、貯蓄がいくらあるかを確かめます。イエスさまは、この譬えによって、生涯、弟子として生きるには、何が必要なのかを、腰を据えて、考えるようにおっしゃったのです。王さまは、負け戦であることが明らかでも、まず座ってよく考えました。腰を据えて検討しました。あなたがたが弟子になったなら、厳しい試練や困難や迫害やわざわいに遭うようになります。じたばたしないで腰を据えて、どうやって乗り越えるかを考えることができるか、と問われました。

私たちも、3度繰り返される言葉から、私たち自身、弟子として生きるには何が必要か、迫害や困難をどう乗り越えるのか。まず座って、腰を据えて、聞く耳を立てて、しっかり考えるように求められています。

イエスさまが、3度繰り返された言葉、初めにこうおっしゃいました。26節


自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。


誰もが、えっ、と思うのは「憎む」という言葉です。私たちにとって家族はかけがえのない存在です。この世で最も愛しているのが家族でしょう。「自分のいのち」の「いのち」という言葉は、たましいとも訳される言葉で語っておられます。肉体のいのちというよりも、自分自身、自分の存在そのものという意味です。私たちは、家族を愛すると同時に、あるいは、家族以上に自分を愛しています。しかし、イエスさまの弟子は、家族も自分も憎まなければならないのでしょうか。

「憎む」という言葉から、思い起こしてほしいことがあります。旧約聖書の創世記に登場しているイサクには、ふたりの子ども、エサウとヤコブがいました。エサウとヤコブはとても対照的な兄弟ですが、神さまはふたりをどのように見ていたかです。ローマ書で、パウロはこのように解き明かしています。ローマ人への手紙第9章13節。


「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」


このわたしは神さまです。このように一方を愛し、一方を憎むという言い方は、ユダヤでよく語られている慣用句、決まり文句なんです。それを知らないと、驚いてしまうでしょう。神さまはエサウを憎んでいたんだ。しかし、これは二者を比較するときに用いられます。一方も他方も、両方愛しているのですが、比較すると、一方への愛が特に大きいことを言い表す決まり文句なのです。神さまはヤコブもエサウも愛しておられるのです。ただ神さまのご計画のなかで、ヤコブを用いて信仰の歩みを解き明かそうとなさったので、ヤコブを愛し、エサウを憎んだとおっしゃったのです。神さまは欠けだらけのヤコブを愛されたと同じように、エサウも愛しておられるのです。

ですから、今日のみ言葉もこのことから考えないと、とんでもない勘違いをしてしまいます。弟子というのは、イエスさまも家族も自分も愛している人です。家族や自分を憎んではいないのです。弟子の愛の要は、わたしイエスさまを第一に愛することです。

イエスさまは、確かに家族を憎んでいませんでした。イエスさまは、十字架の後、母マリアが一人ぼっちにならないように、十字架の上から、母をヨハネに託しました。母をこよなく愛しておられました。ルカの福音書第7章では、一人息子を亡くしたやもめの悲しみをあわれんで、息子を生き返らせ、やもめに戻して差し上げました。家族の愛を全く軽んじておられません、それどころか、重んじておられます。

私たち夫婦が洗礼を受け、神学校に入ることを、私の両親に話したとき、私の父は「お前たちはあっちの世界に行ってしまうんだな」と言いました。父の方から別れを告げられた気がして、寂しい思いをしました。私自身は、この両親に反抗して悲しませたこともありましたが、イエスさまを愛するようになって、真に悔い改めて、真に両親を愛せるようになりました。

イエスさまを第一に愛するときにこそ、家族も自分も正しく愛することができるようになるのです。

次に、ひとつ飛ばして3度目の言葉です。33節。


そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。


先ほどは「憎む」が衝撃的でしたが、ここでは「捨てる」に大きな壁を感じるでしょう。腰を据えて「捨てる」について考えてみましょう。もとのギリシャ語が面白いんです。「さよならを言う」「別れを告げる」という言葉なのです。また「財産」という言葉は「所有しているもの」という意味の言葉で語られています。ですから、ここは「持っているものに、さよならを言う」と言うことです。持っているものは、お金や資産だけではないでしょう。神さまを知らなければ、家族も自分のものですし、自分でさえ、自分のものです。人生も時間も、あれもこれもすべて自分のものです。私たちは自分のものに執着します。言い換えれば、持っているものを愛しているのです。

しかし、腰を据えて考えると、家族も自分も財産も、持っているものすべては、神さまが与えてくださったものです、神さまからの賜物です。ですから、弟子というのは、自分のものだと思っていたものが、すべて神さまからいただいたものだということが分かった人なのです。だから、自分のものに、一度、さよならと別れを告げて、それから、神さまからの賜物として受け取り直すんです。すべてが自分のものではなく、神さまからの賜物とわきまえることができるのです。

私の両親も、私のものではないことがよく分かって、一度、神さまにお返ししてから、神さまから賜物として受け取り直したので、大切にすることができたのです。

先ほどの一方を愛して、一方を憎むという言葉が、ここにも響いています。イエスさまを愛して、持ち物を憎む。持ち物に別れを告げるのは、第一にイエスさまを愛するからです。愛する持ち物に、一旦、別れを告げて、さよならを言って、神さまにお返しして、改めて神さまからの賜物として受け取りなおして、神さまから託されてものとして大事にする。だから、給料のような収入も、自分のものではないのです。働ける健康も働く場も神さまが与えてくださっているのです。だから、私たちは、収入も神さまの賜物として受け取って、神さまに感謝を表して、その一部を献金として献げているのです。

子どもだって、そうでしょう。子どもを自分のものだと考えていると、子どもを支配しようとして、さまざまな問題が生じるのです。子どもは自分のものではない、神さまからの賜物だと知ると、真実に大切に愛し守り育てることができるのではないでしょうか。

イエスさまの弟子とは、イエスさまを第一に愛し、自分のものだと思っていたもの、すべてにさよならをして、一旦、神さまのお返しして、改めて神さまからの賜物として受け取り直している人です。


3度繰り返された言葉ですが、最も大事なのは、27節であることに間違いはないでしょう。


自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。


この言葉こそ、腰を据えて、じっくり考えなければならないでしょう。そうしないと、世でもよく言われるように、病になったり、何か大きな失敗をしたりすると、この苦しみは、自分の十字架だと言ってしまいかねないからです。

まず、34節35節の「塩」から、考えてみます。マタイも山上の説教の中でこの言葉を記していますが、このルカの福音書は、イエスさまは弟子の姿として語っておられます。

弟子は塩。塩気がなくなったら捨てられちゃう。先ほどの捨てるは、さよならを言うという意味の言葉ででしたが、ここの捨てるは、そのままの意味、投げ捨てられること。どういうことでしょうか、

このようなことから考えてみます。弟子は塩と言われていますが、塩気がなくなった弟子の姿は、福音書のどこに見られるでしょうか。ヨハネの第20章、21章です。特に第21章です。ペテロをはじめ弟子たちは、イエスさまが十字架に架けられるために捕えられたとき、みんな逃げてしまいました。イエスさまを第一に愛することができずに、自分を愛することを優先してしまったのです。先ほどの決まり文句で言えば、自分を愛して、主イエスを憎んだのです。弟子たちは自分の十字架を負うことができなかったんです。そして、イエスさまは十字架で殺されておしまいなりました。心は闇に覆われ、絶望と嘆き、そして、イエスさまを愛せなかった自分を責める思いでいっぱいでした。塩気を失った弟子そのものの姿でした。

ペテロたちは、塩気を失い、以前の漁師の自分に戻って、ガリラヤ湖で漁をしていました。そこに甦られたイエスさまが来られ、漁を指導し、朝ごはんまで食べさせてくださいました。食後、信仰も希望も愛も失っていたペテロに、イエスさまは問われました。私たちが考えると、お前の信仰はどこにいってしまったんだ、イエスさまがおっしゃると思うんです。しかし、そうではありませんでした。どうして、そんなに絶望しているんだと責めることもなさいませんでした。ただ愛を求められました。「あなたはわたしを愛していますか」。塩気を失った弟子に愛を問われたのです。なぜなら、弟子の塩気を取り戻すのは、イエスさまを第一に愛するようになることなのです。「あなたはわたしを愛していますか」。自分自身よりも、わたしを愛していますか。


イエスさまは、今日の33節、34節でこうおっしゃいました。


もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられます。


甦られたイエスさまは、塩気をなくした弟子たちを、投げ捨てられませんでした。ペテロに3度「あなたはわたしを愛するか」と問いながら、再びペテロの心に愛の炎を燃やしてくださいました。イエスさまを愛する愛を、イエスさまがペテロにくださったのです。塩気を取り戻してくださったのです。そして、イエスさまは「わたしに従いなさい」と、新しく弟子として招き直されたのです。ペテロは再び、自分の十字架を負うことができました。第一に自分を愛してしまう過ちを自分の十字架につけ続けたのです。イエスさまを愛して愛して、イエスさまに仕える弟子になったのです。

私たちはそれでも、どうして、自分の十字架を負うことができたのか、その秘密を知りたいと思うのではないでしょうか。イエスさまは、私を愛して私の罪のために死なれるための十字架を負っておられます。弟子は後ろから従います。弟子が目を上げると、イエスさまが負っておられる十字架が見えるのです。イエスさまの十字架に自分の十字架を重ねるようにして、イエスさまを第一に愛さない愚かさを罪を自分の十字架につけ続けるのです。イエスさまが死んでくださったのだから、今度は、自分の十字架で自分が死ぬのです。

伝説では、ペテロは自分はイエスさまを裏切った弟子だから、イエスさまと同じ十字架では足らない、と言って、逆さ磔になったと言われています。そうでなくても殉教したことは確かなことです。ペテロは自分の十字架を負いました。

もうお分かりでしょう。イエスさまの弟子は、イエスさま以外を第一に愛してしまう自分を十字架につけて、イエスさまを第一に愛する人です。

しかしながら、私たちイエスさまの弟子も、ペテロのように、イエスさまを愛する愛が消えてしまうことがあるのです。自分の惨めさを嘆いているとき、イエスさまを心から追い出しています。希望を見失い心が暗くなっているとき、甦られたイエスさまに覆いをかぶせてしまっています。怒りで心がいっぱいになっているとき、イエスさまを十字架につけているのです。人を憎んでいるとき、イエスさまを愛していないのです。

忘れてはならないのは、甦られた主は、塩気を失ったペテロに愛を与えて、塩気を取り戻してくださったように、私たちにもイエスさまを愛する愛を与えてくださることです。絶望していたペテロにイエスさまが来てくださったように、甦りの主が私たち一人ひとりを顧みて、訪ねてくださいます。そして消えてしまった愛に、愛を灯して、イエスさまを第一に愛する愛を回復してくださいます。

イエスさまを愛するための十字架を負っているなら、試練を耐えることができるのです。なぜなら、前を見れば、イエスさまが私のために十字架を負っているからです。イエスさまが死ぬまで愛してくださったのだから、私もイエスさまを愛し抜きたいと思い始めているのです。それが弟子の忍耐の源です、塩味です。塩は自分を主張しません。家族に友人たちに隣人たちに溶け込んで、みんなを生かす存在になるのです。イエスさまが賜物としてくださる愛だけが、私たちを、イエスさまを、神さまを第一に愛し、隣人を愛する弟子にしてくださるのです。

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