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「イースター 主の甦り おめでとう」

2022年4月17日 イースター礼拝説教 後藤弘牧師 マタイの福音書第28章1-10節


 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て 石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。

 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。

 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」


 先週木曜日、品川・高輪にある明治学院大学のチャペルで、お話をしてきました。新学期が始まって間もないということで、小雨の降る日でしたが、キャンパスは華やいでいました。イエスさまが十字架に架かられる受難日の前の日でしたから、十字架の上のイエスさまの祈りの言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」を語ってきました。明治学院はヘボン式と呼ばれるローマ字を考案したヘボン宣教師が建学しました。今も聖書に基づいた教育をしています。ですから宗教部があって熱心な活動をしています。チャペルタイムのコーデしネイトも宗教部がしています。スタッフのひとりが、昨年春から産休で一年間お休みをしていました。先週、職場復帰してから初めて会いました。出産おめでとうと伝え、しばらく立ち話しをしました。子どもが、毎日、目に見えるようにぐんぐん成長するのでびっくりしていました。これから子どもの成長の先回りをして、少し大きめの靴や洋服を購入するんだな。それだけではなく、小学校、中学校、高校と成長するわが子の先回りをして、いろいろなことを備えていくんだなと思いました。イエスさまも、親が子を思う以上に、私たちの歩みの先回りをして、大切なものを備えて、待っておられます。


 先週金曜日のイエスさまの受難日に向けて、私たちも十字架上の七つの言葉のうち、4つの言葉を心に刻んできました。残された三つの言葉は改めてふさわしい時にお読みしたいと思っています。ただし今日はその中のひとつ「完了した」という言葉に触れておきたいと思います。ヨハネの福音書第19章30節です。


イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。


「完了した」。イエスさまがなさる救いのわざの完了です。十字架で死なれるまでが、私たちの救いのためのイエスさまのわざでした。イエスさまは死なれることによってどんなことを完了してくださったのでしょうか。神の御子が死なれるという奇跡のわざですから多くのことが含まれていますが、へブル人への手紙第2章14-15節のみ言葉からひとつのことが明らかです。それは死を滅ぼしたことです。


そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。


イエスさまは、私たちと同じ肉体を持ってくださった。つまり永遠のいのちで生きておられる神の御子が、必ず死ななければならない肉体を持ってくださったのです。なぜ、そんなことをなさったのか。


それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。


神の御子が死ななければ、死を滅ぼすことができないからです。永遠のいのちを持っておられる御子のままでは死ぬことはお出来にならないのです。強い言い方をするなら、死ぬために肉体を持ってくださったのです。ご自分の死によって、死の力を持つ悪魔を滅ぼされました。イエスさまが十字架で死なれることで、死を滅ぼすわざを完了なさったのです。完全な死を遂げられました。イエスさまは完全な屍になられました。イエスさまはご自身を復活させる力はまったくありません。イエスさまのうちにはいのちのひとかけらも残っていません。仲間たちに十字架から降ろしてもらい、墓に葬られました。


 しかし、それだけでは私たちが永遠のいのちに生きることができるようにはなりません。イエスさまが甦ってくださらなければ、私たちはイエスさまと共にイエスさまの死にとどまらなければなりません。しかし、イエスさまは完全な屍になられました。イエスさまが復活なさるのは、父のみわざでしかあり得ないのです。すべてをご存じで、私たちを愛してくださっている父なる神さまは、すべての人の思いの先回りをして、十字架の3日の後、屍になられたイエスさまに、いのちの霊を、永遠のいのちを、復活のいのちを注がれました。父なる神さまはイエスさまを甦らされたのです。ですから日本語ではイエスさまは甦られたという言い方になりますが、もとの言葉は受け身なのです。イエスさまは甦らされたと訳せる言葉なのです。イエスさまは父によって甦らされたのです。イースターの朝、イエスさまの完全な屍に、父からのいのちが注ぎ込まれました。イエスさまは永遠のいのちの呼吸を始められました。永遠のいのちの鼓動を打ち始めました。墓から立ち上がられました。完全な復活です。


 イースターの朝の出来事を、ほかの福音書で黙想していると、女たちの話し声と墓に向かって走る足音以外、墓の周りは静けさに包まれています。しかし、マタイの福音書は、静けさを破るものありました。主の使いが天から落雷のよう降りて来て、大地を激しく揺るがす地震が起こりました。主の使いも地震も、イエスさまの復活が神さまのわざであることを示しています。

 ローマ兵たちが墓の番をしていました。主イエスの遺体を弟子たちが盗んで、甦ったなどと言いふらしたら、人びとが信じてしまい面倒なことになるからです。その兵士の前に主の使いが現れました。


その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。(3節)


「その姿は稲妻のよう」。稲妻のようとは、どんな姿だったのか。ここ数年、夏に激しいゲリラ雷雨に見舞われることが多くなりました。夜の闇を切り裂く稲妻は、綺麗だなぁなどと呑気なことは言っていられません。キャッと叫んで身を固くさせてしまう恐ろしさがあります。稲妻のような主の使いの輝きは、神の聖さだけではなく、聖さによって人の罪をさばく恐れをもたらしました。神の御子を十字架につけた人間のさばきが現れていたのかもしれません。ローマ兵たちは死んだようになりました。主はあなたがたに殺されて完全に死んだが、甦られたのだ。本当に死ななければならないのは、神の御子を殺した罪深い人間だ、というひとつのメッセージが込められているかもしれません。


 主の使いは、石を転がし、石の上に座りました。大きな石の上に座った主の使い。今の時代なら、携帯で写真を撮りたくなるような場面です。足を組んでマリアを見つめていたのかもしれません。どうして、主の使いは石の上に座ったんだろう。石は墓の入口を塞いでいた。石はいのちの世界と死の世界の境界線です。その上に王のように座っている。神さまはいのちと死を支配しておられることを示していたのです。主の使いは、父なる神からの言葉を女たちに伝えました。


5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。

6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」


主の復活の喜びの知らせがもたらされました。初めてのイースターです。イエスさまは甦られました。墓は空っぽです。ハレルヤ!イースター、おめででとうございます。

 主の使いはこのように言いました。イエスさまを愛しているあなたがたは、恐れることはない。イエスさまが十字架で殺されたことをあなたがたは見ましたね。確かに死なれましたが、父なる神さまが甦らされました。ここにはいません。イエスさまは甦ると言っておられたでしょ。墓の中をご覧なさい。墓は空っぽです。急いで弟子たちにこう伝えなさい。「イエスさまは死から甦られました。イエスさまはあなたがたの先回りしてガリラヤに行かれます。あなたがたはガリラヤでイエスさまにお会いできます」。

 イエスさまは、十字架に架かられる前になさったゲツセマネの祈りの後で、確かにこう言っておられました。マタイ第26章32節。


しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。


イエスさまは、弟子たちが、十字架につまずいて、逃げてしまう未熟さを知っておられました。そして、十字架の死と復活を経験すると、弟子として成長することもご存じでした。イエスさまは、つまずく弟子たちを見捨てるのではなく、成長する弟子たちの先回りをして、ガリラヤへ行かれるのです。

 なぜ、ガリラヤなのか。今弟子たちがいる、エルサレムの方が、イスラエルの都ですから、弟子たちが伝道を開始するにはふさわしいのです。思い出してください、イエスさまはガリラヤから伝道を始められ、ガリラヤを中心に伝道をしておられました。甦られたイエスさまは、この後の伝道を弟子たちに託すのです。弟子たちが伝道を始める地は、イエスさまに倣って、ガリラヤがふさわしいのです。イエスさまは弟子たちが始める新しい伝道を祝福するために、先回りをして、ガリラヤで待っておられるのです。


 女たち、ふたりのマリアでした。マグダラのマリアは、七つの悪霊に取りつかれ、人生をめちゃくちゃにされていました。イエスさまは悪霊をすべて追い出してくださいました。イエスさまはいのちの恩人です。救い主です。愛さずにはおられませんでした。そのイエスさまが十字架で見るも無残に殺されました。まともに見ることはできませんでした。身も心も散り散りに引き裂かれ、何も考えることができなくなりました。しかし、主の使いが、輝く光とともにイエスさまが甦られたと告げてくれた。主の使いを恐れつつ、心の底から喜びが湧きあがってきました。立ち上がりました。み使いに言われた通り、弟子たちのところに走り始めました。

 主への恐れ、主が生きておられる喜び、主の復活の証人として、恐れと喜び、このふたつは欠かせません。ただし、復活の証人として肝心なもうひとつことが欠けていました。それは復活の主にお会いすることです。イエスさまはご存じでした。急いで弟子たちのところに向かっている女たちの前に、先回りして現れました。 

 「すると見よ」。大きな驚きを表す強い言葉です。「驚くばかりの神のみわざを見よ」。ここが甦りの朝のひとつの頂点です。もうひとつは2節のみ使いが現れたときにも「すると見よ」。み使いが現れる、主イエスが現れる。神の現れを表すふたつの出来事が復活の朝の大きな出来事です。

 「すると見よ」。イエスさまが女たちの前に現れました。女たちははっと息をのみました。イエスさまの挨拶の言葉が記されている。「おはよう」。日本語に訳すとこうなりますが、「喜びなさい」という意味のごく日常の挨拶の言葉です。私たちは「愛する姉妹たち心配をかけたね」とか「ほらご覧、わたしは甦ったんだよ」というような、復活にふさわしい挨拶が考えがちです。しかし「おはよう」です。仰々しい挨拶はなさいませんでした。聖書を読む私たちにはちょっと肩透かしを食らったような気がします。イエスさまは、ガリラヤをいっしょに伝道の旅をしていたときに交わしていたいつもの挨拶をさりげなくなさった。女たちが十字架で心を痛めていたのを知っておられたのです。復活の喜びであろうと、これ以上姉妹たちを驚かせたくなかった。さりげない挨拶をなさった。イエスさまの思いやりでした。いつも挨拶をすることで、ここにいるのはわたしだよと、十字架で死んだイエスさまがほんとうに甦られたことを悟らせたかったのです。それでも女性たちの驚きと喜びは大きかった。思わず足を抱きました。イエスさまに礼拝をささげました。何と麗しいで信仰の絵でしょう。イエスさまの足を抱くことで、いつもともにいてくださったイエスさまに愛を表し、死から甦られたイエスさまに礼拝をささげました。神の御子の足元にへりくだっている信仰の姿です。私たちの信仰の模範とも言えます。


 イエスさままは、女たちにみ使いの伝言の言葉を辿るように言われました。み使いの言葉にはなかった、弟子たちへの思いやりが現れている言葉がありました。「兄弟たち」。

先ほど、イエスさまが先にガリラヤへ行くとおっしゃったことをお話ししました。その言葉の前に、弟子たちがつまずくことを言っておられました。マタイの福音書第26章31節。


そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。 『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。


イエスさまは、弟子たちに、あなたがたはつまずくよ、十字架に架けられるためにわたしが打たれると、あなたがたはわたしの弟子なのに、わたしを見捨てて散り散りに逃げていくよ。

 弟子たちは、自分たちをこよなく愛してくださったイエスさまを今でも愛しています。愛さずにはいられません。でも、イエスさまが捕らえられたとき裏切ってしまった。弟子として最もそばで守らなければならなかったときに、自分のいのちの方を大切にしてしまった。あのとき、弟子たちは、逃げながらも、葛藤していました。イエスさまのそばにいたい、でも、死ぬのが恐い。イエスさま、ごめんなさい。ダメな弟子です。弟子失格です。死にたくないんです。

 そんな弟子たちは、女たちに、イエスさまは甦られた、あなたがたの先回りをして、ガリラヤで待っている、とだけ聞いたなら、自分たちはイエスさまにお会いする資格はない。イエスさまに会わせる顔はない、と思ったに違いない。しかし女たちの口からイエスさまの呼びかけが聞こえて来た。「わたしの兄弟たちに」。あなたがたはただの弟子ではない、父なる神の信仰の血を分けた、兄弟だ。兄弟なら兄弟の弱さを受け入れる。兄弟の罪を赦す。わたしの兄弟たち、待っているよ。

 弟子たちは、イエスさまが甦られた喜びの上に、喜びと喜びが加わりました。弟子失格と叱られても、ダメな信仰だと罵倒されてもいいのに、「わたしの兄弟」。ああ、愛されている。赦されている。待っていてくださる。心も足も震えたでしょう。主が先回りしておられるガリラヤへ急ぎました。イエスさまにお会いできる喜びを一歩一歩かみしめながら。

私たちも、信仰者として、いろいろなつまずき、そして試練を味わうことがあるでしょう。自分を責め続けることがあるかもしれません。イエスさまを愛する資格はない、自分で自分に信仰失格の烙印を押すかもしれません。しかし、目を凝らしてください、主が先回りして、あなたを待っておられます。あなたの目の前に、必ず、お姿を現してくださいます。み言葉のなかに、み言葉の黙想のなかに現れ、語りかけてくださいます。「兄弟よ、姉妹よ、あなたはわたしのかけがいのない兄弟です、姉妹です。わたしは、あなたの先回りをして、あなたの罪をすべて十字架で贖い、あなたと共に歩むために、甦っている、生きている」。


 今年は三浦綾子さんの生誕100周年ということで、さまざまな記念行事が予定されています。三浦綾子さんの著書『道ありき』に詳しく記されていますが、三浦綾子さんは、敗戦後、教師として挫折し、その後、脊椎カリエスを患い、全身を固定するギプスベッド生活を13年間強いられました。神さまは三浦さんの先回りをして、み使いを遣わされました。それが前川正さんでした。前川正さんとの出会いによって、後に三浦さんが信仰の道に入ることができたのです。神さまは三浦綾子さんだけでなく、ひとりひとりの先回りをして、み使いを遣わし、待っておられます。

 わが家にも先回りしてくださり、教会の姉妹を通してクリスマス礼拝のちらしを渡してくださった。神さまはこのようなどうしようもない夫婦をも求めてくださり、先回りをして救いへと招いてくださいました。

エレミヤ書第1章5節にこういうみ言葉があります。

                                         わたしは、あなたを胎内に形造る前から あなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、 国々への預言者と定めていた。     


このとき、エレミヤは、いえいえ私はまだまだ若いですから無理ですと訴えました。神さまはそんなことはよく知っている、わたしがともにいるから大丈夫だと言われました。これはエレミヤに対する神さまの言葉ですが、私たち一人ひとりにも語っておられます。神さまは、弟子たちも、私たち一人ひとりも、母の胎に宿る前から知っておられます。だから神さまは、私たちの成長に合わせるようにして、先回りをすることがおできになるのです。先回りをして、私たちを求め、私たちを待っておられます。


 神さまがなさった最大の先回りの出来事は、イエスさまを遣わしてくださったことです。父なる神さまは、ここにおられるすべての人のために、2000年前に、イエスさまを遣わしてくださり、それだけでなく、イエスさまは私たちを罪から救うためにいのちまでささげてくださいました。2000年の先回りです。私たちがまだ罪人だったときにすでに罪の贖いを完了していてくださったのです。私たちは神さまに愛され、神さまに知られ、求められています。神さまが私たちを待っていてくださったのです。

 イースターは、神さまがイエスさまを甦らされたように、私たちにも永遠のいのちをくださることの証しです。私たちも死んでも生きることを、先回りして、教えてくださった出来事です。ここが私たちのガリラヤです。この朝、甦られたイエスさまが先回りをしてここに来られ、私たちを待っておられました。私たちは、ここガリラヤで、イエスさまの御足を抱いて、礼拝しているのです。イエスさまは、今日、甦られました。イースター、おめでとうございます。


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