2022年8月21日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第17章11-19節
11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を祈ってから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈り、へブル人への手紙第13章20節21節です。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
イエスさまは、ガリラヤの町々、村々を巡り歩いて、伝道したおられました。ある日、神さまから私たちの救いをエルサレムで成し遂げる時が近いことを知らされました。今日の出来事は、イエスさまがご自分の十字架の死を心に秘めながら、エルサレムへ向かう途上で起きました。11節。
さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
ガリラヤからエルサレムへまっすぐ行くには、サマリアの地を通らなければなりません。しかしながら、ユダヤ人とサマリア人の間には、信仰的に激しすぎる憎しみと敵意があり、ユダヤ人であるガリラヤの人たちは、サマリアを通らず、ガリラヤとサマリアとの国境をヨルダン川まで東に行って、川沿いを南に進んでエリコからエルサレムに上りました。イエスさまは、今、その国境を歩んでおられます。国境は、どちらにしましても、町から遠く離れた寂しいところです。12節。
ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
人が住めそうになさそうなところにひとつの村がありました。ツァラアトに冒された人たちの村でした。ツァラアトという病は、現代にはない、旧約聖書時代の特有の重い皮膚病です。しかもツァラアトは単なる病ではなく、レビ記に信仰的に汚れていると定められていました。ツァラアトに冒された人は、健康な人が近づいて来たとき、「私は汚れている、汚れている」と大声で叫ばなければなりませんでした。人びと蔑まれ、人間の尊厳を奪われた、哀れで悲しい病でした。当然、町には住むことはできません。人びとに見捨てられ、家族や友人からも切り離されて、町の外に住んでいました。
イエスさまが入られた村は、ツァラアトに冒された人たちが、同病相憐れみという言葉がありますが、生きる喜びも誇りも奪われた悲しみや苦しみを慰め合い、支え合って生きていました。ツァラアトに冒された人は、深い絶望と共に、ツァラアトが癒されるための情報には敏感でした。こっそり訪ねて来た家族からでしょうか、イエスさまの噂を聞いたのです。第5章に記されていますが、イエスさまは、ツァラアトに冒された人に触れて、ツァラアトを聖められた。イエスさまに触れていただければ私も癒されるに違いない。イエスさまがこの村を通られるらしい。この地獄のような生活から脱する唯一のチャンスだ。イエスさまに触れていただこう。今日こそ、来られるかもしれないぞと、毎日、イエスさまが来られるのを待ちわびていました。
この日、10人は町の入口に立って、今日こそ、来られるのではないか、イエスさまが来られるのを目を凝らして待っていました。あっ、あれはイエスさまに違いない。ツァラアトに冒された人は健康な人に近づくことはできません。10人は、遠くから。13節。
声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
イエスさま、先生、あなただけが私を聖めることがおできになると信じています。どうか、通り過ぎないで、私たちを憐れんでください。足を止めて、私たちに触れてください。聖めてください。この機会を逃したら家族のもとに帰れる日が来ないかもしれません。声の限り叫びました。10人は、口々に繰り返し繰り返し、遠くにいるイエスさまに向かって叫び続けました。悲痛な叫び声は寂しい荒野に響き渡りました。その情景を思うと、10人の必死な姿と、叫ばざるを得ない切なさに心震える思いがします。
10人が求めたのは、神の憐れみです。第15章で弟息子を抱き寄せたお父さんの憐れみです。神が腸を痛めて憐れんでくださる、神さまの特別な憐れみです。罪を赦し、病人を癒し、死人を生き返らせる憐れみです。
この10人の必死に憐れみを求める叫びは、旧約聖書の涙の預言者と呼ばれたエレミヤの祈りに重なります。エレミヤ書第17章14節です。
私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
主にだけ信頼し、主は、必ず、癒してくださる。救ってくださる。主こそ、私がほめたたえるべき神さまだと祈り告白しました。このとき、エレミヤは人間の罪深さが癒されるように、罪から救われるように祈っていました。少し前の9節にこう語っています。
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
エレミヤは預言者として、人の心の奥底にある罪を見つめています。「人の心は何よりもねじ曲がっている」。人の心はねじ曲がってしまい、まっすぐ神さまに向かうことができなくなっている。以前の第三版は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」。人の心は陰険で、闇は深く、治しようがない。マルティン・ルターは意訳ですが、人の揺れ動いてしまう心をよく言い表しています。「人の心は、つっぱっているか、いじけているか」。調子のよい時は強気だが、銚子の悪い時は弱気になる。私たちも心当たりがあります。新共同訳はこのように訳しています。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」。人の心は罪という病にかかって癒し難い。
聖書に、ツァラアトをはじめ病の人たちが、イエスさまに癒していただいた出来事が多く記されています。それらは、ただイエスさまは病を癒すことがお出来になるのですね。癒されてよかったですね。で、終わるために記されているのではないと思います。さまざまな病を通して、私たちの心の病、この私の罪の病と重ねて読むように求められていることは確かなことです。
10人の必死に憐れみを叫ぶ姿は、私たちの罪の癒しを求める魂を表しています。私たちに、神さまに憐れみを求める言葉として、10人の叫びや、エレミヤの言葉が与えられています。
私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
イエスさまは、10人の祈り叫ぶ姿を、神の深い憐みの目で見てくださいました。10人の心の痛みに共感して、心震わせ、腸傷め、憐れんでくださいました。14節。
イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
ツァラアトの10人は驚きました。えっ、祭司に見せなさい?触れてくださらないのですか。癒してくださらないのですか。そうか、触れないで癒してくださるのですね。はい、お言葉を信じて、祭司のところにまいります。ツァラアトは信仰的な病なので、聖められたかどうかは、医師ではなく、祭司が確認して、その後、7日間の聖めの儀式をするのです。
すると、祭司のところに行く途中で、10人みな、神の御手によって聖められました。イエスさまの癒しですから、10人の荒れ果てていた肌が一斉に一瞬で綺麗になったのです。みな癒された喜びの言葉を交わし合いました。ああ、ほんとうに綺麗になった。癒されたんだ。聖められたんだ。お前も綺麗になってるぞ。お前もだ。これで妻と子どもたちに会えるぞ。イエスさまはほんとうにすごいお方だ。イエスさまがおっしゃった通り、祭司のところに急ごう。
次の15節、16節が、まるで映画やドラマにあるような、今日の出来事のクライマックスです。ひとつの秘密も明らかになります。
そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
ここまで秘密のように明らかにしていなかったのですが、ユダヤ人の村にひとりのサマリア人がいたのです。そのサマリア人だけが、イエスさまのもとに引き返してきたのです。18節で、イエスさまは、このサマリア人を、他国人、つまり外国人とまでおっしゃって強調しているのですから、ここにイエスさまの強いメッセージがあります。
ツァラアトのユダヤ人たちが、サマリアの国境の村で生きていた。そこに、サマリアの社会から追い出された、ツァラアトのサマリア人が来たのです。9人のユダヤ人たちは、サマリア人を受け入れて、肩寄せ合って生きていたのです。同病相憐れむという言葉通り、敵対していた者たちが、共に受け入れあって生きる奇跡が起こっていました。
サマリア人も、自分が癒されたことが分かりました。この「分かる」のもともとの意味は「見る」です。14節の「イエスはこれを見て」の「見て」と同じ言葉です。この言葉は、来週のみ言葉の21節の注意を促す「見よ」としても用いられます。多くの日本語訳はこの「分かる」を「見る」と訳しています。サマリア人は、皮膚が癒され、肌が綺麗になったのを見ました。そこにとどまらず、綺麗になった皮膚の向こうに、神さまの御手を見たのです。ああ、神の御手が私のツァラアトを癒してくださった。だから、サマリア人だけに「見えた」という言葉を使っているのです。神の御手が見えたから、大声で神をほめたたえました。他の9人綺麗になった肌だけしか見えていませんでした。
どうして、サマリア人だけに見えたのでしょうか。神さまが働かれていたのです。ツァラアトの村でユダヤ人に囲まれて生きていたサマリア人はこう思っていました。もしユダヤ人たちが受け入れてくれなかったら、天涯孤独に生きて行かなければならなかった。病の苦しみと孤独に耐えられなくなって自殺していたかもしれない。ほんとうにありがたいことだ。サマリア人はツァラアトの絶望の中で、さらにへりくだった思いが与えられていたのです。この貧しい心に神さまが働かれたのです。イエスさまが「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」とおっしゃったことが実現していたのです。
サマリア人は、9人と別れて走り出しました。イエスさまのもとに急ぎました。イエスさまは旅をしておられる。早く行かなければ、もう、二度と会うことができないだろう。イエスさまは神さまにほかならない。急いで、イエスさまを礼拝させていただきたい。主の栄光をほめたたえさせていただきたい。綺麗になった肌に輝くような汗を流しながら、イエスさまの姿を求めて急ぎました。
サマリア人は、走りながら、大声で神をほめたたえました。神さまが、こんな者の病を、御手で癒してくださった。あふれる喜びをもって、神さまの栄光を褒めたたえざるを得ませんでした。13節で、10人は「声」を張り上げて憐れみを乞いましたが、サマリア人は、より大きな「大声」で神さまをほめたたえながら、イエスさまのもとに急ぎました。
私は、ふと、イエスさまは祭司に見せに行きなさいとおっしゃったのだから、イエスさまのお言葉に従うなら、祭司のところに急ぐのが正しいことではないかなと思いました。しかし、はっと気づきました。祭司は神殿の奉仕を通して神さまに仕えている。イエスさまは神ご自身であられるのだから、このサマリア人は、祭司の手を借りずに、神さまに、直接、感謝の献げ物をしに戻ったのだ。神に礼拝をささげる、これこそ最も大事なことだったのだと気づきました。へブル人への手紙では、イエスさまこそ祭司の中の祭司、大祭司と呼んでいます。
一方、9人は、ああ、イエスさまがほんとうに癒してくださった。イエスさまは祭司に見せるようにおっしゃっていた。すぐにでも家族に会いたい。子どもたちも大きくなっただろう。一刻も早く、祭司のところに行って、聖められた証明をもらって、7日もかかる聖めの儀式を終わらせよう。家族の顔を見てから、イエスさまにお礼をしに行こう。自分の思いが先に立ってしまっていたのです。でも、この9人も、イエスさまのお言葉を信じて、その言葉に従って、祭司のところに向かったからこそ、癒されたことも心に留めたいと思います。
引き返したサマリア人の目に、イエスさまのお姿が見えてきました。滑り込むようにしてイエスさまの足もとにひれ伏しました。クリスマスに登場する三人の博士たちも、幼子イエスさまにお会いした時、ひれ伏して礼拝しました。このルカの福音書の第5章で、漁師だったペテロは、イエスさまのお言葉に従って網を降ろして、神のみわざの大漁を経験しました。ペテロは、イエスさまの足もとにひれ伏して礼拝しました。あなたこそまことの神さまです。私のような罪深い者から離れてください。ここでもサマリア人は、神の御子の御前にひれ伏して礼拝しています。神を礼拝する心から、真実の感謝が生まれています。17節、18節。
すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
先週、弟子たちが「信仰を増し加えてください」とイエスさまに願いました。イエスさまはからし種の信仰を教えてくださいました。ここでも、イエスさまは周りにいる弟子たちに信仰を教えておられます。見よ、このサマリア人を。わたしを通して神にひれ伏して礼拝している。神にひれ伏すところから、神への感謝が生まれるんだ。これが信仰の原点だ。ですから、イエスさまは、19節で、サマリア人がひれ伏して礼拝し感謝したことを、あなたの信仰と言われました。この信仰に神さまが働かれて、ツァラアトの癒しだけではなく、救いが起きたのです。
それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
ルカの福音書には、あなたの信仰と、イエスさまに言われた人が、サマリア人以外に3人います。第7章の、罪を赦していただいた罪深い女の人。第8章の、12年間、長血を患っていた女の人。第18章の、目を癒していただいた物乞い。3人とも、自分に信仰があるとは思っていませんでした。それぞれ、涙でイエスさまの足を洗っただけ、イエスさまの衣に後ろからさわっただけ、必死に憐れみを求めただけです。それをイエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。このサマリア人も、えっ、あなたの信仰?私は、イエスさまのお言葉に従って祭司のところに行こうとしただけです。途中で癒していただいたので、感謝をもってひれ伏して礼拝をささげただけです。あなたの信仰と呼ばれるような大それたことは何もしていません。それでも、あなたの信仰と呼んでくださるのですか。恐れ多いことです」。
イエスさまは、サマリア人に救いの宣言をなさいました。9人はツァラアトを癒していただいたのですが、救いの宣言を受けていません。その違いはどこにあるのでしょうか。17節、18節のイエスさまのお言葉にありました。「神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか」。
「神をあがめる」という言葉は、もともとの言葉を直訳風にすると「神に栄光を与える」です。私たちの表現で言えば、「神に栄光を帰する」です。イエスさまは、神に栄光を帰することを9人にもお求めになっていたのです。サマリア人は神に栄光を帰したのです。神の御子であるイエスさまの足もとにひれ伏した姿は、あなたは神であられ、私はあなたに造っていただいたしもべですと、神の栄光をほめたたえている姿です。神への感謝も神に栄光を帰する心です。15節のサマリア人の「神をほめたたえ」という言葉は、栄光から生まれた、変な言い方ですが「栄光する」という言葉です。神に向かって曳航したのです。神に栄光を帰して、神の栄光を褒めたたえたのです。私たちの信仰の原点は、神に栄光を帰することです。
イエスさまご自身も神さまに栄光を帰し感謝して生きておられました。それは5000人の給食と呼ばれているパンの奇跡をなさったときによく表れていました。イエスさまは、まず、天を見上げて、神さまをほめたたえ感謝してから、パンを裂かれました。神さまに栄光を帰するところに神が働かれたのです。聖餐を定められた最後の晩餐でも同じでした。父なる神さまをほめたたえ感謝をささげてから、パンを裂き、杯を配られました。イエスさまは、心のうちでひれ伏して、私たちのために十字架で死なれることを受け入れて、父に礼拝をささげておられたのです。イエスさまに信仰の原点がありました。
私たちも、喜びにあふれている時にも、悲しみに打ちひしがれている時にも、イエスさまの御元に招かれています。十字架の主にひれ伏して礼拝する恵みに招かれています。日々、私たちは、たくさんの恵みをいただいています。数えきれないほどの罪を十字架の血で赦していただいています。イエスさまのみもとに立ち返って、神に栄光を帰して、ひれ伏し礼拝して、すべてのことに感謝して神をほめたたえましょう。イエスさまは足元の私たちを見て、立ち上がって行きなさい、あなたの信仰があなたを救ったと言って、立ち上がらせてくださいます。
サマリア人と9人との決定的な違いは、イエスさまに「立ち上がって行きなさい」と言っていただいたことです。サマリア人は、生涯、どんな困難に襲われても、この言葉に押し出されるようにして生きることができました。あなたの信仰と言っていただいた女性たちも、同じように、イエスさまに「安心して行きなさい」と言っていただいているのです。神さまは、礼拝の終わりに、ひれ伏している私たちに祝福を与えてくださり、「立ち上がって行きなさい」という言葉で私たちを押し出すように、主の足もとから日々の生活の場に遣わしてくださいます。お祈りします。
父なる御神さま。私たちは、日々、あなたの恵みに生かされています。しかしながら、あなたに罪を赦していただいても、あなたに栄光を帰して、ひれ伏し礼拝をささげることを忘れてしまっていることが何と多いことでしょう。信仰のない私たちをお赦しくださいますように。生活のただ中で、御前にひれ伏し感謝する心で生きることができますように。神に栄光を帰する喜びに生かしてください。大声であなたをほめたたえる日々でありますように。主イエス・キリストのお名前によって感謝し、祈り願います。アーメン
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