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「すかし絵は 救い愛の 証しです」

2022年5月29日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第13章31-35節


31 ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

32 イエスは彼らに言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。

33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』

34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」


詩篇第119篇130節はこう語ります。「みことばの戸が開くと光が差し 浅はかな者に悟りを与えます」。神さまが、今、み言葉の戸を開いて、御霊の光で照らして、このみ言葉の時を祝福してくださるよう、お祈りをささげてから説教を始めたいと思います。へブル書第13章20節21節の祝福の祈りです。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、

あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


子どもの頃、偽札が見つかった事件がたびたびニュースになっていました。ですから偽札を作りにくように細かい模様などを施して工夫しています。その技術はどんどん進んでいるようです。お札の真ん中には額縁のような楕円の空白があり、そこにそれぞれのお札の肖像の「すかし」が入っています。本来は「すき入れ」と言うようですが、そのままでは見えないので、思わず光に透かして見ると、しっかり肖像が描かれています。

説教の初めに、なぜ、「すかし」のことをお話ししたかというと、今日のみ言葉には十字架という言葉は記されていませんが、イエスさまの十字架が「すかし絵」のようにしっかり描かれているなと思ったからです。31から35節までの短いみ言葉ですが、十字架の重みをひしひしと感じさせるのです。

Ⅰコリント第13章12節にこういうみ言葉があります。


今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。


当時の鏡は金属を磨いたものですから、今のようにきれいには映りません。ぼんやりとしか映りませんでした。地上にいる間、私たちはこの目でイエスさまをはっきり見ることができないということを言い表しています。お札の「すかし」に似ているかもしれません。しかし、イエスさまが再び来られ、顔と顔を合わせ、くっきりはっきりイエスさまを見ることになります。そのとき、ああ、「すかし絵」は間違いなかったと思うことでしょう。

今はイエスさまがぼんやりとしか見えないかもしれませんが、「すかし」を光にかざすとよく見えるように、み言葉が御霊の光で照らされると、イエスさまの十字架が見えてくるのです。冒頭に「みことばの戸が開くと光が差し」というみ言葉を読みました。今、神さまがみ言葉の戸を開いてくださり、御霊の光で照らしてくださっています。私たちはみ言葉を聴きながらイエスさまの「すかし絵」を見ているのです。


さあ、御霊の光の助けによってみ言葉を聴いていきましょう。みなさんは、福音書を読んでいくなかで、ドキッとすることがありませんか。どんなときかと言うと、パリサイ派をはじめユダヤ社会のリーダーたちが、主イエスを殺そうとする言葉に出会うときです。イエスさまご自身、私たちを救うために十字架に架かられて死ぬことを予告しておられますが、たとえば「イエスを殺そうと狙っていた(ルカ19:47)」という言葉に出会うと、イエスさまを愛するがゆえに、ドキッとしてしまうのです。そういうイエスさまに対する殺意の言葉は思っている以上に多いんです。イエスさまの福音を告げ歩く旅は、殺意に囲まれていました。今日のみ言葉でも、ヘロデがイエスさまを殺そうとしているようですが、どんなことが起きているのでしょうか。

まず、ヘロデです。このヘロデは、イエスさまがお生まれになったときの王、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。ヘロデ大王の死後、ガリラヤとぺレアの地域を治める領主となりました。ヘロデはふたつのことで有名です。ひとつは兄ピリポの妻ヘロディアを略奪したこと。洗礼者ヨハネは、このヘロデとヘロディアの結婚は間違っていると非難し続けたので、ヨハネは捕えられて牢に閉じ込められてしまいました。もうひとつは、ヘロディアの娘サロメが、酒の席で見事に踊って見せたので、ヘロデは酔いに任せて褒美を与えると約束してしまった。母ヘロディアは、洗礼者ヨハネを憎んでいたので、サロメに洗礼者ヨハネの首が欲しい、と言わせた。ヘロデは心苦しかったが、約束した手前、ヨハネの首をはねさせて盆に載せて持って来させた。ヘロデは、この後、イエスさまは洗礼者ヨハネの生まれ変わりだといううわさを聞いて信じました。

このヘロデですが、とんでもない乱暴者と思われますが、ローマで教育を受けており、信頼できる歴史書に「静けさを好んだ」と紹介されている。実はヘロデは静かに暮らしたかった。兄から奪った女性と静かに暮らしたかったが、洗礼者ヨハネに騒ぎ立てられてしまった。ヨハネを殺して騒ぎを起こしたくなかったが、余興で殺す羽目になってしまった。なかなか自分の思い通りにはいかなかった。

イエスさまが洗礼者ヨハネの生まれ変わりなら、また面倒なことになり、騒がしくなってしまう。とっとと領地から出て行ってもらおう。そうすれば、もめごとが起きずに、静かに暮らせる、そう考えた。そこで、イエスさまを邪魔だと思っていたファリサイ人たちにイエスをガリラヤから追い出そうという話を持ち掛けた。私が殺そうとしていると言ってイエスを脅せば、洗礼者ヨハネのこともあり、恐くなって、慌てて領地から出てい行くだろう。ヘロデは自分は直接に手を出ないで、イエスを追い出す策略を提案した。パリサイ派の人たちも、邪魔なイエスを追い出して、自分たちの思い通りの生活を守りたかったので、すぐにヘロデと手を結んだ。このようなヘロデのずる賢さをイエスさまは見抜いていて、「狐」と言ったのです。

ヘロデは自分の思い通りに生きようとして、洗礼者ヨハネを殺したように、イエスさまも自分の前から取り除こうとした。パリサイ派に人たちも、神の御子を邪魔者扱いにして、ヘロデの策略に乗っかって、自分の思い通り、イエスさまに振り回されないで自分勝手に生きる道を守ろうとしたのです。

しかし、私たちも胸に手を当ててみると、自分の思いや感情を優先しようとして、神さまを脇に追いやってしまっていたり、気づかない間に無視してしまっていることがあるのではないでしょうか。自分の心の静けさを守るために、自分の立場を守るために、神の言葉に耳を閉ざしてしまおうとしていることがあるのではないでしょうか。

イザヤ書第53章6節のみ言葉が迫ってきます。


私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。


ヘロデやパリサイ派の人たちの姿に、私たちはみな自分勝手な道に向かって行った、という罪咎が浮き彫りになってくるのです。イエスさまは、なぜ、ユダヤ社会のリーダーたちに殺されなければならなかったのか、と思うときがあります。しかし、この問いの立て方は間違っていて、実は、私たちのすべての罪がイエスさまを十字架につけて、私たちがイエスさまを十字架で殺したのです。

イザヤのみ言葉を通して、イエスさまの十字架の「すかし絵」が見えてくるのです。ヘロデたちだけではなく、私たちの罪が浮き彫りになり、その罪が赦されるためにいのちを捨ててくださった十字架を御霊が見せてくださるのです 。

イエスさまはヘロデの策略とパリサイ人の思惑がひとつとなって、自分をガリラヤから追い出そうとしていることをご存じでした。イエスさまはパリサイ人たちにヘロデへの伝言を託しました。

ヘロデを「狐」と呼びました。痛烈な非難を込めた呼び名です。「わたしを追い出すために、自分は手を出さないで、パリサイの人たちを利用している、お前はずる賢い狐だ」。

とても不思議なことですが、イエスさまは、ヘロデを狐と呼んだ後、ご自分の十字架の死を予告なさいました。これまでは弟子たちだけに秘密を打ち明けるようにして話してこられましたが、ここでは、ご自分を策略にかけようとしたヘロデに、ご自分のなさっていることと目的を明らかにして、ご自分の死がどういうものかを告げられたのです。

イエスさまは、ヘロデにもパリサイ派の人たちにも、神を神としない恐ろしさに気づいて欲しかったのです。先週、狭い戸から入るように、イエスさまは招きの言葉を語られました。ここでもヘロデやパリサイ人にも、狭い戸から、十字架の戸から神さまのところに戻って来て欲しいという切なる願いがあったのです。でなければ、あえてご自分の死について知らせる必要ななかったのではないでしょうか。

「見なさい」と語りは始められました。「よく聞くがいい」ということです。「よく聞きなさい、わたしのやっていること、そして、やろうとしていることは、おまえの救いのためだ」とおっしゃって、ご自分のなさっていることを、こう言われました。「わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する」。「分かるか、悪霊が出て行くのも、病が癒えるのも、神の国がわたしとともにあるからだ。しかし、この働きは間もなく終えることになる。完了するのだ」。

この「三日目」は、聖書で三は完全数であり、また継続を表す慣用句です。悪霊を追い出し、癒しを行う働きは続けていくが、間もなく終えるんだ、ということを言い表しています。「わたしに与えられたこの地上での働きは、間もなく完了する」。

そして、「わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない」と、この地上での最終目標に向かって進み続けていることを語られました。そして最終目標を明らかにしました。「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ない」。きっぱり言われたのです。「わたしの最終目標はエルサレム、そこでわたしは殺される」。

ここにはヘロデとパリサイ派たちへのメッセージが込められています。「わたしはお前たちに脅されてガリラヤを離れるのではない。預言者としてエルサレムで死ぬためにガリラヤを去るのだ。十字架にかかって死ぬのは、お前たちが狭い戸から入れるようにするためだ。人間的な策略を捨てて、神の救いについてよく考えるがいい」。

イエスさまが、「今日と明日…三日目」そして「今日も明日も、その次の日」、と今日、明日、三日目あるいは次の日を繰り返されましたが、私たちの心に、イエスさまの何が起きても変わらない、私たちを救おうとする意志が鋼のように堅いこと、また、どんな妨害があっても、救いの道をまっすぐ進み続ける力強さが響いてくるのではないでしょうか。

それは「進んで行かなければならない」という言葉にも表れています。ここには「dei」という小さな言葉が語られているのですが、これは神さまのご意志を言い表すものです。エルサレムで死ぬのは神のご意志によって定められていること、誰にも阻止することも曲げることもできないことが言い表されています。イエスさまが私たちを狭い戸から入れるようにしてくださるのは、神のご意志であり、イエスさま自ら十字架に架かってくださる愛のご決意によるのです。

先週の説教で、86歳になられた横田早紀江さんが、4月20日に、松野官房長官に面会をして、どうにか工夫して、めぐみに会えるようにして欲しいと訴えたことをお話ししました。イエスさまのあきらめない愛をいただいて、めぐみさんを取り戻す活動を続けていることをお話ししました。

それから一か月後の先週23日、バイデン・アメリカ大統領が来日した際、バイデン大統領に面会したニュースが飛び込んできました。まさにイエスさまの鋼のような堅い意志をいただいて、めぐみさんを救い出すために進み続けておられるのだなと思いました。今日も明日も、その次の日も、めぐみを取り戻すまで進んで行かなければならない。

会見のとき早紀江さんと有本さんは高齢のために椅子に座っていました。バイデン大統領は、早紀江さんと目線を合わせるために膝をついて語りかけました。大統領はご自身が長男と長女を病気や事故で失っていることに触れて、早紀江さんに言いました。「子どもがいなくなった親の気持ちはよく分かります。協力します」。そして早紀江さんをハグしたそうです。紀江さんは感謝しつつ「子どもは親の宝です。必ず取り戻さなければなりません」と訴えました。イエスさまの「めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとした」というイエスさまの愛に励まされている言葉だと思いました。

イエスさまのご意志は鋼のようだと言いましたが、ただ堅いのではありません。主イエスの憐れみ深さが、同時にあるのです。憐れみ深さが鋼のように堅く強くいのです。しかもしなやかな強さです。それは「エルサレム、エルサレム」という語りかけに表れています。エルサレムはイスラエルの民のことであり、イスラエルは信仰の民ですから、私たちへの呼びかけでもあります。神さまはアブラハムを呼ばれるときも、モーセを呼ばれるときも、パウロを呼ばれるときも、名前を二度繰り返して呼ばれました。それは深い愛の呼びかけでした。ヘロデもパリサイ派も民衆も、そして私たちの罪もイエスさまを十字架で殺そうとしますが、それでも、イエスさまは深い愛をもって、救いのための狭い戸を指し示そうとして、エルサレム、エルサレムと二度呼んでおられます。

エルサレムの歴史は預言者を殺す歴史でした。預言者は神の言葉を、神さまから預かって、神さまに代わって人びとに告げる使命を負っていました。預言者を殺すということは、神の言葉を否定する。自分勝手に生きるために、神の言葉をないものにする。神の言葉を殺すのです。旧約聖書の歴史の中でも、たとえば、預言者エレミヤも何度も殺されそうになりました。先ほど話した洗礼者ヨハネも預言者と言われていましたが、ヘロデに殺されてしまいました。そして、今、預言者の中の預言者、最後の預言者として遣わされたのが、イエスさまです。イエスさまを殺すことは神の言葉を殺すことです。しかし、人びとは思い通りに生きることを確保するために、神の言葉を殺そうとしている。しかし、イエスさまはご自分の使命だと受け止め、私たちの救いを完了しようとして、エルサレムの十字架を目指して進み続けておられる。

エルサレム、エルサレム、どうして、おまえたちは自分の思い通りに生きようとして、わたしの言葉を、神の言葉を聞かないで、神さまのもとから迷い出てしまうのだ。滅びに向かっているのが分からないのか。わたしはおまえたちを、何度も、何度も、わたしの翼の下へ、救いへと招き続けてきたではないか。どうして拒むのだ。わたしはあなたを愛している。

イエスさまは、ご自分の愛を「めんどり」にたとえておられます。これは旧約聖書を通して、神さまの愛を表すたとえです。めんどりがひなを集める。ひなが親鳥の翼の下に逃げ込む。神さまのお守りを表しています。

今日のみ言葉から考えると、ただのお守りではなく、救いです。イエスさまは、狭い戸を通って救いの翼の下に入れるようにしておられるのです。エルサレム、エルサレム、狭い戸から入りなさい。あなたがわたしの翼の下に入れるように、わたしは十字架であなたがたの罪のために殺されて、あなたの罪の赦しを実現します。わたしは十字架の上で両手を広げます。よく見てご覧なさい。あなたを招くための翼に見えてくるでしょう。

今週のローズンゲンのみ言葉を開いて驚きました。ヨハネの福音書第12章32節です。


わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。


わたしは十字架の上で両手を広げて、すべての人を、わたしの両腕の翼の下に引き寄せます。


見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(35節)


イエスさまが十字架に架かれるためにエルサレムに入場した時に、人びとはこの「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」という言葉をもってイエスさまを迎え入れました。

しかし、その時だけの言葉ではありません。非常に厳しい預言ですけれども「おまえたちの家は見捨てられる」という言葉は、西暦70年に、エルサレムの街も神殿も、ローマ軍によって壊滅的に破壊されてしまったことによって実現してしまいました。

ですから、この賛美を言う時というのは、イエスさまが再び来られる再臨の時です。ここには再び来られるイエスさまのお姿が「すかし」のように描かれているのです。

あなたがたがわたしの十字架を見て、あるいは弟子たちの伝道の言葉を聞いて、再臨の前に狭い門から入っていて欲しいという願いです。あなたがたと再び会った時に、あなたがたから「自分たちは狭い戸から入り損ねてしまいました」という報告は聞きたくない。わたしはあなたの策略によってではなく、あなたの救いのためにエルサレムに向かうのだから。


説教の初めに十字架の「すかし」が入っているようなみ言葉だと言いました。そして再臨のイエスさまの「すかし絵」も描かれていました。ここまでくると、もうひとつの「すかし」に気づかされると思います。「三日目に働きを完了する」というみ言葉です。これはルカがイエスさまの復活をほのめかして書いたものだ、復活のイエスさまの「すかし」のようなものだ、と多くの人が理解しています。私もそう思います。なぜなら、イエスさまは甦られて、今日も、明日も、その次の日も、私たちを御翼の下に集めようとしておられるからです。ひなはめんどりの翼の下になかなかじっとしていません。私たちも自分勝手にさまよい出てしまいます。それでも甦られた主が、こうしてみ言葉の下に、御翼の下に私たちを集めてくださっています。私たちは御翼の下で力をいただいて、イエスさまといっしょに、今日も、明日も、その次の日も、救いを求めている人を招き続けるのです。

お札の「すかし」は本物のお札であることを証明します。私たちが御霊によって見ている「すかし」はみ言葉が描いたものです。ただの消えてしまう儚い夢ではありません。イエスさまが真実に生きておられる証しです。御霊はみ言葉を照らし、私たちにイエスさまの今日も、明日も、次の日も進み続けるお姿を、希望が見えない時にこそ、見せてくださいます。

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