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「さあ、来たれ!神の国の食卓へ」

2022年6月19日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第14章15-24節


15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

16 するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。

17 宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。

18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』

19 別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』

20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

21 しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』

22 しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』

23 すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。

24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」


新約聖書に収められている愛の手紙をたくさん書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って祝福のお祈りをささげてから説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節のお祈りです。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


安息日の礼拝で、イエスさまは説教の奉仕をなさいました。そして、その地域のパリサイ派の指導者に昼食に招かれました。その食卓に呼ばれていた「客の一人」が、晴れ晴れとした思いで、イエスさまに向かってこう言いました。15節。


イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」


この昼食会は、パリサイ派の指導者が催した会ですから、招かれた客は、パリサイ派、律法の専門家の人たちが多かったでしょう。それと指導者の招きですから、外のユダヤ人たちも身分の高かったことでしょう。どちらにしても、この人は、信仰のしっかりしたユダヤ人であることは間違いのないことです。どうしてこのような発言をしたのでしょうか。「これを聞いて」です。この「これ」は、先週の説教で聞いた12節からのイエスさまのお言葉を指しています。ただし、この人は、どうも最後の言葉に感動したようです。14節後半。


あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。


ユダヤ人は、自分たちは、神に選ばれた神の民である。その証しに律法の言葉、旧約聖書の神の言葉をいただいている。旧約聖書の中に、それほど多くはないけれども、義人の復活について語られている。たとえばヨブ記第19章25ー26節です。


私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。 私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。


これはヨブが聖霊によって語った、預言の言葉に等しい言葉です。「贖う方」。私を「贖う方」は、私を救うために一度死ぬけれども、甦られて、土のちりの上に立たれる。そして、ちょっと乱暴な言い方に聞こえますが、自分のことをこう言います。「私の皮が剥ぎ取られた後に」。つまりこれは「私は死んだ後」ということ。私は死んだ後に、贖う方のよって、私は甦って神を見ることになるんだ。復活信仰を語っています。ユダヤ人たちは、神さまは自分たちを義人、正しいと認めてくださるのだから、必ず、復活させていただけるという復活信仰を持っていました。ですから、主イエスのお言葉を聞いて喜んだわけです。やっぱり、そうだ。われわれは義人として復活させていただくとき、神に従って生きた報いを受け取ることができるんだ。何と幸いなことか。晴れ晴れとした思いで叫ぶように、イエスさまに言いました。

しかし、このユダヤ人は早とちりをしています。主イエスがおっしゃった言葉を理解してはいませんでした。13節に語られているような、食事会に招いてもお返しができないような人たちを見下しているところから出てきなさい。あなたは神のあわれみを失っている。そのことを聴き取っていませんでした。ただ神の民であることで救われていると勘違いしていることを指摘されたのです。そこでイエスさまは、わたしの招きをしっかり理解するようにという思いで、譬えを話されました。16節


するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。


「宴会」というと、日本では、飲み会などと言われますが、お酒中心の会のイメージが強いと思います。この「盛大な宴会」は、素晴らしいメニューの食事会というイメージです。すでにみなさんも気づいておられると思いますが、この食事会は天の御国の神の食卓が譬えられています。飲み食いというよりも神さまとの豊かな交わりを表しています。日本人には、宴会というよりも祝宴と呼んだ方がふさわしいかもしれません。盛大な祝宴。「盛大」という言葉は「メガ」という言葉を訳しています。「メガ」は、単に大きいというよりも「巨大」という意味を持っています。メガホンやメガトンパンチのような言葉があります。調べてみますと、基礎となる単位の百万倍の大きさだそうです。私たちがイメージする祝宴の100万倍ほどの食事会をイメージするといいのかもしれません。この世の食事会の規模を超えていますから、すでに御国の食卓であることが見えてくるでしょう。ですから「大勢の人」も、この盛大な祝宴に見合ったメガな多人数です。


宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。


どんな料理が用意されたのでしょうか。豪華な料理が並べられたのでしょう。準備は整いました。あとは招待客を待つだけです。招待の方法ですが、私たちも、たとえば結婚披露宴を予定したなら、まず手紙やはがきなどで案内して、出欠の返事をもらいます。この当時も、祝宴を催すとき、あらかじめ、一度、案内をします。ですからここでしもべが遣わされたのは、初めの招きがあって、出席しますと答えた人たちのところです。

しもべはこう言って二度目の招きをします。「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」。もとの言葉を直訳すると「来なさい、なぜなら、今、準備ができたから」。ここは文語訳が味わい深いと思います。「来(きた)れ、既に備(そなわ)りたり」。文語訳の聖書が用いられていたころ、聖餐の食卓への招きの言葉としてよく読まれていました。イエスさまの肉と血、パンと葡萄汁をいただく食卓にこの言葉で招かれたのです。「来れ、すでに備わりたり」。イエスさまの御声に聞こえたことでしょう。「さあ、おいでください。お招きしていた通り、食事の用意ができました。どうぞ、ご馳走を楽しんでください」。18節


ところが、みな同じように断り始めた。


初めの招きに応じて出席しますと言っていた人たちが、みな断り始めました。メガいっぱいの人たちが招かれていたのですが、みなです、招かれたすべての人が断ったのです。出席すると答えていたのですから、断ることはとても無礼なことです。何と言って断ったのか、そのなかの代表の3人の言葉が紹介されています。

初めの二人は、畑や牛を買ったことを理由にしています。これを読んだ多くの人は、すでに買ったのだから祝宴に来ることができるはずだ、招きを断る理由になっていない、とても無礼だと理解しています。しかし、3人目の結婚したばかりの男性はこう言って断っています。20節


また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』


前の2人は、「どうか、ご容赦ください」と言って、丁寧に断っているのですが、新婚の夫にはその丁寧さがありません。まるで、断るのが当たり前のような言い方なんです。これには理由があるんです。結婚したばかりの夫に対する、とてもユニークな規定が旧約聖書にありました。申命記第20章5節です。


人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。


現代、この規定があるなら、みんなに喜ばれることでしょう。新婚さんは、兵役が免除されたのです。おそらく、ユダヤ人は、後継ぎの男の子が生まれることがとても大事なことでした。だから新婚さんに特別に子作りの時間を与えていたのです。このころの祝宴は一晩中続くのはあたりまえ、結婚の祝宴などは1週間続くものもあったのです。新婚の人が祝宴に出席したら妻のもとに帰ることができません。この規定には「迎えた妻を喜ばせなければならない」夫に「何の義務も負わせてはならない」と定められています。新婚さんは祝宴の招きを断っても大丈夫なのです。断る理由として認められていたのです。


なるほどと思っていたところ、先のふたりについてこのような説明をしている資料がありました。一人目の招きを断った言葉はこうでした。18節です。


畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。


「畑を買った」。私たちが畑や土地を買うとしたら、その土地を下見してから決めるのが当然の手順です。しかし、私たちには奇妙に思えるかもしれないけれども、当時、畑を見る前に、おそらく話だけで購入することを決めて、その後、畑を見に行って、聞いていた通りの畑だと承認したなら、購入の手続きが完了するという形式があったそうです。ですから「見に行かなければなりません」というのは「見に行く必要があります」という意味の言葉です。「必要」だったんです。購入の手続き上、畑を見に行くことが欠かせなかったんです。このことは旧約聖書に規定されているわけではありませんので、初めの人は、心苦しいのですが購入の手続き上、どうしても見に行く必要があるのです。申し訳ありませんが、「どうか、ご容赦ください」と丁寧に断っているのです。当時の社会では、招きを断る理由として認められていました。二番めに招きを断った人の言葉はこうでした。19節。


五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。


くびきは基本的には二頭の牛をつなぐものですから、一くびきは牛二頭、ですから五くびきは牛十頭です。牛は畑を耕すために購入します。牛の購入も、畑と同じように、牛を見る前に話だけで購入を決めて、その後、牛が話し通りかどうかをテストをして承認すると、購入の手続きが完了するのです。ですから畑の購入と同様、招きを断る理由として認められていました。

そうすると、招きを断った人たちの代表の3人が3人とも、招きを断る正当な理由があったのです。このように正当な理由があったのだと考えたとしても、あるいは二度目の招きを断るのは大変な無礼にあたると考えたとしても、思い起こしてほしいことがあるのです。先ほども確認しましたが、イエスさまが神の食卓を譬えておられる譬え話です。この祝宴に主催し招いておられるのは神さまです。神さまはどんな方でしょうか。

先ほどの3人の断った理由ですが、一人目が畑ですから財産、くだけて言えばお金や貯蓄と言ってもいいでしょう。二人目が農作業に使う牛ですから、仕事です。三人目が結婚ですから、家庭です。財産、仕事、家庭。これらは私たちの今の生活にも必要であり、私たちにとってもとても大切なものばかりです。

神さまはどんな方でしょうか、と尋ねました。神さまは、私たちの財産、仕事、家庭を軽んじておられません。私たちの生活に欠かせないことを知っておられます。財産、仕事、家庭はすべて神さまから与えられるものであり、その祝福の源は神さまにあるのです。

ですから、大切なのは順番です。神さまを第一にするときに、財産も仕事も家庭も祝福されるのです。マタイの福音書第6章33節を思い越してみましょう。


まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。


神さまを第一にするときにこそ、必要なすべてを神さまが与えてくださいます。私たちの生きるためのすべての必要が満たされるのです。神の国と神の義を求めなさい、ということは、今日のイエスさまのお言葉から考えると、神さまの招きを第一にしなさいということです。食卓ですから飲み食いのことをイメージしますが、やはりその本質は神さまとの交わりです。交わりの中で神さまが、財産についても仕事についても家庭についても、最もふさわしい導きの言葉を語ってくださるのです。そこからすべての祝福が始まるのです。神さまの祝福が生活の中に流れ込んでくるのです。神さまを後回しにすると、祝福が注がれるのを妨げてしまうのです。

ですから、このイエスさまのたとえ話の要は、神さまの招きを断らない、です。

これは何も祝宴だけではありません。この礼拝も安息日の祝宴です。私たちは経験しています。友人や家族を、どうぞ、礼拝へ来てくださいとお招きすると、今は困ったことがないから、仕事が忙しいから、夫が妻が反対するからと、断られることがあるのです。でも、私たちは、礼拝への招きは、神さまの祝福への招きだと知っていますから、あきらめずに招き続けています。今、私たちは、コロナ禍にあって、神さまに招く知恵を祈り求めています。


それだけではありません。私たちの生活の中での神さまとの交わりに深く関わっています。神の国の食卓への招きだと理解すると、この地上を終えてから行くところとイメージしてしまいますが、毎日の生活の中で、私たちは招かれているのです。メガな盛大な祝宴ではないのですが、ささやかな、しかも祝福にあふれている食卓に招かれているのです。ヨハネの黙示録第3章20節です。


見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


食卓です。見よ、ですから、ほら耳をそばだててご覧、と言うことです。注意してイエスさまが心の戸をノックしている音を聞いてご覧と言われているのです。イエスさまがあなたと食事をしたい、親しくおしゃべりをしながら食事をしよう、と招いておられるのです。イエスさまは、私たちの生活の中で、絶えず、私たちの心の戸をノックしておられるのです。

私たちは、イエスさまの招き、み言葉の交わりへ、祈りの交わりへの招きをしっかり聞いているでしょうか。ノックの音が聞こえているでしょうか。聞こえてきても、あれをしなければならないから、仕事が忙しいから、家族の世話があるからと、いろいろな理由を挙げて、「どうか、ご容赦ください」と招きを断っていないでしょうか。それどころか、いろいろな理由をつけて、耳を塞いで、ノックの音を聞かないようにしてはいないでしょうか。イエスさまが、私たちの毎日の生活に、交わりを通して、祝福を注ごうとしておられるのに、妨げてはいないでしょうか。熱心に私たちを招いておられるのに、冷たくあしらってはいないでしょうか。主との食事の交わりは、御国に行くまで待たなければならないのではなく、すでに、私たちの生活のただ中にあるのです。その食卓で、イエスさまは私たちにふさわしいみ言葉をくださるのです。高ぶりから降りよう、わたしといっしょに十字架の低みに立とう、愛し合おう、仕え合おう。神さまの祝福に満ちたいのちの言葉をくださろうとしておられるのです。罪の誘惑から救い出そうとしておられるのです。ノックの音が聞こえたら、イエスさまといっしょに食事をしましょう。イエスさまはいつもあなたを招いておられます。


イエスさまのたとえ話に戻ります。21節


しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』


「主人は怒りました」。招きを断った人たちに対して怒りを燃やしました。この怒りは、私は正しいと思うんです。神さまはお怒りにならないというイメージもあるかもしれませんが、神さまは、メガな盛大な救いの祝宴を備えられたんです。どうしても罪人を救って、神の食卓に着かせたいんです。しかし、愛の招きを断わられてしまった。この怒りはただの怒りではありません、この怒りは悲しみでもあるのです。神さまを悲しませてしまったのです。

誰も来ないので、席はすべて余っています。主人はどうしたかというと、しもべに言いつけました。


急いで町の大通りや路地に言って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。


しもべの招きを受けて、祝宴に来た人たちは、びっくりしたでしょう。俺たちでいいんですか。えっ、こんな身なりで入っていいんですか。こんなご馳走、目がくらくらしてしてしまいますよ。食べていいんですか。ああ、何て美味しいんだ。生きててよかった。俺たちを受け入れてくれる人がいたんだ。俺たちを愛してくれる人がいたんだ。

この人たちのことはすでに13節で語られていました。体の不自由な人、足萎えの人、取税人、不道徳な仕事をしている女性、病人、悪霊に着かれた人、私たちと同じ罪人。イエスさまの周りには、いつもこのような人たちがいたのです。イエスさまが食事に招いていっしょに食卓を囲んでいたのです。21節は、イエスさまがこの世でなさったことを語っている。

そうすると、たとえ話の全体が見えてくるんです。ここには神さまの救いの歴史が隠されている。初めのしもべの招きを断った人たちは、旧約聖書で預言者の招きの言葉を拒否したユダヤ人たち。そして、イエスさまがこの世に来られユダヤ人の貧しい人たちといっしょに食事をされた。さらに救いの歴史は続きます。22節23節。


しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』

すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。


この「街道や垣根」は、ユダヤ人の枠を超えることを意味しています。神さまの救いへの招きは、ユダヤ人を超えて異邦人に及ぶのです。私たちの救いがここに語られていたのです。

主人は最後にこう言われました。「わたしの家をいっぱいにしなさい」。神さまの大きな大きなメガな救いの愛があふれている言葉です。わたしは神の国には座る席がいっぱいあります。人が考えている百万倍の、一千万倍の、数え切れない席を用意している。「来れ、すでに備わりたり」という天の祝宴への招き御声を、私たちは礼拝への招きとして聞いています。教会は、ここに聞こえてくる主の招きを、この町に家庭に友人に響かせたいのです。主が「わたしの家をいっぱいにしなさい」と願っておられるからです。私たち自身、主に招かれて救われたからです。お祈りします。


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