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「からし種ほどの信仰 あればいい」

2022年8月14日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第17章1-10節


  イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。

  その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。

  あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。

  一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」

  使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」

  すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、

あなたがたに従います。

  あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、

『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。

  むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。

おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。

  しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。

10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、

『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」


 新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を祈ってから語り始めていました。パウロに倣って、みなさまの祝福を祈ってから、説教を始めたいと思います。大牧者イエスさまの祈り、へブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


 毎年、夏の松原湖に行くのが楽しみでした。信徒の時は、キャンパーとして、神学生や牧師になってからは奉仕者としてです。どのような形で参加しても、たくさんの恵みをいただいてきました。

キャンプを終えるとき、それぞれがいただいた恵みを持ち寄って、閉会の集会を持ちます。集会の最後のところで、キャンプのために奉仕していたワーカーたちが前に並びます。朝早く起きて、トイレ掃除をしていたグランドワーカー。食事を作っていたキッチンワーカー、事務の仕事をしていたオフィスワーカー。20人ぐらいのワーカーたちが、キャンパーの前で、声を合わせて、こう言います。


私たちは取るに足らないしもべです。なすべきことをしただけです。ルカ第17章10節


キャンパーたちはワーカーたちの嬉し恥ずかしそうな姿を見て、とても感動します。ワーカーたちが、賑やかなキャンプの陰で、黙々と働いていたのを見ていたからです。ワーカーたちのみ言葉の響きに、イエスさまのしもべとして仕える喜びがあふれていたんです。


 イエスさまは、弟子たちに向かって、この10節のみ言葉がよく分かるように、7節から譬え話をしてくださいました。主人としもべがいます。この家は、主人としもべの二人だけのようです。ひとりのしもべがすべてをやらなければなりません。この「しもべ」という言葉は、もともと奴隷という言葉で書かれています。奴隷に仕えさせることは、今の時代には考えられないことですが、当時は、ふつうのことでした。雇人ならば、働いた分だけ、給与を払わなければなりません。しかし、主人は奴隷をお金を払って買ったのですから主人のものです。主人の自由に使うことができますし、給与を支払う必要も、感謝する必要もありません。

 しもべは、主人に命じられて、昼間は、くたくたになるまで畑を耕したり、羊の世話をします。仕事を終えて、家に帰っても休むことはできません。8節。


むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。


これは主人にとって当然のことです。奴隷は、主人が命じられた通りに、忠実に仕えなければなりません。そして、譬え話を終えたイエスさまは、弟子に向かって、これが主人に忠実に仕えるしもべの姿だ言われました。10節。


同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」


 この「取るに足りないしもべ」という言葉は、主人に命じられたことを果たすことが十分にできなかったように聞こえます。しかし、「命じられたことをすべて行ったら」とあるのです。このしもべは、主人に命じられたことは、忠実にすべて行います。

 この「取るに足らない」という言葉は、このほかに「資格がない」という意味があります。奴隷は、主人に命じられたことはすべてしたとしても、主人から給与をもらったり、ほめられる資格はないということです。イエスさまは、弟子たちに、報酬や感謝や称賛を求めるな、ただなすべきことをしなさい、と言われたのです。

 現代の社会を生きている私たちには、なかなか想像できない言葉だと思います。私たちは働いたなら報酬を求めるからです。仕事に対する報酬だけではなく、自分が話したこと行ったことに対して、人の評価が欲しいんです。ほめられたいんです。しかし、イエスさまは、弟子たちに、「なすべきことをしただけです」という、しもべの心で生きなさいとおっしゃる。

 弟子たちの主人は、もちろんイエスさまです。イエスさまは、弟子たちに、わたしが主人だ、わたしの命じることは黙って従えと、おっしゃりたかったのでしょうか。イエスさまを信じている私たちもイエスさまの弟子、イエスさまのしもべですから、この言葉は私たちに言っておられるのです。イエスさまは、文句ひとつ言わないで、黙って従えと、私たちに命じておられるのでしょうか。


 11節に「イエスはエルサレムに向かう途中」とあります。イエスさまは、エルサレムの小高い丘に立てられる十字架を目指して歩んでおられます。私たち弟子の罪のために、いのちを捨てることを心に決めておられるのです。イエスさまは、弟子たちにこうおしゃりたかったのです。「父なる神さまは、あなたがたを救おうと決めておられる。わたしは父の忠実なしもべ。あなたがたの救いを十字架で果たします。忠実なしもべとはどういう心で生きるか、どういう姿で生きるか、十字架に架かったわたしの姿を目に焼きつけて、忘れないで欲しい」。

 弟子たちは、イエスさまから今日のしもべの譬えを聞いたとき、十分に理解することはできませんでした。しかし、ほどなくイエスさまの十字架で死なれるお姿を見ることになります。そして、主が甦られた後、御霊によって、弟子たちひとりひとりがこう思った。「ああ、イエスさまは神の忠実なしもべとして、神さまの御心に従って、私を救うために、十字架の死にまで従われたんだ。イエスさまこそ、神の御前で、『取るに足らないしもべです。なすべきことをしただけです』とおっしゃったのだ」。

 弟子たちは、イエスさまが天に昇られてから、イエスさまの言われた通り、心に十字架のイエスさまを刻んで、忠実なしもべとして、伝道し、教会を建て上げて行きました。多くの弟子たちは、迫害を受けて、主のしもべとして殉教しました。ペテロは、主人のイエスさまが十字架でみ苦しみを受けたのだから、しもべの私はもっと苦しまなければならないと言って、逆さ磔に架かって主のもとに帰って行きました。このとき、ペテロは心の内で主に向かってこう言ったでしょう。「取るに足らないしもべです。なすべきことをしただけです」。

 これはかつての弟子たちだけの話ではありません。イエスさまを信じてイエスさまを愛している私たちも、イエスさまの弟子です。私たちの主人はイエスさまです。私たちは、迫害されて十字架に架かることはないかもしれませんが、教会はもちろん、職場で、学校で、家庭で、主人イエスさまに従うしもべとして、今、生きています。しもべには給与が支払われるわけではありません。誰にも評価されないのです。しかし、私たちのすべての言葉とわざを、主人イエスさまが知っていてくださいます。譬えの主人は人間でしたが、私たちの主人イエスさまは、神の御子です。私たちに命じるすべてをすることを、私たちが果たすことのできる力も賜物も信仰も希望も愛も、御霊によって与えてくださいます。ああ、私たちの言葉もわざも、私のためにいのちを捨ててくださった主人からいただいたものだと、主に仕え続けていくなかで、すぐに分からなくても、だんだん、分かってくるのです。そして、天に帰るとき、イエスさまの言葉に合わせるようにして、「取るに足らないしもべです。なすべきことをしただけです」と言わせていただけるのです。


 イエスさまのしもべという言葉から、マザー・テレサを思い浮かべる人が多いと思います。少し前になりますが、教会学校の時間に、マザー・テレサについて何週か続けてお話をしたことがありました。そのとき分かち合うことができなかった、私の大好きなマザー・テレサの言葉を紹介したいなと思いました。マザー・テレサは、愛の実践が評価されて、1979年にノーベル平和賞を受賞しました。そのときこう言いました。

 「画家が賞を取ったとき、人はその画家を褒めるでしょ、絵筆を褒めることはないでしょ。だから私を褒めないでね。私は神さまの御手の中にあるちいさな鉛筆にすぎないの。神さまが考えられる通り、神さまが愛の絵を描いたり、愛の手紙を書かれるの。」

 イエスさまがおっしゃったしもべの姿を言い表す言葉だなと思います。鉛筆が、自分勝手に絵を書き出したら滅茶苦茶な絵にしかなりません。主のしもべの私たちもこう言えるのです。「私は神さまに握っていただいている鉛筆」。そしてこう祈ります。「主よ、どうぞ、あなたのしもべとして御心のまま愛を描くことができるよう助けてください。」。

 この譬えを聞いたときの弟子たち、イエスさまの十字架を経験していませんので、主のしもべ、主の鉛筆になり切ることができていませんでした。弟子たちは、たびたび、自分が偉い、自分が正しい、自分こそ評価されるべきだと言い争っていたのです。マザー・テレサの言葉で言えば、鉛筆の長さを競い合っていたのです。また、みんな個性豊かな違う色の色鉛筆なのに、自分の色の方が素晴らしいと主張していたのです。神さまは、すべての鉛筆を用いて、大きな救いの愛を描こうとしておられるのに、互いの違いをさばき合って、いがみ合っていたのです。


 1節から4節の言葉で言えば、弟子たちは、つまずき合っていたのです。赦し合うことができなかったのです。だから、イエスさまは、3節前半で、「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。」と言われました。

 気をつけるべきことのひとつは、「つまずき」です。私たちは信仰の道を歩いていますが、つまずきは、道を歩いていて、石か何かにけつまずいて倒れそうになる、ひどいときには転んでしまうことです。イエスさまは、驚くようなことをおっしゃいました。1節2節。これは弟子たちに向かって言われていますから、弟子たちの群れである教会に対するイエスさまのお言葉です。


イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。


「つまずきが起こるのは避けられません」。イエスさまは私たちの欠けや弱さを知っていらっしゃる。「教会でつまずきが起こるのは致し方ないことだ」。私たちは少し肩の荷がおりるような気がします。しかし、同時に「つまずきをもたらす者はわざわいです」と、厳しく戒めて、さらに恐ろしいことを言われました。「弟子たちよ、つまずきをもたらすなら、この世の終わりの日に、神さまの厳しい裁きに遭うことになる。神の裁きよりも、ひき臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれる方がましだ。気をつけなさい」。


 「船の右側」という牧師向けの月刊誌があります。6月号は「つまずき」についての特集をしていました。3人の牧師がそれぞれの視点から語っているものでした。

 ひとりの視点は説教です。隠退した牧師のところに、いろいろな教会の役員から「牧師の説教が聞くに耐えない」という涙ながらの相談が来るということから語り出しています。ふたり目は、父親の後を継いだ二代目牧師。誰もが、牧師やキリスト者や信仰について理想を持っているので、現実とのギャップにつまずいてしまうと語っています。3人目の牧師は、実例を挙げながら言葉によるつまずきを取り上げて語っていました。3人の牧師は、つまずきをそれぞれ視点から、希望は捨てていませんが、つまずきを解決するのはなかなか難しいと口を揃えていました。だからイエスさまはずばり言っておられる。「つまずきが起こるのは避けられません」。しかし、そこに甘えてはいられないのです。ひき臼を首に結び付けられなければなくなるからです。どうしたらいいのでしょうか。途方に暮れてしまいます。

 ひとつ明らかなことは、学校の先生につまずくと言ったり、会社の上司につまずいたという表現は、あまり聞きません。つまずきは教会特有の現象なのです。教会は、義務でもなく、雇用関係でもなく、信仰によって成り立っています。つまずきは、信仰に結びついて起こるのです。

 弟子たちは、ひき臼のことや、赦し続けなければならないことを聞いて、自分たちの弱さや愚かさや罪深さを考えると、自分の知恵や力では、どうすることもできないことだと思いました。もう神に頼るしかない、神にお願いするしかないと確信したのです。信仰の原点に立ち返ったのです。叫ぶように、主に願い求めました。5節。


使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」


 ルカは、突然、ここで弟子たちを使徒と呼びました。これは弟子たちがイエスさまの復活の証人となって、教会に仕えるようになったときに与えられた呼び名、職の名前です。つまり、つまずきが起こることや、赦し続けることは、教会のいのちに関わるとても大切な問題だと、ルカは捉えていたからです。

 使徒たちは、ああ、自分の信仰は小さいから、もっと大きくしていただかないと、解決できない。あまりに弱いので強くならなければ、どうすることもできない。自分は信仰が足りないから信仰を増し加えてください。私たちの叫びです。信仰の量を増やしていただきたいと願ったのです。

 しかし、イエスさまは、きっぱり信仰は量の問題ではないと言われました。6節。


すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。


からし種は、種の中で最も小さなもので、息を吹きかけても飛んで行ってしまうほどです。見た目には無いにも等しい大きさなのです。イエスさまは、信仰は無きにも等しいからし種ほどの信仰でいいとおっしゃった。18メートルも深く根を張る桑の木に対して、「根元から抜かれて、海の中に植われ」と命じてご覧、その通りになる。不可能だと思うことが、からし種の信仰があれば、可能になるとおっしゃったのです。イエスさまは、からし種の信仰があれば、つまずきをなくすことも、永遠に赦し続けることも、可能になるとおっしゃった。


 イエスさまは、十字架を目指して進んでおられると言いました。その前の晩、弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と言われました。ペテロは胸を張って言いました。「たとえみながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」。しかしながら、イエスさまが十字架につけられるために捕らえられたとき、弟子たちはみな、イエスさまを見捨てて逃げて行きました。イエスさまにつまずいたのです。決してつまずかないと言ったペテロもつまずきました。

 十字架で死なれ墓に葬られたイエスさま。しかし、三日の後、死人となられたイエスさまに神の力が働きました。イエスさまを死から甦らせてくださったのです。人間に最も不可能なことを、神さまはなさいました。甦られたイエスさまは、つまずいていた弟子たちを訪ねてくださいました。弟子たちは、とても驚きました。十字架で殺されたイエスさまがここに生きておられる。神さまが働かなければ、イエスさまが甦られることはあり得ない。神さまにおできにならないことはないんだ。弟子たちは神さまが働かれたことを信じました。そこにからし種の信仰が生まれました。ああ、神さまは死人を甦らせることがお出来になるのだから、「桑の木が海に植わる」ことはたやすいことだ。

 弟子たちは、教会を建て上げて行くとき、教会の中に、そして自分自身の中に、赦せないつまずきが起こることも多かったのです。しかし、無に等しいからし種の信仰に、神が働かれることを信じて、歩み進み続けました。


 先週、少し丁寧に紹介しましたマルティン・ルターは「信仰は私たちのうちにおける神の働きである」と言いました。信仰は、私たちがどれだけ多く持っているかではなく、神の働きが信仰だということを知っていたのです。無に等しいからし種の信仰のことです。教会の信仰を解き明かしているハイデルベルク信仰問答も、聖書に記されている本物の信仰とは、どういうものですかという問いに対して、聖霊が私たちのうちに引き起こすものだと語っています。私たちのうちに、み言葉とともに聖霊なる神が働いて、信仰のない心に、聖霊が引き起こしてくださるのが信仰なのです。からし種の信仰は、私たちの所有物や力量ではなく、私たちのうちに神が働かれることを信じる信仰です。

 譬え話のしもべは、主人が命じることのすべてをします。私たちは、主が言われることをすべてすることができるのかなと、不安に思ってしまいます。つまずきを起こさずに生きるのは無理だなと疑ってしまいます。永遠に赦すことができるのかなと、自分の無力さに心が向いてしまいます。しかし、そんな私たちに、イエスさまはおっしゃるのです。「あなたがみ言葉を聞いているとき、神さまが働かれて、よく分かるようにしてくださっている。そのとき甦って生きているわたしと出会っているのです。そこでからし種の信仰が生まれている。桑の木に、つまずきに、罪の赦しに、命じてごらんなさい。海の中に植わります」。

私たちは、生涯の終わりを迎えるとき、黙々と仕えていたワーカーたちのように、喜んで言うのです。「取るに足らないしもべです。なすべきことをしただけです」。お祈りします。


 父なる神さま。私たちは、主人イエスさまに仕えているしもべです。あなたに握られている鉛筆です。しかし、日々、あなたに仕えながら、困難の壁が立ちはだかって、右往左往してしまう者たちです。どうか、私の欠けや貧しさによって引き起こしてしまうつまずきをお赦しくださいますように、赦せない心を溶かしてくださるようお願いします。主よ、日々、み言葉を通して、無きに等しい、しかし、あなたが働かれるからし種の信仰を新しくしてくださいますように。からし種の信仰で、なすべきことをなすことができますように。あなたのしもべではなく、ただただあなたの栄光だけがほめたたえられますように。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン


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