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「あなたに あわれみ深い 天の父」

2022年7月17日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第15章25-32節


25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。

26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。

30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」


新約聖書にはたくさんの愛の手紙が収められています。その多くを書いた伝道者パウロは、いつも神さまに教会の祝福を求めてから語り始めています。それに倣って、みなさまの祝福のためにお祈りをささげてから、説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節の大牧者イエスさまのお祈りです。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


イエスさまは、先週の11節から始められた譬え話で、神さまについて、神さまの愛について、神さまと私たちを父と子の関係に譬えて語っておられます。私たちにとって最も分かりやすい譬えだからです。先週、主の恵みによって、私は誕生日を迎えることができました。子は父に似ると言われますが、ますます父に似てきたなと思わされています。単純過ぎるかもしれませんが、私たちは神さまの子として父なる神に似ることになるのでしょうか。このことも頭の片隅に置いて、み言葉を聞いていきましょう。


あるお父さんにふたりの息子がいた。先週は弟息子に集中しました。今日のみ言葉は兄息子について語られています。ふたりの息子の譬えは、弟息子が中心に考えられることが多く、説教されないこともあるのですが、今回、説教を準備していて、兄息子にも深いメッセージが託されていると思いました。先週、自分は弟息子だと思ったと同じように、自分は兄息子でもあると思わされたのです。聖霊の助けをいただいて、イエスさまの譬えの要をしっかり聞き取らせていただきましょう。


25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。


兄息子は、この日も、畑で一所懸命に働いていました。農作業です。へとへとにくたびれていたでしょう。家に辿り着くと、何やらにぎやかな音楽が聞こえてきました。踊りも踊っているらしい。大きなお祝いに違いない。何事だ。この家の家長はお父さんだが、自分は跡継ぎの長男だ。しかも、お父さんは、高齢で家にいるようになったから、私が先頭に立ってこの家を治めている。この私に断りもなく、祝宴を催すとはけしからん。いったいどういうことだ。お兄さんは、自分が無視されていると思い、イライラし始めています。


26それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。


そこで、しもべを呼びつけて、この騒ぎはなんだ、何をしているんだ、と問いただしました。しもべは、お父さんの喜びを知っているので、喜んで報告しました。


27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

27すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。


お兄さんは怒りました。「何、あの放蕩息子が帰って来ただと、それで肥えた子牛を屠っただと!」。家に入ろうともしませんでした。もう暗闇が迫っていました。家には煌々と明かりがついています。しかし、闇の中に佇む兄息子。心の中は怒りの嵐が吹き荒れ、憤りの波が逆巻いています。


それで、父が出て来て彼をなだめた。


すると、お父さんが家から出てきました。当時の家長である父親が、息子がいじけて家に入らないからといって、家から出てくることはあり得ませんでした。お父さんは、弟息子に駆け寄ったように、家に入らない兄息子のところに、家を出て駆け寄ったのです。


イエスさまは、弟に駆け寄ったときのお父さんの心を20節でこう語っていました。「かわいそうに思い」。この「かわいそうに思う」は、何度かお話したことがありますが、福音書、特にルカの福音書では、神さまとイエスさまの深いあわれみを表す言葉としてとても大切に使われています。この言葉は、内臓という言葉から生まれたので、古い日本語訳では「腸痛む」と訳されていました。私たちも身近な人が重い病にかかったり、困難に遭ったりすると、痛み悲しみに共感して、胸が痛むほど、心配して祈ります。お父さんは、弟息子を見て、内臓だけではなく、全身が痛んで震えるほどにかわいそうに思ったのです。弟息子の痛みに共感してくださったのです。お父さんは、兄息子が怒ってしまい、家に入らないことを知って、同じように「かわいそうに思って」駆け寄ってくださったのです。


11節から始まったこの譬えには、弟息子と兄息子が、対照的に語られていますが、お父さんは、どちらも同じように愛してくださっているのです。ふたりを比較して優劣などつけていません。ふたりの能力の差、これまでの功績、性格の違いなど、一切関係ないのです。ふたりとも自分の子どもとして、わが子として、それぞれにふさわしく愛しているのです。


これはとても大事なことです。お父さんは神さまを表しているからです。私たちは他の人と比較して、どれほど心のエネルギーを使っているでしょうか。疲れ果てていることでしょうか。幼いころから、他の子どもと比較され、小学校に入れば、行動も成績も比較され、そして自身が他の人と比較することを覚え、それが一生続くのです。しかし、天の父は、比較しません。一人ひとりをそのまま受け入れてくださいます。一人ひとり、愛して造ってくださったからです。しかし、私たちのうちには、決して捨てることができない、壊すことができない、人と比較してしまう心の仕組みがあるのではないでしょうか。


お父さんは、兄息子を深くあわれんで、なだめました。「なだめた」と訳された言葉は、これも聖書ではとても大事な言葉です。「慰める」とも訳される言葉です。そばに呼ぶという言葉です。そばに呼ばれたら、大きな声は出しません、優しく慰めるのです。イエスさまは聖霊なる神さまを慰め主と呼ばれました。神の聖霊は私たちのそばに来てくださって慰めてくださるのです。同じように、お父さんは、兄のそばまで出て来て慰めたのです。


しかし、兄息子に慰めは届きませんでした。かえって怒りを爆発させて、お父さんに文句を言いました。


29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。


「お父さん、忘れたんですか。私はずっとお父さんに仕えてきたんですよ」。兄息子は、仕えるという言葉を、奴隷のように仕えるという意味の言葉で不満をぶつけています。しかし、兄息子は、お父さんに愛されていることが分からずに、「自分は奴隷のように、言われたことに逆らわずに従って来たじゃないですか。愛されてなんかいない」と言ったのです。とても切なくなってしまいます。


兄息子は、お父さんのそばにはいるのですが、その心は、お父さんの愛から遠いところにいたのです。弟息子もお父さんに愛されていることに気づかずに、遠い国に行きました。ふたりの息子の譬えは、弟息子を指して「放蕩息子」と呼ばれているのですが、その意味からいうと「ふたりの放蕩息子」と呼んだ方がふさわしいのです。弟息子も兄息子も、その心は、お父さんの愛から遠く離れていました。


この譬えは、イエスさまがパリサイ人たちや律法学者たちに語られたものです。パリサイ人たちは、イエスさまが罪人たちと食事をしていたのを見て、「聖書の先生が罪びとと食事をするなど、とんでもない」と文句を言ったからです。イエスさまは、罪人たちを弟息子に譬え、今、父のもとに帰って来て、祝いの食事をしているんだ。そして、兄息子は、パリサイ人たち、あなたがたのことだとイエスさまはおっしゃっているのです。あなたがたは、罪人たちが神に立ち返ったお祝いをしているのを見て、腹を立てて、文句を言っているからだ。あなたがたの心は、天の父から遠く離れている。しかし、天の父が、この譬えであなたがたをなだめておられるのが分かりますか。


「あなたの戒めを破ったことは一度もありません」。兄息子は、自分の正しさを訴えました。これもパリサイ人たちの主張と一致します。自分たちは律法を破ったことがない。自分たちこそ正しい神の民なのだ。これはキリスト者も陥りやすいものです。自分はイエスさまを信じているから正しいんだ、信じていないこの世の人たちが間違っているんだ、と切り捨てることがあるからです。


兄息子は続けてこう言いました。


29 その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。

30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。


よく分かる憤りです。兄が怒ってもおかしくないのです。この世の理屈から言えば、間違いないのです。「お父さん、弟は、お父さんがまだ生きているのに、お父さんの財産を、むしり取って、遊女たちと遊んで食いつぶしてしまったんですよ。帰って来るのは仕方ないとして、1年なり、2年なり、奴隷として働かせて、反省させないと駄目でしょう。それなのに、祝い事のために大切に育てて来た子牛を屠って祝宴を開くのはおかしいでしょ」。兄息子は弟について怒っているのですが、その矛先はお父さんに向いています。「お父さん、あなたに仕えてきた私には、子やぎ一匹くださったこともなかったじゃないですか」。肥えた子牛を屠ってもらった弟息子と子やぎももらえないことを比較しています。怒りと共に、妬みがわいてきています。子牛を屠らせた父を恨んでいます。


兄は弟を弟とは呼んでいません。「そんな息子」です。原文では「このあなたの息子」と物のように呼んでいるんです。それだけではなく、原文で読むと、お父さんという言葉はありません。あなたという言葉です。このあなたは、父に対する親しい呼び方ではないのです。兄の心の中では、父とも弟とも愛の関係が切れてしまっているのです。兄はお父さんのそばにいながら、心はお父さんから遠くはなれているので、怒りがこみ上げてきたのです。


私たちの心も、神さまから離れていると、怒り、嫉妬、妬み、不満、自己主張、自己憐憫があふれてきます。私たちは、先週、弟息子がお父さんに抱きとめられたことを味わい、ああ、自分は弟息子だと告白しました。しかし、私たちが胸に手を当てて、振り返ってみると、自分の意見が通らなかったり、自分が評価されなかったりして、不満に思ったり、怒ったことはありませんか。他の人が上手くいっているのを見て、嫉妬したことはありませんか。あるいは、他の人と比べて、優越感に浸ったり、自分を卑下したことはありませんか。もし、そのようなことがあるのなら、お父さんの腕からすっとすり抜けて、兄息子になっているのです。少し変な言い方かもしれませんが、弟息子が、せっかく着せてもらった衣を着たまま、はめてもらった指輪をはめたまま、履かせてもらった履き物をはいたまま、兄息子になっているのです。私たちのうちに、弟息子もいるし、兄息子もいるのではないでしょうか。


31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」


お父さんは、兄息子に言いました。「子よ」。お父さんは、兄息子を子どもとして取り戻そうとしておられます。愛の絆を回復しようとしておられます。お父さんは兄息子に語りかけているのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。「おまえはいつも私と一緒にいる」。兄息子よ、私は父としておまえといっしょにいるんだ。おまえは決して奴隷ではない。息子を愛してやまないの父であることを知ってほしい。「私のものは全部おまえのものだ」。父のものは子のものなんだ。私はおまえにすべてを与え尽くす父なんだ。「おまえの弟」、お父さんは、兄の弟との関係も回復しようとしています。どうか、弟として迎えてやって欲しい。弟は死んでいたのに、生き返ったんだ。いなくなっていたのに見つかったんだ。いっしょに喜び祝ってほしい。


イエスさまは、ここでこの譬えを終えています。兄息子が、お父さんの慰めを聞いて、弟息子を喜んで迎えて、いっしょに祝ったのか、あるいは、頑なまま、弟息子を弟と認めなかったのか、語られていません。結論は、読む私たちに委ねられているとも言えますし、私たちが兄息子として、どちらを選択するかを問われているのかもしれません。


兄息子が、どのような選択をしたか、ひとつの手掛かりがあります。イエスさまは、パリサイ人たちや律法学者たちに対してこの譬えを語られたことです。つまり兄息子としてのパリサイ人たちや律法学者が、イエスさまのメッセージを受け取ったかどうかです。パリサイ人たちと律法学者たちは、この後、弟息子と譬えられた罪びとを受け入れたということを福音書は語っていません。かえって、パリサイ人たちと律法学者たちは、イエスさまに対する嫉妬と怒りをますます燃やして、イエスという男は神を冒涜していると訴え、十字架に追いやってしまいました。


非常に悲しい心痛くなる結末です。しかし、これこそが父がすべての子どもたち、私たちを迎え入れるただひとつの救いの道でした。イエスさまの十字架の死は、ただ罪びとと蔑まされている人たちだけのためではなく、パリサイ人たちや律法学者たちのための死でもありました。父なる神さまは、弟息子も兄息子も、息子として、ご自分が造られた子として愛しておられるからです。イエスさまは父の深い憐れみによって、すべての人の罪を負って、十字架に架かってくださったのです。弟息子の父から離れた罪も、兄息子の父に不平を言い、イエスさまを十字架に追いやった罪も、すべて負ってくださったのです。イエスさまは譬えを語りながら、パリサイ人たちのたましいに語りかけておられました。「わたしはあなたがたの罪を喜んで負って、十字架にかかることにしている。わたしの十字架の死を見たなら、この譬えを思い出して欲しい。父のあわれみ深い愛を受け取って欲しい。父の懐に飛び込んで欲しい」。


私たちは、先週、弟息子に自分を見出しましたが、お父さんは弟息子に駆け寄りました。そして、今日、兄息子が自分の中にいることを思いましたが、お父さんは兄息子のところにも駆け寄りなだめました。この譬えの要は、お父さんにあります。弟息子に、兄息子に、腸傷めて駆け寄るお父さんが要なんです。お父さんのあわれみ深さが要です。先ほど「ふたりの放蕩息子」というタイトルを考えましたが、実は、「あわれみ深いお父さん」というタイトルがふさわしいのです。


私たちは、天の父の深い憐れみに包まれて弟息子として生きているのです。しかし、私たちが、自分のうちに怒りや嫉妬や妬みや不平や自己主張を見出したなら、兄息子になっていることに気づかなければなりません。ああ、今、父のもとから迷い出て、兄息子になっている。兄息子の自分に出会ったら、弟息子のように、父の腕の中に立ち返って、イエスさまの十字架のあわれみによって、罪を赦していただくのです。私たちは、弟息子として父の腕の中に生きているか、兄息子にように心が父から離れてしまっているか、どちらかでしかありません。私たちは、振り返ると、兄息子のである時間のほうが断然に長いのではないでしょうか。父のもとから迷い出て、そして父のもとに立ち返る。弟と兄を繰り返しながら、天の父のもとに引き寄せられていくのです。ひとつのみ言葉が思い起こします。ルカの福音書第6章35―36節です。


しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。


神さまは恩知らずの者にも、悪人にも憐れみ深い。今日のみ言葉から考えるなら、家を出てしまった弟息子を、お父さんに文句を言ってしまう兄息子を、お父さんは体が引きちぎられるように心痛めて深くあわれんでくださいました。そして、私たちは弟息子と兄息子を繰り返しながら、主の十字架によって、父の憐れみ深さをたくさん経験してきました。何度も父の憐れみ深い愛を受けながら、私たちは父の憐れみ深さに似せられてきているのです。いや、父があわれみ深いように、私たちも、あわれみ深くなれることを、イエスさまが約束していてくださるのです。これがこの譬えの奥深さであり、私たちに与えられた大きな恵みの約束です。


天の父は、この礼拝を通して、私たちに駆け寄って、抱きとめていてくださいます。私たちは、兄息子としての怒り、妬み、恨み、不満、不要な欲望、それだけではなく、神から離れているときの不安や恐れやいら立ちも、ここでイエスさまの十字架につけているのです。悔い改めているのです。父は、週毎の礼拝で、私たちの悔い改めを通して、私たちを憐れみ深い者に造り変えておられます。私たちは神さまの子どもです。子どもは父に似てくるのです。お祈りします。


父なる神さま、あなたは私たちとともにいてくださいます。それでも罪深い私たちは、あなたから遠く離れ、兄息子になってしまいます。怒り、憤り、妬み、恨み、不満の虜になってしまうのです。しかし、あなたは深い憐れみによって駆け寄り、イエスさまの十字架の赦しによって、子よ、と呼んでくださり、あなたのもとに取り戻してくださいます。何度も迷い出て、何度も立ち返させられる愚かな者ですが、その繰り返しの中であなたに似せてくださる恵みに恐れを覚えます。しかし、私たちのたましいも憐れみ深いあなたのようになりたいのです。どうか、あなたがあわれみ深いように、あわれみ深くなることができますように、十字架の愛で助け導いてください。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン


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