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「あなたが座るのは 上座か下座か」

2022年6月12日 礼拝説教 後藤弘牧師 ルカの福音書第14章1-14節


1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。

2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。

3 イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。

4 彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。

5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」

6 彼らはこれに答えることができなかった。

7 イエスは、客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された。

8 「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれません。

9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』と言うことになります。そのときあなたは恥をかいて、末席に着くことになります。

10 招かれたなら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのとき、ともに座っている皆の前で、あなたは誉れを得ることになります。

11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

12 イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。

13 食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。

14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」


伝道者パウロは説教としての愛の手紙をたくさん書きましたが、いつも祝福の挨拶から始めています。それに倣って祝福の挨拶をしてから説教を始めたいと思います。へブル人への手紙第13章20節21節です。


永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、

あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。


新約聖書が記されて、2000年ほど経っています。古い本と言えば、そう言えるかもしれません。しかし、私は読むたびに全く古びていないと思わされます。かえって新しいとさえ思うのです。どうしてでしょうか、み言葉が私の心に刺さるからです。説教は見える形としては、みなさんに語る姿をしていますが、説教の準備の中で、み言葉はまず私に語り掛ける、いや、私を砕く神の言葉なのです。新しい言葉というよりも私を新しくする言葉だということを、毎週、経験させていただいています。


先週、説教について語り合うためのズームに参加していたら、そばで遊んでいた小学2年生の孫が、ふと、説教って怒ることなの?と聞いてきました。小学校でやんちゃな男の子が先生にお説教されたような場面に出くわしたのかもしれません。ううん、イエスさまの素晴らしさをお話しすることだよ、と短く説明したら納得したような顔をしていました。でも、内心、はっとしていました。ある牧師は、牧師たちが語る説教を、説教という言葉に翻訳したのは正しかったのかなと問題提起をしたことがありました。やはりお説教というイメージがつきまとうからです。ヘブル人への手紙は、もともとは説教だったのではないかと言われています。このヘブル書で「慰め」とか「励まし」と訳されている言葉は、説教と訳すことができるのです。そのようなことから考えると、教会が語る説教は福音・良い知らせと名づけてよかったのではないかと思っています。ですから、ちょっと中途半端かもしれませんが、週報のプログラムの「説教」の項目を「福音説教」と書くようにしました。今日も、私たちを慰め、励まし、新しくする神の言葉として、イエスさまの福音を聞いていきましょう。

イエスさまは、十字架に架かられるために、私たちの救いのために、エルサムに向かっています。旅の途上の安息日、いつものようにユダヤ教の会堂で礼拝し、いつものように説教の奉仕をなさいました。礼拝後、おそらくイエスさまに説教の奉仕を依頼した者が、ここではパリサイ派の指導者だと思われますが、イエスさまを家で催される昼食会に招きました。「イエスさま、説教のご奉仕ありがとうございました。つきましては昼食をご用意いたしました。安息日ですから、火は使えないので、たいそうなごちそうは用意できませんが、どうぞ、私の家に来て召し上がってくださるようお願いします。1節


ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。


そこにはイエスさまをじっと見つめている人たちがいました。イエスさまとパリサイ派の人たち。これまで、何度も何度も安息日について激しい論争をしてきました。私たちは、先週、ペンテコステの喜びの礼拝をささげました。聖霊はペンテコステの祭りの日に来られました。ペンテコステの祭りをはじめとするユダヤ教の三つの大きな祭りは、レビ記の第23章に定められています。興味深いことに、一番初めに書かれている祭りは安息日なのです。ユダヤ人にとって、毎週の安息日の礼拝は大事な大事な祭りなんです。レビ記に書かれている順番から言うと、三つの祭りよりも安息日の方が重みがあったのです。パリサイ派の人たち、旧約聖書の言葉を実践することを重んじて生活している人たちにとって、安息日は私たちが考えている以上にとても大事なのです。律法の代表的な十戒で、安息日には一切働いてはならない、と戒められていますから、生真面目に、火を使って食事を作ることを禁じていました。面白いことに、今日のみ言葉の食事は「パンを食べる」という言葉で書かれています。火を使って料理できないので、パンが中心の食事になっていたのかもしれません。また安息日に歩く距離を定めたり、生命の危険が伴う緊急な病気以外は癒すことも禁じました。

それに対して、イエスさまは、ひとつ前の第13章でもそうですが、安息日に、緊急な治療が必要とは思えない病を、たびたび癒してこられました。パリサイ派の人たちは腸が煮えかえるほどの怒りに達していました。そのようにしてイエスという男を、失脚させようか、と機会をうかがっていました。過激な人たちはイエスさまを殺そうとさえ狙っていました。

ここでも、「人々はじっとイエスを見つめていた」。イエスさまをやり込めることができるような、律法違反やミスを見つけようと目を皿のようにして見つめていたのです。2節


見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。


そう考えてくると、この水腫の人は、パリサイ派の人たちが、イエスさまを陥れようと、連れてきたのかもしれません。3節にはそのような彼らの思いを読み取って、イエスさまが挑戦状のようにパリサイ人や律法の専門家に語っています。

「見よ」。驚きを伴った言葉です。「よく見てご覧なさい!」水腫の人が食事会の場にいるではないか。なぜ、驚いているのか。水腫自体は病気ではありません。心臓や腎臓に障害があると、手足などに水が溜まる、ひどい時には全身に現れる症状なのです。この当時は、水腫は病気であり、しかも罪に対する審きと考えられていたのです。当時の慣習として、このような昼食会には、語り合われる言葉を聞くためでしょう、招かれていない人も周りを囲むようにして立って聞くことは、ある程度許されていたようです。しかし、病、それも汚れているとされている水腫の人は入ることは、本来、できないのです。パリサイ派の人たちのイエスさまを陥れる企てがあったから、入ってくることができたのだと、多くの人が考えています。

イエスさまはパリサイ派の人たちの思いを見抜いて、ずばり挑戦状を叩きつけました。3節


イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。


元のギリシャ語を大切にして訳すと、「かなっている」という言葉が「正しい」という言葉で書かれているので、「安息日に癒すのは律法的に正しいことが、正しくないことか」。この人を癒しすのは「正しいか、正しくないか」と迫ったのです。

パリサイ派の人たちは、答えることができなかった。黙っていました。これまで、イエスさまとの安息日論争で手痛い目に遭っているので、下手に言葉を出すことができませんでした。4節


彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。


「その人を抱いて」、他のほとんどの日本語訳も英訳も「抱いて」ではなく「手を取って」と訳しています。私たちの新改訳だけが「抱いて」と訳しました。確かに、少しオーバーな翻訳かもしれません。でも、私はいいなと思っています。水腫の人は、体調が悪いだけではなく、周りからお前は汚れている、何か大きな罪を犯したんだろう、と非難され、こっちへ来るな、と仲間外れにされ続けてきました。体だけではなく心も痛んでいたんです。さらに、今、健康な人たちの食事会の真ん中にさらし者のように立たされている。もう死んでしまいたいと呻いていたのだと思います。

そんな人を、イエスさまは抱いてさし上げた。病だけでなく、心まで癒されたのです。そして、さらし者にされるような食事会に、もういる必要はない、達者で暮らすんだよ、と帰してくださいました。そして、イエスさまは彼らの律法と生活の矛盾を突きました。5節


それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」


あなたがたは、自分の息子が井戸に落ちたのを見たなら、どうしますか。決して放っておかないでしょ。安息日でも緊急事態だから許されるなどと、考える前に、走って行って、救い上げるでしょ。腸が痛むほどかわいそうと思って、死なせるわけにはいかないと思うからでしょ。わたしがしたことはそれと同じなんですよ、分かりますか。またしても、彼らは答えることはできませんでした。


ここまでは、イエスさまがパリサイ派の人たちにじっと観察されていましたが、今度は、イエスさまがパリサイ派の人たちの行動に目をとめて、たとえを話されました。8節から11節までです。このたとえ話は、結婚の披露宴に呼ばれたときの心得のようなものを語っています。私たちが催す披露宴は席順を決めてあります。ただしこの席順はたいへんやっかいで頭を悩ました経験をしている人も多いと思います。当時の披露宴の席順は決まっていなかったようです。このたとえ話は一度読んだだけで分かるものです。自ら上座に坐っていると、後から身分の高い人が来て、席を譲らなければならなくなって、恥をかくぞ。末席に低くなって坐っていれば面目躍如、周りから高い評価を受けることになる。

私たちはこのたとえ話を聞いて、少なくともふたつのことを考え始めると思います。ひとつは、たとえば、結婚式や何かの会合に招かれたとします。自分は下座の方の席に案内された。ふと上座の方を見ると、何と、自分より若い者や自分よりも立場が低い者がいたとします。そんなとき、ああ、私は末席に招かれただけでも、ありがたいことだ、と思うでしょうか。多くの人はそうではないと思います。顔では笑っているかもしれませんが、内心、面白くないのではないんです。何で、自分が末席なんだ。自分は正しく評価されていない。ぶつぶつぶつぶつ、つぶやきが止まらないのです。

このようなことは、会合だけの問題ではありません。人生においても起こり得ることです。あの人はやることがみな上手くいって上座で生き生きとしているように見える。それなのに自分はやることなすことが上手くいかず、下座でくすぶっているような人生だ。そのように他の人と比較をして、不平をつぶやいてしまう。自分では意識していないのですが、実は、神さまに文句を言ってしまっていることになっているのです。私自身、ほんとうに気をつけなければならないと思います。

もう一つのことは、日本人はみんな末席に坐ることを心得ている。会合でもエレベーターでさえも、どうぞ、どうぞと言って、自分は末席でいいですから、あなたさまが、どうぞ、上座についてください。たまに自分から上座に着こうとする人もいるけど、だいたいは、譲り合ったり、遠慮し合ったりして、下座に着こうとする。でも、ほんとうに自分は末席にふさわしい人間だと納得しているのではないと思います。イエスさまもおっしゃっているように、まず自分を低くする、それが道徳であり、礼儀であり、美徳でさえある。そうすれば自分の評価が高くなるし、人とトラブルを起こさないで上手く生きる知恵なんだ。あるいは末席で卑屈になったり、ふてくされてしまっている人もいるかもしれない。それはそれで神さまを信頼していない不信仰の姿です。


しかし、ほんとうに、イエスさまは、人間関係に摩擦が生じないように生きるための知恵、あるいは処世訓を教えておられるだろうか。そうではないと思います。イエスさまは私たちが知らぬ間に上座に招かれることを欲している私たちの心をご存じなのです。こう言い換えることができるでしょう。私たちはいつも人の評価を求めているのです。絶えず人の評価が気になってしょうがないのです。そのような私たちが考えることと、イエスさまが考えておられることは、天地ほどの差があるのです。11節


だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。


イエスさまがここで求めておられるのは、ほんとうに低くなることです。ほんとうに低くなる。この11節の「低くする」という言葉はもちろん「道徳的に低くする」という意味です。もとの言葉であるギリシャ語も「へりくだる」という意味だと教えてくれます。「低くする」「へりくだる」。「謙遜」「謙虚」です。旧約聖書に「へりくだる」を、11節をふさわしく解き明かしているみ言葉があります。イザヤ書第57章15節です。


いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。

「わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。

へりくだった人たちの霊を生かし、 砕かれた人たちの心を生かすためである。


神さまがおっしゃっているのです。わたしはいと高く、聖なる永遠の住まいに住んでいる。しかし、同時に、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たち、心が折れ、落ち込んでいる人たちの霊と心を生かすために。どのようにして、高く聖なる天に永遠に住んでおられる方が、へりくだった人と共に住むことがおできになるのか。御子イエスさまが天から降りて来られ、低く低く、私たちよりも低く、へりくだられたからです。十字架の死まで低くなられたからです。神さまは、イエスさまにおいて「自分を低くする人」と共に住んでくださるのです。

だからと言って、イエスさまは、私たちに、立派な人になることを求めているのではありません。さあ、謙遜を謙虚さを身につけて、頑張って低くなってご覧なさい、と言っておられるのではありません。

上座だ、下座だと言って、自分の評価を高めようとするところから出て来い、と言っておられるのです。自分を高く評価してもらうために、自分を低くするようなところから出て来なさいとおっしゃっている。出て、どこへ行くのか。イエスさまのところに行くのです。イエスさまが招いておられるのです。わたしのところまで降りて来なさい。わたしがいる低さにいっしょに立とう。あなたもへりくだりなさい。そのように私たちが低くなったとしても、へりくだったとしても、ひとりぼっちの孤独を味わわなければならないというのはでないのです。もっともっと低くなられたイエスさまがおられるのです。私たちがほんとうに低くなるなら、人の評価が気にならなくなるのです。そこにイエスさまがおられるからです。

そして、イエスさまが待っておられる低みに立つことができたなら、それまで見えなかったものが見えてくる。私たちの目を曇らせていた人からの評価が消えて、神さまの高さが見えてくるのです。いと高いところにおられる神さまの聖さと永遠の祝福が見えるのです。神さまの憐みの大きさ高さが見えるのです。低くする人が、へりくだった人が、高く引き上げられるのは、低いところからだけ見える神さまの憐みのなかにおいてです。人間が持っている力や頑張りによって高くなるのではありません。神の憐れみだけに支えられて高くされるのです。神さまの憐みの中では人のおごりや高ぶりは消えてなくなっているのです。イエスさまはこの低さに招いておられるのです。私たちは自分の力で、ほんとうに自分を低くすることはできません。ほんとうに低くなるには、評価が気になる自分から出て、イエスさまの低さに飛び込んでいくしかないのです。

すると、そこで初めて、水腫の苦しみが見えてくるのです。水腫の人の苦しみを使って、イエスさまを罠にかけようなどということが、どんなに愚かなことであるかがよく分かるのです。

しかし、このパリサイ派の愚かさは、私たちとかけ離れていることではありません。決して無縁だということはできないのです。なぜなら、私たちが胸に手を当てて、このように振り返ると見えてくるのです。私たちはイエスさまによって救われました。イエスさまが死ぬまでの愛で愛してくださった。だから、救われた者として正しく生きたい、愛の人として生きたいと思った。そういう私たちが、気をつけなければならないのは、その正しさにおいて、その愛において、上座に座ることを願ってしまう心が現れてくる経験したことがあるのです。初めは真心を込めて始めたつもりでも、立派なクリスチャンだと認められたい、いいキリスト者だと評価してもらいたい、上座に坐りたい、と願ってしまう自分が現れてくるのです。ですから、人の苦しみのために心を砕いていると思っているところで、この人の苦しみがほんとうに見えているのか、神さまの前に、人の前に、自分の評価を上げようとしていないか。いつも神さまの鋭い目で吟味していただかければならないと思います。自分が本当の低さに立っているのか、イエスさまがおられる低さなのかを、神に問うていただくのです。そして、いつもイエスさまの低みに飛び込んでいくんです。

2節で水腫の人は、イエスさまの前にいたと語られていました。イエスさまと水腫の人が顔と顔を合わせています。そのときイエスさまの心にどんな思いがあふれていたのか。5節は、イエスさまがパリサイ派や律法学者たちに対する挑戦状の言葉と言いましたが、これはイエスさまご自身の水腫の男に対する憐れみの深さを語っておられたのです。


それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」5節

あなたがたは、この人の苦しみが分かるか。あなたがたの息子が井戸に落ちて、今にも死にそうになって苦しみもがいているのと同じなのが分からないか。イエスさまの心はこの人を死の苦しみから引き上げてあげたい憐れみであふれていました。だから、すぐに抱き止めてくださったのです。抱いて癒されたのです。このイエスさまの憐れみが見えるなら、今日の13節のみ言葉を、イエスさまご自身が実践しておられることが分かってくるのです。13節


食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。


わたしは、この食事会の末席にも招かれないような低い人たちを招きに来たんだ。わたしに憐れみがあふれてきて、そうせざるを得ないんだ。あなたがたは体の病ではないかもしれないが、神の憐れみを失っているではないか。それはあなたがたが罪で汚れているからだ。そのままでは神の食卓の末席にも着くことはぞ。しかし、イエスさまは、憐れみを失った罪びとを十字架の低みに引き寄せるために来られました。神の憐れみに飛び込んで低くなってほしい。憐れみを取り戻して欲しい。そうすれば、あなたたちが欲している神の正しさに生きることができる。終わりの日に、あなたがたは義人としての復活の恵みをいただいて、イエスさまの真ん前の特別な席に着かせていただけるのです。さあ、イエスさまのもとに行きましょう、イエスさまの十字架の低みに飛び込みましょう。イエスさまが招いて、あなたが来るのを今か、今かと待っておられます。両手を広げて、あなたをしっかり抱いて受け止めてくださいます。お祈りします。


主なる神さま、あなたの御名を賛美します。人の評価をいつも気にしてしまう私たちです。その愚かさで、どれほど、自分自身を傷つけていることでしょうか。イエスさまはそのことをご存じで、そこから出て来い。十字架の低みにわたしと共に立とうと招いてくださいました。私たちの頑張りではなく、ただイエスさまの憐みに飛び込んで、イエスさまの低みにいっしょに立つことができるように、どうぞ、助けてください。そこからしか、神さまの、イエスさまの憐みの高さを見ることができません。ほんとうの憐れみに生きることはできません。どうぞ、主の憐みの中にいかしてくださいますように。十字架のもとに引き入れてください。感謝して、愛する主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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